雨に咲く花(後)



「うわーーっ、きれい」
「キレイ」
「キ…レェ……」

口々に叫ぶと走り出した子どもたちは、自分たちの身長より背の高い花々に、その姿はすぐに隠れて見えなくなってしまう。

「あまり遠くへ行っちゃダメよ…」

子どもらの背中にかける母親の声にはさほど心配しているような色合いはなかった。なぜなら何かあればすぐに気配を察して駆けつけてくれる父親がいるから…。自分は本当に恵まれていると、ノリコは隣に立っている人を見上げる。他人が見れば機嫌が悪いのかと思われそうな無表情…けれどノリコは彼が常に自分や子どもたちを気づかっていることを知っている。

「うふふ…」
「…?」

突然笑い出したノリコに、イザークは不審気に眉を寄せた。

「あのね、しあわせだな…ってそう思ったの」

無邪気にそう言って、ノリコはイザークの腕を取ると頬をすり寄せた。




「カイザックさんの祭神も見てみたいわ…」

そう言えばもうすぐ花祭の時期だという話をしていた時、ふとノリコがそんなことを言ったので、久しぶりに町長さんやニーニャたちに会いに行こうという話になった。

チモで花の町まで直接飛んでも良かったのだが、それでは味気ないと少し手前の町まで飛んでから馬車を借りて移動している。初めて見る景色や珍しい食べ物…異国の旅に大はしゃぎな子どもたちがなによりも喜んだのは、イザークにとって意外な事だったが、次の町に着く前に日が暮れてしまって否応無しに野宿した時だった。ベッドもランプもない洞窟だったけれど、両親と焚き火の炎に見守られて子どもたちは大興奮だった。

「不思議なものだな…」

はしゃぎ疲れて早々に寝入ってしまった子どもたちを見てイザークはそう呟いた。

「…なにが?」

イザークの腕の中で、たき火のはぜる音に当時の旅の思い出に浸っていたノリコがそっと尋ねる。

「野宿が楽しいものだとは…初めて知った…」
「・・・」


一人で旅をしていた頃のイザークは仕事で町に滞在している時以外は野宿が多かったと聞いたことがある。出来るだけ人から離れていたかったのだと…。まだ10代の少年だったイザークは、どんな思いで毎晩たった一人眠りについたのだろうか…。
イザークは過去の事だと笑って言うが、それでもノリコの胸は痛む。

もし出来る事なら、時を遡ってその頃のイザークの傍にいたかった…


その時ノリコはふと気づいてイザークに尋ねる。

「イザーク…花祭の時期ってことは、あの花もちょうど咲いてる季節だよね…」
「…?」

一瞬何の事だかわからないというように首を傾げたイザークだったが、すぐにああ…と少し複雑な顔をして答えた。みんなで見に行こうというノリコの提案を頷いて受け入れながら、イザークは運命に翻弄されそうになった自分を思い返す。


決まってしまった未来などないと…
未来は自分で作っていくものだと…

ゼーナの言葉にすがるような思いで運命を変える方法を探し続けていたはずなのに、一番大切なものを失う事を恐れるあまり、そこに思い至る余裕もなかった自分……


「いやっ」

ノリコを元の世界へ返してやらなければいけないことが運命だと、それに従わなければならないという自分の思い込みを、 ノリコはそんな短い言葉でいとも簡単に拒否した。 ずっと一緒にいたいとすがりついたノリコにかける言葉もなく、ただおろっとしていた自分を思い出す度、情けなかったなと苦笑を禁じ得ない。

素直に己の願望を叶う為の努力するべきだと… 運命に身をまかせているだけでは決して幸せは手に入らないと、ノリコは教えてくれたのだった。

あれからもう…10年以上の歳月が経っていた。ありがたいことに、ノリコは未だ自分の傍にいる。3人の子どもの母親として…



数日後にあの町にたどり着いて宿に泊った。さすがに宿の女将は自分たちの事を覚えてはいなかったが、幼い子ども連れの一家に目一杯サービスをしてくれた。

偶然なのか
この季節によく起こる現象なのか…
夜更けから早朝にかけて大雨が降った。朝にはすっかり上がっていたが、朝日に景色は濡れて輝き、空気は湿り気を帯びていた。

「あの時と同じだね」

にっこりと笑ったノリコは嬉しそうだった。雨上がりは特にきれいに咲き誇るのだということを覚えていたらしい 。

チモを使っていくことをやんわりとノリコが拒否したので徒歩で向かった。一番下の子を片手で抱えたイザークが、二番目の子の手を握っているノリコのもう片方の手を握り、ユミが後に続く。一時ほど歩くと曲がりくねった道の先に見えた光景に子どもたちははしゃいで走り出し、咲き誇る花々のあいだにあっという間に姿が見えなくなってしまった。


「あのね…」

腕にすがりついていたノリコがそう言って自分を見上げた時、あの時訊きたくって訊けなかった事を、今教えてくれるのだろうという予感がした。

「あたしの世界にもこれによく似た花があるの…紫陽花っていうの…やっぱり雨の季節に咲くのよ」
「そうか…」

案の定…語り始めたノリコの話に耳を傾けるイザークに、もう迷いも恐れもなかった。

「幼い頃からその花を見ると、なぜだか知らないけど惹きつけられてしまって…自分でも不思議だったの…。だから、あの時この花を見て茫然としちゃって…ごめんね…」

イザークがそんな自分の態度に不安を覚えたことに気づいていた…

「おまえが謝ることではない…」

優しいイザークの瞳に励まされるようにノリコは続けた。

「あの時思ったの…あたしは紫陽花見る度にこっちへ飛ばされる自分を見てたのかな…って、前に話したあの夢みたいに…」

ノリコがここへ飛ばされる前に何度も同じ夢を見たということは以前聞いていた。透き通るような花…金色に輝く鳥…それはこの世界の伝説の地だった。誰もがそこヘ行きたいと願うが誰もどこにあるのか知らない地…清らかな幸せに満ちた場所…。

なぜ…ノリコがそんな夢見たかわからない…だが、ノリコはそんな伝説の場所に負けないほどの幸せを自分に与えてくれた。もしかするとノリコ自身がその伝説の地なのかもしれない…すくなくとも自分に取って…イザークはそう思っていた。


「でも、今は…それは違うと思う…」

きっぱりとノリコがそう言って、イザークは怪訝そうに眉を寄せる。

「だって…自分を見ただけじゃ、あんなに惹かれやしないもの…」

当時を思い出しているのか…目を瞑っているノリコは、フフ…と笑う。

「あたしは、ずっとイザークを見ていたんだよ…姿形は見えなかったけどね…紫陽花の花の向こう側にあなたを感じていたの…幼い頃からずっと…」
「…ノリコ」

イザークは腕からノリコを離すと両手で抱きしめる。

「おまえは…おれの傍に…ずっといたのか」
「…そうだよ…イザーク」

あなたは決して一人ではなかった…ノリコはイザークにそれを伝えたくて…ここに来たいと願ったのだった。



「では…」

イザークはノリコを抱きしめる腕に力を込めると耳元で囁く。

「異世界のおまえに見せつけなければな…」
「え…」

少し悪戯な響きに、不思議そうに見上げたノリコの唇を奪う。

『…こ…子どもたちが…』

ノリコが必死に語りかけてくるのを無視して、イザークは…妻でも自分の子どもの母親でもない…ただ愛しい人に何度もキスを繰り返す。


「うふふ…おとうさんとおかあさん…らぶらぶだぁ…」

花の陰からユミが嬉しそうに自分たちを覗いているのを、もちろんイザークは気づいていた。

「とうさん…かあさん…らぶらぶ?」
「ら…ぶ…らぶ…??」

姉の真似をして花陰にうずくまって両親を見ている弟たちに、しーっとユミは人差し指を口にあてた。



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