朝はきらめいて

初めて彼女と出会った頃は
こんな朝を迎えるとは…思っていなかった






階下からざわめきが…

人の声か…



眠りの深みから静かに引き戻されたイザークは
うっすらと目を開いた


いつもの連中だな…
なぜこんな早くから…


窓の外を見れば太陽は高い位置にある
もう朝も遅い時刻だと気づいたイザークの口の端が自嘲気味に上がった


寝過ごしたのか…


ゆうべ…いや、明け方までは確かにこの腕の中にいた彼女は
もう…そこには、いなかった


気怠そうに半身を起こしたイザークは
首を軽く振って眠気を払うと片手で頭を抱えた


ああ…
そうだ

夢を見ていたんだ




『死んでおしまい…イザーク』


以前…何度も夢に現れては…おれを苦しめた…
脳裏に焼き付いた幼い頃の情景…



『近寄らないで…イザーク』

『あんたは人間なんかじゃない…いつか化物になるのよ…』

『いやよ…もう…いや…こわい』



母はおれという存在から目をそらさずに
誰よりもまっすぐと見据えていたのではないか…
その気を狂わす程真剣に…


そんなふうに思えるようになったのは…

己から目をそらし…否定し続けることで
必死に正気を保っていた自分自身に気づいたから…



『どんな姿でもいい
 何者でもいい
 あたしはイザークが好き』


そんなおれを…この運命ごと
いとも軽やかに受け止めた彼女

あまつさえ…
おれが天上鬼でよかった…などと言っていたな



天上鬼はおれの一部でしかないと…
おれは…おれなんだと…
逃げる必要などないと…

彼女のおかげでそう思えるようになったんだ




『イザークは化物なんかじゃない!』


夢の中で…
彼女が珍しく眉尻を上げ睨みつけていた

『彼はあたしたちと同じ…人間だよ…』


彼女の視線の先に…母がいた
 

『なぜ…それを認めようとしないの…』


『あなたに何がわかるっていうの…』

母は泣いていた…


おれの記憶にある母はいつも泣いているか…
狂ったように叫んでいるか…



『あたしにはわかる…』

きっぱりとそう言いきる彼女におれは戸惑った

『あなたは傷ついて苦しんでいるもの…』

『そうよ…たった一人の子供が化物なのよ…当たり前でしょ』


彼女はその表情を緩めると切なげに微笑んだ


『イザークを愛しているのね…』


どこか遠くでけたたましく鳴いている鳥の声を聞いているような…
ノリコの言葉はそんな非現実感を漂わせて…
おれはただ…息を飲んで立ち尽くしている


母は目を大きく瞠いて
信じられない…と言うように彼女を見る

『何を言っているの…!』

『愛しているから…放っておけない…』

『…やめて!』

ノリコの言葉を遮るように耳を手で押さえ母は叫ぶ


初めて授かった子だった
きれいな顔で…自慢したいくらい…
いい子だった…

でも…この子は
化物があたしに授けた子だ


『愛せるはずがないでしょ…』

震えながら言う母に、違う…と彼女は首を振った

『愛していなかったら苦しまないわ』


きれいに煌めく涙が彼女の瞳から溢れてきている

拭ってやりたかったが…
おれは動くことも…話すこともできず…
ただ 二人を見ていることしかできなかった


『あなたはイザークを愛していた…
 あたしにはわかる…』

ぽろぽろと涙をこぼしながらも微笑んでいる彼女は
ただ…愛しくてたまらない…

『…だって、イザークはあんなに優しい人だもの…』


『…あの子は…優しいの…』

母はぽつりと…
ほとんど声になるかならないか…小さな声で訊いた

『うん…すっごく』

なんの躊躇いもなく彼女はきっぱりと言い切って…
ひどく照れくさい思いがした

『おかあさんが愛してあげたから…
 彼は優しい人になれたんだよ』


彼女はなんの迷いもないまっすぐな瞳を母に向けた


『ありがとう…』

『え…』

彼女の笑顔が母を包み込む

『彼を愛してくれて…優しい人に育ててくれて…』


母の顔がくしゃりとゆがんだ


『ありがとう』

彼女は何度も言う




『ありがとう…』

彼女の声をBGMに…

初めておれは…

微笑んだ母を見たんだ





「ノリコ…どこへ行った…」

ゆったりと起き上がったイザークは
バスローブをひっかけると階下へ降りていった



「…おっせぇーぞ…」
「おはよう…イザーク君…なんだか悩ましげな姿だね」

食卓には男たちの姿があった

ここでなにをしている…
そう問いたげなイザークの視線に応えてアゴルが笑いながら言った

「すまんな…あんたがいなくなった後、ずっと飲んでいたんだ
 どうせならここで朝食を…と言い出したやつがいたんでな…」
「いいだろ邪魔くらいしたってよ…これからどーせ…
 いやっていうほどノリコと二人っきりなんだからよ…」


夜通し…おれたちをさかなに飲んでいたのか…
そのわりには元気そうじゃないか…


不機嫌そうに眉をひそめるイザークを気にもかけずに
みんなは楽しそうに朝食を食べながら話している

「あ…ドロスのやつはとっくにつぶれて…
 ジェイダ左大公の家で厄介になってるけどよ…」

「ドロスに無理強いして飲ませたんだな…」

いじめられっこだったドロスは大人になっても人付き合いが苦手で
動物の相手ばかりしている
酒を飲む機会も少なく…酒には弱かった
けれど誰かにすすめられたら断ることも出来ない…

ったく…誰か止める者はいなかったのだろうか…


「はは…まぁいいじゃないか… ドロスも嬉しそうだったしな」

アゴルがイザークを宥めるように笑った


生まれて初めて心から感謝してもらえたことで
生きる価値に気づいたドロスは
ノリコを「恩人」と呼んではばからなかった

その大切な恩人の結婚式だ
ドロスはドロスなりに祝杯をあげることで
ノリコへの感謝の気持ちを現したのだろうか…



おれやドロスのような者に光を…希望を与えてくれる…
それがおまえの持っている力なんだ

何よりも尊い力…


『やだな…そんなことないよぉ』

いつかそんな話をした時
彼女は照れて否定した…


だが…ノリコ

おまえは母に何をした?




「あんたは仕事があるだろう…」

バラゴやアゴルはともかく…
警備隊の制服姿でパンを齧っているアレフに咎めるように言う

「ゼーナさんたちがグゼナに帰る前に挨拶したいと言ってね…」
「…」

隣国の国有占者のお供を警備隊長がじきじき買って出たらしい…


無理矢理つきあわされたらしいバーナダムは
不貞腐れてそっぽを向いている


以前はこいつがノリコに近づいただけで
ひどく腹立たしたかったものだったが…

ノリコを受け入れることが出来ずに悩んでいた日々…
それを懐かしく思い出せることがひどく嬉しかった




台所に通じているドアが開かれたてノリコが現れた
なぜだかその姿が眩しくてイザークは目を細める


「スープ出来たよ〜」

ノリコはいつものように明るく笑っている

「お…悪いな…いきなり邪魔したのに…」
「え…いいよ、いつでも来てね」

バラゴたちに屈託のない笑顔を向けるが…
そこにいるイザークに気づいた途端…
す…っと目をそらした


ノリコ…?

おれから目をそらしたのに…
バーナダムには笑いかけながらスープをそそいでやっている

前言撤回だ…
やはりまた腹が立ってきた…



相変わらず不機嫌そうなイザークをバラゴがからかう

「おいおい…新婚だってぇのに…朝っぱらからそんな面すんなよ…」

そんなバラゴの言葉が聞こえているはずだが…
ノリコはまったく気にも留めずに
全員にスープを配るとそそくさと台所へ戻ろうとする…


「ノリコ…」

耐えきれずにイザークが呼びかけると
ノリコはドアのところでぴった…と歩みを止めた


「イ…イザーク…ちゃんと着替えないと…」

背中を向けたままノリコが言った

「あ…ああ」
「顔も洗ってね…」

そう言いながらピシャ…っとドアを閉めて姿を消した


「…」

閉められたドアを見つめ…
惚けたように突っ立ているイザークの背後から忍び笑いが聞こえてくる

イザークは振り返ると、赤くなった顔で睨みつけた



「君はいったい…ゆうべノリコになにをしたのかな…」

くっくっく…と
笑いを抑え込もうという無駄な努力をしているアレフが訊いた

「なにを…って、あんた…
 普通訊かんだろう…そんなことは」
「まぁ…なんだな…
 まともに顔が見られないようなことだったのは確かだな…」

面白がっているのは丸わかりだが…
取り繕ったような真面目な顔でアゴルやバラゴがしゃべっている


こいつら…
ゆうべ気が抜けるほどあっさりとおれを解放したと思ったら…
これが目当てだったんだな…


顎に手をかけたバラゴがニヤリと笑う姿が目に浮かぶようだ

「無理矢理イザークを引き止めたところで
 別にあいつが楽しい話題をふりまくわけでもないしな…
 それよか朝押し掛けた方が絶対におもしれーぜ」
「す…少し趣味が悪くないか…」
「まぁ…新婚の朝くらいゆっくりしたいでしょうね…」

だから楽しいんですよ…というアレフの目配せに…

「おめぇ…ホントに人が悪いな」
「君に言われたくないね…」


そんな会話を交わしたんだろう…



イザークはちらっとテーブルの端に目をやった

いつものように黙りこくって静かに朝食を食べていた功が
イザークの視線に気づいたのか…顔を上げた

「…」

珍しくその顔に表情を…ひどく疾しそうな…浮かべている

少なくともひとりだけ…まともな神経のやつがいるんだな…


ちなみに功とバラゴはゆうべからこの家には泊まっていない
今朝は無理矢理一緒に連れてこられたのだろう


功の存在に少しだけ気持ちが癒されたが…
それでも…他の面々を見渡してイザークは首を振った


こいつら…
相手にするのも馬鹿らしい…


「くだらん…」

吐きすてるように言うとイザークは二階へ向かおうとするが…



「くだらん…って、あんたにとってくだらないことなのかよ」


そこに食いつくか…バーナダム…


脱力して肩を落とすとイザークは振り返った
バーナダムは赤い顔でムキになっている

「ノリコのとったら…一生に一度のことなんだぜ…」


普段だったらそんなバーナダムをよせ…とか言って止める連中が
楽しそうに静観している…

イザークは大きくため息をつくと…天を仰いだ


おれたちの結婚は道化芝居なのか…



「くだらんのは…あんたたちの妄想だ…
 おれはゆうべ…ノリコには誠意を尽くした…」

そう言うとイザークはくるりとみんなに背をむけてその場を後にした…



「・・・」

残された面々はしばらく…
ぽかん…と呆気にとれていたが…


「なんだよ…誠意…って…」

ボソ…っとバラゴが呟いた

「い…言うな…バラゴ」

アゴルは赤くなると慌ててバラゴを制する


「…おれが思うに…」

アレフがめずらしく真面目な顔をして言う


『イザークのそばなら恐くない…』

イザーク事を迷わず信頼していたノリコ
これからもずっと…そうして寄り添っていくんだろう

王女は騎士の妻になったわけだ…


「ゆうべ…彼は誠意の新しい形をみつけたようですね… 」


「ああ…」

意外なことに…
バーナダムが同意するように相槌を打った


あんたに何がわかる!

泣きそうな声で怒鳴ったあいつ…

今のおれにはいやでもわかるさ…
ノリコは大事にされて…ひどく幸せだって…
あの二人におれの入る隙間なんかないんだって…

そりゃ…あいつのあの態度だもんな…
たまにむかっとさせられるけどよ…

…一生誠意とやらを尽くしてやれよな…



『おい…』

どーんと暗い空気をまとうバーナダムを見て
バラゴがアレフの耳元を手で覆うようにして小声で言う…

『どうしてこいつを連れてきた…』
『え…面白くなるんじゃないかな…と思ったんですがね…』
『おめぇでも戦略誤るのか…』
『…すいません』



「誠意か…」

アゴルが口の中で呟いた


おれが故郷を後にしたのは二人を探る為だった…


アゴルは今でもあの頃の…
ラチェフの隙のない自信たっぷりの姿を思い出せる


偶然からノリコに出会い…
イザークとも一緒に行動するようになった

天上鬼と目覚めでないかと疑ってはいたのだが
二人をいくら見はっていても…
そんな邪悪なものがまったく感じられず戸惑っているうちに…
黙面の事件が起こった

元凶を倒した後…
二人と一緒に再び長い間旅を続けた

ノリコは… 本当に純真な女の子で…
まったく疑うことなくイザークを慕っていた

イザークはさすがに男だから…
別な想いを抱えていただろうに…
今までノリコを大事にしてきたのだ

誠意か…

そんなものはすでに充分尽くしているのにな…



「いやぁ…それにしても目出てぇよな…」

がはは…と豪快にバラゴが笑った

「おまえ…ゆうべ散々そう言っては何度も乾杯させられたぞ…」

アゴルがまた飲ませられるのはごめんだとばかりに顔をしかめるが
構わずバラゴは続ける

「忘れもしない…イザークにかかわったばかりにおれの人生は…」

バラゴがナーダの城でイザークと絡んだ話はすでに散々聞かされているので
また始まった…とみんなはうんざりして黙って朝食を食べはじめる


ちっ…

誰にも相手にされなくつまらなくなって舌打ちしたバラゴが
ふ…と功に目をとめる

「おい…聞け…コウ…」

いきなり名前を呼ばれた功がバラゴを見る

「わかるか…おれ…イザーク…知り合う」
「あ…ああ… 」
「…わかってるのか…」

鼻息荒く詰め寄ってくるバラゴを功は両手で防いで…

「ノリコ…」

…とだけ言った

ノリコが最初にここにいる人々について
いろいろ教えてくれたのだ


「ノリコ…? 
 ノリコがなんか言ったのか…?」

ヒアリングは結構上達した功だが…
しゃべる方はもともと苦手な上に異世界語で…
必死でノリコから聞いた話をわずかに知っている単語に置き換えてみた

「バラゴ…イザーク…戦う…」
「おう…知ってんじゃないか…」

バラゴは満足したように胸を張って、にんまりと笑った

イザークと戦ってバラゴが負けた…と功は言いたいのだが…
…なんと言っていいかわからない…

そうだ…剣の練習の時、バラゴがよく使う言葉…


「バラゴ…弱い…みじめ…」
「…」

あんぐりと口をあけて固まったバラゴに
みんなは我慢出来ず吹き出した


おれ…何か間違ったこと言ったんだろうか…

功は焦って周りを見渡した…


(負けたときのバラゴの口癖『…弱いなぁー、おれ…みじめだぜ』)




「どうしたんだい…?」

閉めたドアに身体をもたらせ放心しているノリコに
ガーヤが声をかけた


「…なんでもないよ」

はっとしてノリコは慌てて答えた
様子は明らかに変だったが…ノリコが無理して笑っているので
ガーヤはそれ以上は聞くまい…とまた手を動かし始める


けれど…

「イザークが起きてきたね」

椅子にちょこんと座っているジーナがにっこりと笑った

「え…そうなの…」
「それで…どうしてノリコったら…?」

アニタとロッテニーナが興味津々で
ゼーナはやれやれ…とため息をついた




チチチ…

小鳥の鳴き声で目を覚ましたあたしは
イザークの腕の中にいた…


彼の腕からそっと抜け出ると
何かに急かされるように服を身につけたんだ

いつもならば、ほんの少しの動きでも
すぐに気づいて目を覚ますイザークなのに…
寝息は乱れず…ぐっすりと眠っている…

珍しいな…

ノリコは朝日に照らされているイザークの綺麗な寝顔を見つめた


一晩中…何度も意識を手放しかけながら引き戻された…

最後の記憶は…
うっすらと 明るくなっている窓の外を見たような気がする

たぶん数時間も寝ていない…
けれど…どうしても…
彼の腕の中にそのままいることが出来なかった




「ノリコ…?」

アニタの声にぼぉーっとしていたノリコは、はっと我に返った

「大丈夫…?」

いつもと違う様子のノリコにロッテニーナも気遣う


「あんたたち…手が止まってるよ…」

ゼーナに注意された弟子たちはびくっとして…
フォークを手に取り磨き出した


朝食の支度などしながら、千津美と弟子たちは
朝から押し掛けて来たお詫びにと新婚家庭の銀器磨きをしていた

ノリコはそんな必要はない…って懸命にとめたのだったが

「おしゃべりしながらでも手は動かせるんだよ」

ゼーナに軽くいなされてしまったのだ


朝一番で新婚のカップルを襲う…そんな計画を聞かされたガーヤたちは
止めても無駄なのはわかっていたので…せめてノリコの負担を減らせたらと
一緒にやってきたのだった


ドアをガンガンぶっ叩いて二人を叩き起こす…

そう息巻いてやってきたバラゴだったが…
前庭の花に水をやっていたノリコに
おはようと挨拶されて調子が狂ってしまったようだった



「イザークは優しくしてくれたのかい…」

ゼーナと弟子たちがきゃぁきゃぁと騒いでいる最中に
そっとガーヤがノリコに聞いた

興味本位からではない…

心から気遣ってくれているガーヤの言葉に
ノリコは朝起きた時から身体にまとわりついて緊張が少し緩んだ気がした
そしたらなぜだか涙がじわっと溢れてきてしまった


「あたし…」

ガーヤは泣き出したノリコをそっと台所から連れ出した

千津美が心配そうに見送っている


典子…どうしたんだろう…
昨日はあんなに幸せそうに輝いていたのに…


「ご…めんなさい…おばさん」
「なに言ってるんだい…」

ガーヤは怒ったように言うと
そのふくよかな身体でノリコを抱きしめる


17の時にこの世界へ飛ばされてからずっとイザークと一緒にいた
彼に抱きしめられて…キスされてはいたが…それだけの関係だった

奥手だったノリコは…
男女の営みのことは保健体育で習った知識だけだった
それすらも…恥ずかしくてちゃんとは聞いていなかった
だから…具体的なことなど知る由もなかった


ゆうべのことをノリコは思い返しただけで
その場から消えてしまいたい程恥ずかしくなる


彼は優しかったけど…
でもあたし…どう振る舞っていいのか、全然わからなかった

あたしってば本当に何も知らなくって
彼の行為に馬鹿みたいに焦って慌てふためいて…
かと思えば…わけがわからなくなってしまった挙句…
眠ってしまったんだ

そんなあたしをイザークはどう思ったのだろう
きっと呆れてるんじゃないかな…

…ただ恥ずかしくて…

さっきどうしても…
イザークの顔がまともに見られなかった


「ノリコ…」

ガーヤは優しく呼びかけた


ノリコはイザークとの新しい関係に戸惑っているようだ
あれ程長い時間をずっと一緒に過ごしていたのに…

イザーク…あんた
どれだけノリコを大事にしてきたんだい…


不安そうな顔のノリコをガーヤは懐かしそうに見た


イザークが連れてきた時のノリコも…
こんな面持ちでいたね…

冷たい態度でノリコを突き放していたイザーク…

自分を置いて去っていくイザークの後ろ姿を
ぼろぼろと泣きながら見送っていたノリコは今…
イザークの妻となったんだ

たった一人で異世界から飛ばされてきて…
よく頑張ったね…ノリコ…

幸せにおなりよ…


「あのね…なんであんたが悩んでいるのか…
 あたしにはわからないけどさ…
 あんたたちはもう夫婦なんだから…
 遠慮しないでなんでもイザークに話してみてごらん」


わかったかい…と言うガーヤにノリコはうんと頷いたが…
その表情は晴れなかった…


イザークと喧嘩した後…同じようなことを言われたっけ…
でも…恥ずかしくって、なかなか言えないことだってある…



台所に戻ってみたものの…今は誰とも話したくなくて…
ノリコは汚れた食器などが入ったかごを抱えると…
そそくさと家の裏側にある水場に行った

千津美が気にしてついて行こうとするが…
ゼーナがその手を握って止めた

不思議そうに見返す千津美に…
ゼーナは大丈夫だと言うように…にっこりと笑った




そこにイザークがいた

「…」



家の裏手に流れている小川から水路を引いて
裏口のところに屋根つきの水場が作られていた

洗濯物や炊事の洗い物はそこでする

各部屋には、水の入った大きな洗面器が置いてあるが
イザークはこっちの水の方が冷たくて好きだと言って
ここで毎朝顔を洗っている


どうしよう…

顔を拭っている昨日夫となった人の姿に
かごを抱えたまま…途方にくれてノリコが足を止めた

気がついたイザークが
黙ってノリコの手からかごを取り上げた

「あっ…いいってば…」

慌てて…そう言うノリコに構わず食器を洗い始める
仕方がないのでノリコも隣に屈みこんだ



「立ったまま…水が使えるといいな…」
「…?」

イザークは片手をノリコが立てば腰の辺りになる位置に上げる

「この辺の高さの水槽に水が流れるようにしよう…」


低い場所から容器に水を汲んで持ち上げるのはノリコには重労働だった
もちろんそんなことをノリコにさせつもりはイザークにはなかったが
自分の留守中にそんな必要が生じた場合が気掛かりだった

しゃがんで洗い物をすることもノリコに負担なのではないか…
ノリコの世界の生活を目の当たりにすれば…
彼女が甘んじてこの世界の不便さを受け入れているような気がしてくる
出来るところから彼女の為になんとかしてやりたい…


イザークのそんな思いやりがノリコには痛い程感じられた
胸の中が暖かくなってなんだか泣きたくなる


イザークは優しい…
相変わらず…すごく優しい…

ガーヤおばさんの言うとおりだ…
あたしったら…ひとりで思い込んで…
馬鹿みたいに狼狽えて…


肩の力が抜けてきたノリコはいつもの素直さを取り戻した

「さっきはごめんね…あんな態度とって…」
「…」
「前にお兄ちゃんにねんねだってからかわれた…
 ホントだよね… イザークも困るよね…」
「…?」

ノリコがいきなり何を言い出したのかわからずに
イザークは怪訝そうにノリコを見た

「あたしね…よく知らなかったの」
「…ああ…」

消え入りそうな声でノリコが言うと
イザークは短く相槌を打った


初めて受ける行為に戸惑い…
恥ずかしがって…
あたふたしていたノリコ

そして…


「体は大丈夫か…その…無理をさせてしまったのでは…」

少し疾しそう言うイザークに
ううん…と返事をしてノリコは頬を染めた

「あたしイザークに呆れられたかな…
 なんて思っちゃったのよ…」
「呆れる…おれがノリコを…?」
「だってあたし…全然ロマンチックじゃなかったでしょ…」
「ロマンチック…?」
「うん…新婚さんて…もっと甘々なのかなって思ってたから…」
「…」


甘くないのか…おれたちは…
それもこれも…あいつらの所為ではないか…


イザークが盛大なため息をついて…
なんだかおかしくてノリコはくすっと笑った


「やっと笑ったな…」
「…」


あたしの隣でイザークも微笑っている…

ああ…そうだ
甘い…とかロマンチックとか…
そういう問題じゃなくて…

こうして傍にいられるってことが
一番大事なのに…

長いあいだ一緒にいたから
それが当たり前になってしまって…
あたしは大切なことを忘れてしまって…
どうでもいいことで、悩んでしまっていたんだ



ノリコの表情がだんだんと晴れてきた

昨日、自分の妻となった彼女の笑顔に
イザークはいまだ突き動かされてしまう


「ノリコ…」
「…え?」

急に肩を引き寄せられて…
気がつくと…
ノリコはイザークの腕の中に閉じ込められていた

洗っていたお皿が水場の底に沈んでいくのが見える…


「おれが呆れるとしたら…
 おまえに溺れようとしているおれ自身になのだが…」


あたしに溺れる…?

意味はよくわからなかったけど…
自分を否定されているわけではないんだな…と
ノリコはイザークの腕の中でほっと息をついた


「あたし…これからもずっとここにいてもいいんだね…」

無邪気に問いかけるノリコを
夢とは違う…思うままに動かせる身体に感謝しながら
イザークはその腕にギュッと抱きしめる


「おれたちが昨日誓ったのは…そう言うことじゃないのか…」

ふざけているのかな…
少し情けなさそうなイザークの表情が可笑しかった…

これからも…こうして、彼とふざけたり…笑ったり…
時々は喧嘩もするかもしれない…

だけど一番大好きなここから離れたくない…

離れない…

絶対に…



「そこをどけ…って言ったって、もう…どかないからね」

ノリコもふざけてそう言ってみた…

「…ああ…」

自分の胸に顔をつけたまましゃべるノリコの声はくぐもっていて
彼女の言葉が心の内側に響いてくるような…そんな気すらする

「ずっと…そこにいろ」
「…」


イザークの声がどこかしら甘く響いて…
ゆうべ彼から与えられた余韻が身体の隅々で疼き出す
初めて感じる…不思議な感覚に…
ノリコは思わず身を竦ませ…彼の胸に縋り付いた


彼の鼓動が聞こえる…

やっぱり…ここは安心出来る


けれど今朝…そこから逃げるように抜け出したんだ
ただ恥ずかしくて…
イザークが目を覚ます前に
服を着なくてはいけないような気がして…


…そういえば…

ノリコはイザークの胸から顔を上げた

「イザーク…今朝、よく寝てたね…」

いくら気をつけて、そ…っと起きたとしても…
気配に敏いイザークはすぐに目を覚ますはずなのに…

「珍しいよね…
 あんなにぐっすり寝ているイザーク初めて見たかも…」


「ああ…」

イザークの迷いなどないまっすぐな視線がノリコを捉える

「ゆうべ、おれはおまえの全てを手にした…」

ビクン…とノリコが身体を震わせる

「おまえの心と身体…そして将来すらも…」


間違いないか…と問うイザークの瞳に
ノリコは恥ずかしそうにこくんと頷く


「安心したんだ…」

くすり…とイザークが悪戯っぽく笑う

「え…」



物心がつくころから…
いつも不安を抱えていた…

自分が天上鬼という化物になるという不安…
一人で旅をしていた頃はそんな不安に押しつぶされそうだった

ノリコと出会って…
運命から逃れられる術を見出した後にも…
今度は彼女を失うかもしれないという不安におれは怯え続けた…


ゆうべ彼女を抱いた後…不思議とそんな不安が消えてたんだ

だから…


「安心して寝てしまった」
「やだ…イザークってば…」

自分のお株が奪われたノリコはからかわれているのではないかと
疑うようにイザークを見上げる



「夢を見た…」

ふざけた口調は影を潜め…
イザークは…ぽつりとそう言った

「夢…?」
「母の夢だ…」
「おかあさんの…」

母親の夢にうなされるイザークを思い出して顔色を変えたノリコに
イザークは心配するなと言うように微笑んだ

「母が…言ったんだ…」
「…?」


イザークは腕の中のノリコをギュッと抱きしめると
耳元で低く掠れた声で囁いた

「おまえを大事にしろ…と」



『イザーク…良かったね…』

夢の中の母は微笑みながら…ぽろぽろと涙を流していた


『いい娘だよ…大事にしなさいね…』


ああ…もちろんだ…

おかあさん


気がつけば…
おれの目からも涙がこぼれていた





「イ…イザーク…やだっ…いやだってば…」

ノリコの声が聞こえて部屋に居た全員がそちらに目を向けると
入り口のドアが開き両腕にノリコを抱えたイザークが現れた

「みんないるのに…ねぇ…恥ずかしいよ」
「こいつらを気にかける必要はない」

そのまま食卓の椅子に座ったイザークがじろっと全員を睨めつける

「勝手にやってきたんだからな…」

「おい…なにもそんな言い方しなくってもよ… 」
「…悪かったねぇ…押し掛けてさ…」

「かまわん…」

同時に言葉を発したバラゴとガーヤを軽くいなしたイザークは
その表情を緩めると愛おしそうにノリコの髪を手で梳きながら
頭の上にそっとキスを落とした

「…」

抗議するのを諦めたノリコはただ…
イザークの腕の中で照れてじっとしている


居心地が悪くなるような甘く艶やかな空気が辺りを漂い
誰もが困って…目をそらしたり…空咳したりと落ち着かない中…
千津美が慌てて立ち上がると、二人の前に朝食の皿を並べ始めた

けれど千津美は相変わらずで…

「きゃぁ」

パンの入った籠を抱えたままバランスを失って倒れそうになった

ノリコを抱えているので両腕がふさがっているイザークは
仕方がないので気を放とうとしたところ…
す…っと後ろから伸びた手が千津美を支えた

「あ…ありがとう、藤臣くん…」

こんなこともあろうかと…
一緒に席を立って傍に控えていたらしい

真っ赤になった千津美からパンの籠を取り上げて机の上に置くと
功は千津美の背中に手をあてて自分たちの席に戻った


「世の中そっくりな人間が3人いる…って言うけどよ」

ボソっとバラゴがガーヤの耳元で囁いた

「コウの野郎… 女(スケ)に対する態度も
 ちょっと前までのイザークにそっくりじゃねぇか」
「世の中…って言っても…違う世界なんだけどね…」

ガーヤはバラゴの言葉を混ぜっ返してイザークを横目でちらりと見る


無口で無愛想…
なのにノリコにひどく過保護だったんだよね…

いつも寄り添ってはいるんだけれど…
端から見ればいやに焦れったかった二人だった
だけどプロポーズをした頃からイザークの態度が変わってきたんだ

人目を気にせず抱きしめたり…口づけたり…
明日また会えるっていうのに…えらく名残惜しんだり…
昨日の結婚式の時なんか…

あの子も少しは素直に想いを行動に出せるようになったんだ…
そう…あたしは喜んだものだった

喜んだけどねぇ…


ふう…っとスープを掬った匙に息をかけて冷ますと
膝にのせたノリコの恥ずかしそうに開けた可愛らしい口に注ぎ込む
口の端からこぼれたスープを指でぬぐうとぺろりと舐めて…
美味いな…などと言いながらノリコに微笑んでいるイザーク


「い…いい加減におし…イザーク…」

なんだ…とガーヤを見るイザークの表情は
見事なほどいつもの超然としたものだった


「よっぽど…ノリコと二人きりになりたいのかな…」

アレフはその口元に皮肉な笑いを浮かべた

「わ…わざとやってんのかよ…
 おれたちを帰らせようとして…」
「…バーナダム」

顔を赤くして突っかかってきたバーナダムを押し止めて
アゴル申し訳なさそうにイザークに言う

「おれたち…帰った方がよさそうだな…」

どうやらイザークが自分たちを帰らせようと
ノリコを利用して一芝居うっていると思っているようだ

「何を言ってる…?」

そんなことを知ってか知らずでか…
イザークはアゴルの言葉に眉を顰めた

「なにもそうわざとらしくべたべたしなくってもよ…」
「わざとらしい…だと」

そう言ったバラゴにイザークはぎょっとするような鋭い視線を投げる

「おれたちは新婚だから…甘々で当たり前だ…」

「…」
「…」

真顔でそう言い切ったイザークに誰も返す言葉がない



あたしが…あんなコト言った所為だ…

ノリコがもじもじと身体を動かした


「もっとも…」

困ったように自分を見るノリコを
安心させるようにイザークが微笑んだ

「新婚の間だけとは限らんが…」


イザークが再びノリコに朝食を食べさせはじめると
ガタガタと椅子を引く音が一斉に響いた




「イザークのヤツ…デレデレしやがって…みちゃおれん」

面々は馬や馬車に乗って町へ帰ろうとしていた…

からかってやろうと意気込んでやって来たにもかかわらず
あてられて逃げるように出てきてしまったことが悔しくて
バラゴがぶつくさと愚痴っている


「なにが…新婚の間だけとは限らん…だ」

アレフと並んで馬車の御者台に座っているバーナダムは
未だに怒り心頭な様子だった

「あんなベタベタをこれからもするっていうのかよ…」
「いや…案外、ずっと続くかもね…」

やれやれ…と失恋をまだ引きずっているらしい部下に
何気なく口にしたことがやがて事実となることを
アレフは…もちろん他の誰もまだ知らない



出会い
Topにもどる