イザークとノリコが住む家は、木立に囲まれ近くを小川が流れる。バラゴが揶揄して「自然の要塞」などと言うこともあるほどだった。
町からさほど離れてはいないが、徒歩で町の中心まで行くには、特に女の足だとかなり時間がかかってしまうので、必然馬や馬車を使うことになる。
ノリコは馬や 馬車に乗れるようにはなっていたが、都会で生まれ育ったせいか馬の扱いが苦手なことをイザークは知っているので、一人で乗ることは禁じられていた。
用があってイザークが不在中に町へ行かなければならない時は、前もって誰かに頼んで馬車に乗せてもらうことにしているし、緊急時には呼べばイザークがチモで飛んでくるので、特別不便を感じたことはなかった。
それに必要な物はイザークが仕事帰りに買ってきてくれる。なにしろ携帯並みに便利な通信能力があるのだから、使わない手はない。
『イザーク…今いい?』
『なんだ…』
『あの…ちょっとお砂糖切らしちゃって…それにランプのオイルもなくなりそうなの…』
『ああ、わかった…』
などというやり取りができるのだ。
イザークはいつだっていやな顔ひとつせずに願いを聞いてくれるから、ノリコは遠慮せずに頼むことが出来る。そして夕刻になると、市場でイケメンな剣士がシビアに値切りながら買い物をする姿が、頻繁に見受けられるのだった。
それでもノリコだってたまには自分でいろいろ選びたくて、幼い子供たちを連れて買い物に行く事がある。今日もお昼過ぎに馬車に乗せてもらって町にやってきた。まずは学校に行ってユミを迎えてから市場へ行く。そして買い物が終わったらガーヤの所でイザークを待ってから一緒に帰るつもりだった。
市場のある広場は店が開いている時間帯は、馬車も馬も乗り入れが禁じられている。だからノリコはつい気を緩めて、子供たちから手を離していた。
ガラガラという車輪の音が聞こえてきて、何事かとノリコが音のするほうに振り向いた時だった。
「おかーしゃーん…」
通りの向かい側にある店をのぞいていた下の男の子が、何か面白い物でもみつけたのだろうか… 、笑いながらこちらへ向かって駆け出してきた。
「危ないっ…!」
青くなって叫んだノリコも駆け出したのだった。
「ねぇ…もっとスピード出せないのぉ…?」
「無理ですよ…こんなに人が一杯いるのに…」
御者の答えが気に入らなくて、フン…と女は鼻を鳴らした。向かい側に座っている男がそんな妹に合わせて文句を言う。
「こんな雑魚の一匹や二匹…馬に蹴散らさせたり、轢いちまってもいいんじゃない…?」
「…」
不快そうな表情を前に向けたまま、御者は何も答えずに慎重に馬車を進めていく。
他国の王家へ嫁いでいった国王の従姉妹の子供たちが…子供と行っても20代半ばの大人だ…今、ザーゴに遊びに来ている。甘やかされて育った二人は、 やることなすこと無茶苦茶で、さすがにバロイ国王は顔をしかめているらしい。
今日は市場見学に来たのだが、馬車から降りるのはいやだとそのまま市場の中へ入ってきた。 パロイ国王や家族ですらそんなことはしない… 城の警備兵たちは複雑な顔をしながらも、仕様がないので馬に乗ったまま馬車に付き添っていた。
「うわっ…!」
馬車の前に飛び出した小さな男の子の上に、母親らしい女が反対の方向から駆け出してきて覆い被さった。御者は慌てて手綱を強く引くと車輪が大きな音を立て、馬の蹄がもう少しで母子の体に乗り上げるところで馬車は止まった。少しでも遅かったら危なかった…御者や周囲にいた人々はほっと胸を撫で下ろした。
「ちょっとぉ…どおしたのよ…」
急に止まった勢いで馬車の椅子からずり落ちた妹姫が、打った額を手で押さえて窓から顔を出したが、御者はもう飛び降りて母子の元に駆けつけていた。
「あんた、大丈夫かい…?」
「え…ああ、良かったぁ」
倒れたまま震えていたノリコは顔を上げる。馬車が止まっているのを見て無事だったとわかった途端、満面の笑みをその顔に浮かべた。
「…!」
その笑顔に魅かれたのか、文句でも言ってやろうと馬車を降りてきた兄君の足が止まった。
「おかあさん…」
母と弟がもう少しで馬車に轢かれそうになるところを見ていたユミと上の男の子は、ノリコに駆け寄って抱きつくと泣き出した。下の弟はノリコに抱かれてワンワン泣いている。
「痛っ…」
泣き出した子供たちを宥めようと起き上がった途端、右足首に激痛が走りノリコは顔をしかめる。
「どうしたんだい…」
「あ…あの、足首をひねったみたいで…」
御者が警備兵の一人を見ると、彼は頷いて馬から降りた。怪我をしたノリコを医者へ連れて行くつもりらしい。
「ねえ、きみ…本当にこの子たちの母親?」
年齢のわりには幼い顔だちのノリコを覗き込むように兄君が訊ねた。どう見たって3人の子持ちには見えない…子守りかなにかだろうか…と訝しげだ。
「そうだよっ…」
母親よりも素早く、涙を拭いながらユミが答える。市場で馬車を走らせた人たちを決して許しはしないという、幼いながらもその表情には正義感で溢れている。
「なにしてんのよ…早く行きましょうよ…」
焦れたように言いながら、妹姫も馬車から降りてきた。慌ててノリコ達を馬車の前からどかせようとする警備兵を兄君が手で制する。
「僕たちの馬車に乗せていってあげるよ…」
「えーっ」
不満そうに頬を膨らます妹にウインクして、 ノリコを抱き上げようと兄君が腕を伸ばした時だった…
「ノリコにさわるな!」
「え…」
生まれてから一度もそんな言葉遣いをされた記憶がない兄君は、 キョトンとして声のした方を見上げると、美形の男が睨みつけていた。剣を下げているところをみると、渡り戦士らしい…それにしては些か生っ白くて弱そうだが…すでに妹姫はうっとりとその男を見つめている。
「きみねぇ…ぼくが誰だか知ってるの…」
兄君は誰かが「ここにおわす方は…」と言ってくれるのを期待して警備兵たちにちらっと視線を送ったが、なぜだか警備兵たちは困ったように視線をそらしている。
「大丈夫か…」
兄君には全く興味を示さずにイザークはノリコのそばに片膝をついて屈み込んだ。
尋常でない程ノリコの気が乱れたのを感じたイザークがチモでシンクロしてきたのだった。そこで目にしたのは、馬車の前でうずくまっているノリコと泣いている子供たち… 胸からいやなモノが込み上げてきたが、ユミの言葉がそれを決定的にした。
「おかあさん達、もう少しで轢かれそうになったんだよ…」
かなり際どかったことは、ノリコのほんの手前で停まっている馬車を見ればわかる。
体に食い込む馬の蹄…車輪に轢かれているノリコを想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
もしかするとおれはノリコを失っていたのか…
イザークの中に形容しがたい不安と怒りが同時に込み上げて身体が震えてくる。もうずっと長いこと穏やかな生活を送っていたイザークが、そんな気持ちになるのは、本当に久しぶりのことだった。
「なぜここに馬車が…」
自分たちを見上げているイザークの視線から殺気が伝わってきて、 警備兵の一人がおずおずと言った。
「この方たちはヤンスク国の王子と王女で…」
だから逆らえなかったと彼は言い訳しているのだが、当の本人たちはやっと身分を明かしてもらえて自慢そうに胸をはっている。
イザークはジェイダ左大公の警備隊だけではなく、ザーゴ国軍や城の警備隊にも剣の指南をしている。粛々と剣を教えるイザークが、その外見からは計り知れない程の遣い手だということは、警備兵たちはもう充分にわかっていた。 彼の妻子をもう少しで轢き殺すところだったのだと思うと、冷たい汗がじっとりと染み出てくる 。
「馬車に乗せていってくれるんだったな…」
「え…」
なにもなかったような口ぶりでイザークはそう言うと、足を怪我したノリコを抱き抱え馬車の中に運んだ。進行方向に前を向いている座席にノリコを座らせると、子供たちもノリコの横に並ばせた。ノリコが買った品物を馬車の中に投げ込むと、兄妹にくいっとあごをしゃくる。
「あんたたちも乗れ…」
「おいっ…」
その傍若無人な態度にムカっときた兄君が何か言いそうになったが、今度は妹姫がそれを止めた。
「いいじゃない…少し我慢しましょうよ…」
馬車の中で二人は窮屈そうに並んで腰かけた。一番小さな子を膝にのせ、両脇に二人の子を座らせているノリコを、妹姫はしげしげと眺める。 (どこにでもいる娘じゃないの…)鼻の先でくすっと笑った。この娘がどんな縁であの剣士と一緒になったのか、そんなことはどうでも良かった。自分には一国の王女としてのプライドがある。
「あたし決めたわ…あのひとをモノにする…」
「おまえは昔っから面食いだったからな…」
兄君がやれやれといった風に首を振った。
「あら…兄上だって…」
ちらりとノリコを見ながら、すでに彼女に興味を示している兄に言った。
「ま…子持ちでも悪くないかな…」
兄妹はそんな会話をノリコたちの前で平気で交わしていた。
子供たちは何を言っているのか、意味がよくわかってない。
イザークがひどく怒っているのに気づいているノリコは、やっかいなことにならなければいいが…と、それが気掛かりで兄妹の会話はあまり気にしていなかった 。
家に着いたらしい…馬車がガタンと止まった。
外側からドアを開けたイザークが差し出した手に、ノリコは体を預けた。父親から目で合図されたユミは、弟達の手を握って馬車から降りる。
「あんた…」
兄君に向かってイザークは馬車の中にある荷物を顎で示した。
「荷物を一緒に持ってこい…」
「き…きさま、ぼくを誰だと思っている… 」
自分を顎で使おうとするイザークにキレた兄君は、警備兵たちにこいつを不敬罪で捕まえるよう命令しようと馬車から飛び降りた。
「…?」
こじんまりとした家の前に停まっている馬車の周囲に警備兵の姿は見えなかった。御者台にも御者はいない…きょろきょろと兄君はあたりを見回すが、人里離れた一軒家で人っ子一人見えなかった。
「あんたたちは城へ戻っていい…」
市場で兄妹たちを馬車に押し込めたイザークにそう促された御者や警備兵は、お互いに戸惑った顔を見合わせた。
「だが…」
「バロイ国王へはおれが責任を取ると、そう伝えてくれればいい…」
「…」
イザークの口調には有無を言わせないなにかがあった。それに、あたかもバロイ国王が彼のことを知っているような口ぶりで…その隊の責任者らしい男が全員を見渡してから、こくんと頷いて同意を示した。一隊は御者も含めてその場から立去り、イザークが一人で馬車を走らせてきたのだった。
「暗くなるとこの辺は、人を襲う獣が出る…」
まったくの嘘だったが、世間知らずな兄妹を脅かすには充分なインパクトで、そこから逃げ出すことを躊躇わせた。後で城まで送ってやるというイザークの言葉を無理矢理自分に信じこませて、兄妹は取り敢えずイザークの言葉に従うことにした。
ノリコを抱えたイザークが家の中へ入る。弟たちの手を握ってユミが続いた。買い物の荷物を抱えた兄君と妹姫が最後からついてきた。
「腫れている…冷やした方がいいな…」
椅子に座らせたノリコの足元に膝をつくと、靴を脱がせノリコの足を見たイザークは振り返って所在なげに立っていた兄君を見た 。
「あんた…」
「え…」
「水を汲んでこい…」
桶を渡すと水汲み場に通じるドアを指差した。
「な…」
抗議しようと口を開きかけた兄君だったが、すぐに諦めたように肩を落とすと桶を持ってドアから出ていった。
「えれー豪華な馬車だな…こりゃ」
「これは…王家の馬車だ…」
「王家の?…それがなんでこんな所に停まってるんだ」
しばらく経った夕刻のことだった。
勤務中に突然消えてしまったイザークを心配したバラゴとアゴルが、様子を見にやってきた …というのはもちろん口実で、夕飯にありつこうとしているのはばればれだったが…。
「君たち…」
家の前に停められている馬車を見ながら話している二人を見つけて、薪を取りに行かされた兄君が駆け寄ってきた。
さきほどやってきた女傑は、自分の訴えに全く耳も貸さなかった。しかも市場に馬車を乗り入れたと聞いた途端、怒り出して説教を始める始末だった。
自分は尊き身分なのだ…こんな平民達はひれ伏せて当然なのだ…新たにやってきた二人が、それを理解出来るまともな人間であることを兄君は願った。
「なんだ…おめぇ…」
煌びやかな服装を身に着け、情けない風情ながらどこか傲慢な兄君の態度が気に入らないバラゴが眉間にしわを寄せる。
「わたしは、ヤンスク国の王子…」
「それが、どーした」
大抵の者ならここで畏まるものだが…
この男もこの家の人間と同類なのか…
もしかすると、薪などを抱えているのがいけないのか…
は…っと気がついた兄君は薪を足元にばらばらと落とすと、威厳をこめて言った。
「我が母上は、バロイ国王の従兄弟、ナーダ王子の妹君だぞ…おっ…おい」
エッヘンと偉そうにはった胸ぐらをぐいっと掴まれた兄君が、びっくりして目をむいた。
「うるせぇ…つべこべ言わずにさっさとその薪拾って運べ…」
「…」
この世で一番を争う程、大嫌いな人物の名前が出てきてブチギレたバラゴを、アゴルが宥めすかして家の中へ消えて行くのを、涙目の兄君が見送った。
「あたしは、王女様なのよ!」
台所では、何をさせてもまったくの役立たずで…パンの生地をこねろといわれた妹姫が、手を粉だらけにして文句を言っている。
イザークが今日は何もしなくていい…と言ったにもかかわらずノリコは座ってでも出来る野菜の皮むきなどをしている。
「あんたね…手先で捏ね回すんじゃなくって力を込めて…
ああ、力がなければ体重をかけて捏ねてみな…」
訪ねてくる予定のノリコ達が来なくて、不審に思ってやってきたガーヤだったが、市場での出来事を聞いて、この兄妹にはひどく怒っている。
「体重って言ったって…あなたとは随分違うと思うけど…」
「あんだって…」
二人の会話を聞きながらノリコはくすっと笑う。
王女様か…
北にある小国の王女の婿にという話から、いろいろ誤解があって…イザークと初めての大喧嘩をしたのは結婚する前のことだった。
あれからもう何年経ったのだろう…
「ねぇーー…聞いてるの?」
焦れた妹姫のヒステリックな声に、うっとりと思い出に浸っているノリコは、はっと我に返った。
「あ…すいません、考え事してて…」
「あのね…あなたが彼と別れがたいというなら…愛人になればいいの…
一国の王女の婿であれば、愛人の一人や二人いるのは当たり前だからね…」
「は…?」
思わずまぬけた返事を返してしまったノリコだったが、話の展開は薄々読めてきた。この手の話は初めてじゃない…相手が王女っていうのは二度目だけど…貴族やお金持ちのお嬢さんだったら数え上げればきりがなかった。
「渡り戦士の妻よりもずっと贅沢で楽な暮らしが出来てよ…」
「イザークはもう渡り戦士じゃない、左大公家の警備員だ」
ガーヤが訂正するが、妹姫に取ったらあまり変わりはない。
「あらそうなの…ま、そんなことはどうでもいいけど…」
イザークはさっさとどこかへ行ってしまったので、ノリコ相手に自分と結婚した方がイザークの為だからなどと妹姫がぺちゃくちゃしゃべっているのを、ノリコは黙って聞いていた。
「下らないことしゃべってないで、手を動かしな…」
「な…なによ、さっきからその口のきき方…あたしを誰だと思ってるのよ…」
「ヤンスク国の王女様だろ…」
「ま…」
『おれはおまえの全てを手にした…心も身体も…将来すらも』
結婚式の翌朝、イザークにそう言われたことを覚えている。
あたしの全てはイザークのもの…
だからあたしは怖くない…
いつでも安心していられるんだ
「イザークはどうしたんだ」
バラゴとアゴルが部屋に入ってきた。ガーヤが簡単に今日の出来事を説明すると、アゴルが心配そうな顔をする。
「危ない所だったな…怪我は大丈夫なのか」
「うん…ちょっと足をひねっただけ…動かさなければそんなに痛くないし…」
「イザークのヤツ…大騒ぎだったろう」
「ううん…そんなことないよ…」
表に出ないイザークの感情が、ひどく怒って荒れていたことにノリコは気づいていたが、それは黙っていることにした。
「ところでイザークはどこだ」
「イザークなら薬草を探しに行ってるよ」
「薬草…?」
「常備薬くらい置いてあるだろうに…」
バラゴやアルゴが怪訝そうに言ったが、くすり笑ったガーヤが片目を瞑っておどけたように言う。
「乾燥させたものより、採ったばかりのほうが効くんだと…」
「ははん…」
バラゴやアゴルも面白そうに笑うと、わかったと頷いた。
ノリコは言わなかったが、ノリコや子供が轢き殺されそうになったイザークの怒り具合ならば推して測れる。そしてもっと確実に…手に取るようにわかるのは、今イザークがノリコの足の為に最良の薬草を探しまわっているだろうということだった。もしかするとグゼナの国境にある珍しい薬草がみつかるという草原まで、チモで飛んでいったかもしれなかった。いや、行っているだろうという確信すら涌き上がってくる…。
「相変らずあいつは…」
「ああ…まったく…」
「いったい…なんの話よ!」
王女の自分を紹介しようとすらしない、まったく無視してわけのわからない話を続ける面々に、再びヒステリックに妹姫が叫んだ。
「だからよ…イザークの過保護の話、してんだよ…」
面倒くさそうに、それでもバラゴは答えてやる。
「あなたね…口のきき方に気をつけなさいよ…あたしは…」
「ヤンスク国の王女様だろ」
さっきガーヤに言ったのと同じセリフを言う妹姫に、あっさりとバラゴが答える。
「知っていたのね…」
それなのにこの態度…城に帰ったら絶対にこの人たちまとめて不敬罪で逮捕させると、心に誓う妹姫だった。
「ああ…あんたのまぬけな兄貴に外で会った」
「まぬけですって…」
かっとなりかけた妹姫だが、兄のことを思い出して急ににこやかな笑顔をノリコに向けた。
「そうだ、あなた…兄上の愛人になりなさい…」
「…」
「兄上はいずれ国王になるのよ…
国王の愛人の方が王女の婿の愛人よりずっと良くってよ…」
この人にとったら目も眩むような素晴らしいことを教えて上げているのが嬉しくって、妹姫ははしゃいでいる。
「…」
ノリコたちはそんな王女を、ただ 呆れて見ていた。
ヤンスクの国王はバロイ国王のように聡明な人物であった。
ただ、政略結婚で妻となった王妃は兄同様に残念な性格で、その子供達も然りである。当然、寵妃は何人かいて、父親の聡明さを引き継いだ王子もいた。あの国王のことだから、きっと跡継ぎはそっちの王子に決めるだろう…そんな噂がこのザーゴにすら伝わってきているのを本人達は知らないらしい。
「ノリコ…」
ドアが開いてイザークが入ってきた。王女が目をハートにして、粉だらけの手のままイザークへ駆け寄る。
「薬草が見つかった…」
「あのね…あたし、あなたと結婚してあげてもいいわ…」
「今、湿布してやる」
「そしたらあなた、ヤンスク国の王女の婿になれるのよ…」
「足はまだ痛むのか…」
「ねぇ…もう警備隊の仕事なんかしなくっても…」
「冷たくなってしまったな…」
「…」
王女を無意識にかガン無視してノリコの足元にひざまずいたイザークが、桶からノリコの足を出すと膝に抱え布で包んだ。長いこと水につかっていた足は冷たくなっていてイザークの眉が曇る。
「ううん…おかげで痛みが引いたよ…」
足先が冷えやすい自分を気遣ってくれているのが嬉しくて、ノリコはにっこりと微笑んだ。
どうしてここの家の人間は人の話を聞こうといないのだろう…又しても焦れてきたが、相手がイザークなので鷹揚に訊ねた。
「ねぇ…あなた、あたしの話…」
「…王女の婿だと…」
どうやら話は聞いていたらしい…。イザークがノリコの足から顔を上げて妹姫の方を向いた。無表情ながら、美しく精悍な顔だちに妹姫の胸がどきんと高鳴った。
「王女とならば、とっくに結婚している」
「え…」
「おれにとっては、ノリコが唯一の王女様だ」
不思議そうに小首を傾げた妹姫からノリコへと視線を移したイザークが真顔でそう言うと…
抱えていたノリコの足にそっとキスを落とした。
「イザーク…」
「無事で良かった…」
絞り出すように呟やかれた声が、イザークが決してふざけていないことを物語っていた。
ノリコの腫れた足を見た途端、今日ノリコの身に起こったことが思い返されて、むらむらと湧き上がった怒りを制御出来るか危うかった。怒り狂った自分はこの兄妹をどうにかしてしまいそうで、ノリコの足を桶につけたまま、薬草を探してくると言って家を飛び出したのだ。長いこと必死で薬草を探しながら、頭を冷やしていたのだ。
家に帰ってみれば、ノリコがまた笑顔で迎えてくれた。失わずに済んでよかったとほっとすると同時に、このノリコの笑顔をおれは守り続けるんだ…たとえ過保護と笑われたって構わない…王女を守る騎士のごとく彼女の傍にいる…自身に改めて誓ったイザークだった。
「ごめんね…心配かけて」
「…いや…」
そんなイザークの気持ちは、ノリコにはわかる。先ほど感じた怒りはもうイザークからは伝わってこない。ただ真摯に自分を想ってくれる気持ちが嬉しくて…ぽろりと涙が溢れてきた。
イザークは立ち上がるとノリコを抱え上げ、唇で涙を拭う。
「少し横になった方がいい。上で手当をしてやる」
「…」
冷えた足はおれが暖めてやる…などと言いながら二人の姿が部屋から消えた。もう慣れているので誰も気にもせずに…ガーヤは料理を続け、バラゴとアゴルは食前酒を勝手に棚から取り出して飲む準備を始める。
「あ…あの…」
「ああ…もういいよ、あんたは…」
いつまでたってもパンの生地がまとまらないので、ガーヤが妹姫から奪うと勢いよく捏ね出した。
薪を運び終えた兄君と妹姫が所在無さげにただ突っ立っていた。
夕飯時にイザークは降りてきたが、ガーヤに子供を頼むと言って二人分の食事を持ってまた上がってしまった。
「おめぇら…下手したら今頃命なかったぜ…」
「イザークは意外と落ち着いてたな…」
「薬草を採りに行く前は、そうでもなかったけどね…」
「…」
「…」
ヤンスク王家の兄妹も無理矢理食卓につかされて、質素だけれど美味しい料理を食べていた。残念なことに伯父同様相当鈍いこの兄妹は、どうして自分たちの命が危なかったのか、わかっていなかった。イザークのノリコへの想いの強さも、イザークの真の力すらも知らないのだから仕様がないと言えば仕様がないが…。王家の血筋の自分たちを、簡単に手にかけることなど出来ないと信じ込んでいる。
だから当然、バラゴ達の会話は理解出来ないし、食卓の反対側からずっと自分を睨みつけている小さな女の子のことも、『この家は王家に対する尊敬を子供にきちんと教えていないらしい…』くらいにしか考えていなかった。
夕飯が終わる頃に、控えめに家のドアをノックする音が聞こえた。
城の警備隊が、兄妹を迎えに来たのだ。
見送る為に家の主が姿を見せることもなく、二人はその家を後にしたのだった。
後日談。。。
「伯父上…どうにかして下さい」
自分らに非礼を働いたあの連中のことを申し立てても、バロイ国王はただ苦笑いするだけで、逆に市場へ馬車を乗り入れたことを諌められてしまったので、兄妹は伯父に泣きついたのだ。
まだあきらめきれない兄妹は、出来れば全員不敬罪で投獄させて、あの無礼極まりない者達を足元に這いつくばらせ、命乞いさせ…イザークとノリコをヤンスクまで連れて帰るつもりでいた。
あの白霧の森での盗賊の一件から、ナーダは囚われの身という程ではなかったが、監視下に置かれていた。それでも王家の一員としてある程度の影響力は持っている。
「なに…それは随分と非礼な…」
話を聞いたナーダは、可愛い甥と姪に起こったことに激怒したが…
「その男…どこの所属だ…」
「確か…左大公家の警備員とか…」
左大公と聞いてナーダは、すごくいやな顔をする。とにかく、あの男が苦手なのだ…だが、たかが警備員ではないか…気持ちを取り直して再び訊ねた。
「して、名は何と言う…」
「確か…イザーク…イザーク・キア・タージと…」
「…」
急に黙り込んだ伯父を兄妹は怪訝そうに見る。気のせいか…顔色が変わって冷や汗まで出ている。
「少し疲れた…」
よろ…っとふらつきながら、部屋を出ていく伯父を兄妹は黙って見守った。
それはヤンスクへ帰国した時も同様だった。
兄妹の話を聞いた母上が激情して夫の国王へ怒鳴り込んだのだったが…事前にバロイ国王から、その件については書信で知らされていたので、軽くいなされてしまった。
このヤンスクも、当時政権は闇勢力に支配されていたが、聡明な国王は表面的に彼らと歩調を合わせてどうにかその位に留まったのだった。自分が退位すればこの国は本当にだめになる…そうしてかろうじて長らえていたところにイザークが現れたのだった。
最初はこの男が天上鬼だとは、とても信じられなかった。 剣を振り回すには細すぎる身体、めったに目にすることが出来ない程の色男…だが、彼はあっという間に闇勢力を倒し、新政権を樹立した。
彼がこの国を去るという時に、どうしても礼を言いたくて彼らが泊まっている宿へ隠密裏に訊ねた。そこでノリコとも出会ったのだった。
「そうか…あの可憐な娘も、もう3人の子持ちなのか…」
自分たちの話を聞きながら、ひどく懐かしそうに笑う国王を、母子は不思議そうにただ見ていた 。
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