○月○日
がっこうのおともだちのレアディーナは、おおきなおねえちゃんがいます。レアディーナはきのう、そのおねえちゃんにおしばいをみにつれていってもらったって、きょうはずっとそのことばかりはなしてました。ちょっとじまんそうでなんだかいやだったけど、おしばいのおはなしはおもしろかったです。あたしもいきたいな…
「そんなの、絶対におかしいわ!」
「なにがおかしいんだ…」
憤慨したグローシアが叫んだ時、ドアが開いてイザークが部屋に入ってきた。
「あ〜おとうさんだ…おかえりなさい」
「おかえりなさーい」
「おかーりなちゃい」
子供たちがイザークに向かって飛ぶように駆けていって、話は一時中断された。
いつもの面々がキア・タージ家に集まっていた。ノリコとガーヤは台所で夕飯の準備をしている。
今日は午後からザーゴ国軍兵士に剣の指南をする日だったので、イザークはバラゴたちとは別行動をとり、ユミは学校が終わった後ガーヤと一緒に家に帰って来たのだった。
もうかなり暖かい季節、質素だが清潔で居心地のいい居間の窓は開け放たれ、ノリコが丹精している花の香りが部屋の中にまで漂ってきている。日が暮れかかり、平凡で平和な一日が今日もゆっくりと過ぎていく。
「男性が女性に無理矢理キスするのが流行だなんて、信じられない」
「グローシア…」
長椅子に座り、一番下の子を膝の上に抱き上げたイザークは、話を再開したグローシアを軽く睨んだ。
「子供たちの前で、そのような話はやめてもらいたい」
「へっ…おまえら、いっつもへーきで子供たちの前でべたべたしてるくせによ…」
バラゴがからかうように言っても、イザークは顔色一つ変えない。
「おれたちは夫婦だからなにも問題はない…
女に無理矢理とは、どうせ酔っぱらいか暴漢の話だろう。
グローシア、そんな下らん話で興奮してると胎教に良くないぞ…」
お腹のふくらみが目立ち始めたグローシアに諭すように言えば
「それがどうも違うらしいよ…
なんでも好き合ってる男女間のことらしい 」
アレフが意味有りげに笑って、イザークの眉間にしわがよったが…
「イザーク…」
台所に通じるドアからノリコが顔を出せば、イザークの仏頂面が他人にはそれとわからない程度にほころぶ。
「ごめんなさい、帰って来た時お出迎えできなくて…ちょっと手が離せなかったものだから…」
「わかっていたから、気にしなくていい…」
トコトコとノリコはイザークの元まで歩いてくると身を屈める。チュッと軽く唇を触れ合わせてから回れ右して台所へと戻っていった。
結婚当初の頃はさすがにノリコは恥ずかしがってはいたが、今では当たり前の挨拶となっている。
おかげでイザークの機嫌は見た目よりは良いし、ノリコさえ傍にいればイザークが天上鬼に変身することもないので、世の中の平和のためだと、多少いちゃつこうが見て見ぬ振りはするのは暗黙の了解だった。
一部の人間(バラゴやアレフ)にとっては見て見ぬ振りをすることと、からかうことは別なようだったが…
けれども今日、グローシアが見て見ぬ振りはせずにユミに言ったのだった。
「あれが、愛する男女がするキスのあるべき姿よ…」
「グローシア…」
また余計なことを…
イザークは呆れたように再びグローシアの名を呼んだ。
「ユミにそのようなことを言う必要があるのか…」
「あら…だって、そもそもはユミが始めた話よ」
「なんだと…」
「うふっ」
ノリコによく似た愛くるしい笑顔を向けられて 、イザークは怪訝そうに眉をひそめる。
「…どういうことなんだ」
「同じクラスのレアディーナが昨日、お芝居観に行ったの」
わくわくしながらユミは父親の隣に座ると話し始めた。
「そのお芝居ではね…女の子がね、ちょっと怒っちゃうんだけど、男の人がキスして仲直りするの…そこがすっごく素敵だって」
「…素敵とは… …無理矢理に…その…キスすることか…」
7歳の娘相手にキスの話などしていることにどこかためらいを感じているらしいイザークの口調に、アレフとバラゴは楽しそうに目配せした。
「えーっと、多分…そうかな…」
困ったように言うユミに、グローシアが助け舟を出した。
「そうよ…その時に無理矢理キスするの…
あたしにはなぜあんなのことに若い子たちが憧れるのか、わからないわ…」
「あんたは観に行ったのか…?」
およそグローシアが好んで観たがる芝居とは思えないので、イザークは訝し気に尋ねた。
「そうよ!…ホントに行くんじゃなかった」
「まあ奥様が観たいとおっしゃって、つきあわざるえなかったんですよ
さすがに一人では行きづらかったんでしょうね。」
「ホント、あの人…いい歳して…
観終わったら、感激して涙まで流してたわよ!!」
ぷんぷんと怒っているグローシアを、まぁまぁとアレフが宥めているのもいつもの風景だった。
アレフは未だ義理の母を「奥様」と呼ぶ。たとえその娘を妻に迎えても、主人にあたる人の妻に対して、彼なりにけじめをつけているらしい。
「次に頼まれたら…ユミと行ってもらうわ」
「えっ…ホント!」
「なにを言ってる…まだ早いだろ…」
目を輝かせたユミを牽制するようにイザークは言った。
「そのような芝居には子供は入れんはずだが、おまえの友達はどうして観られたんだ?」
「お姉ちゃんと一緒に行って…芝居小屋の人が知り合いで入れてもらえたって…」
「おれたちには、そんな知り合いはいないぞ」
「まあ、奥様と一緒だったら…なにしろ左大公のお奥方ですし…ユミちゃんもOKじゃないですか」
「・・・」
余計なことを言うなとばかりに睨みつけるが、アレフはニコニコと笑っていっこうに気にしてない。
ったく…イザークは内心ため息をついた。
近頃町にやって来た劇団が若者を対象に色恋沙汰の芝居をして、大層人気があるとの噂は耳にしたことがあった。
そう言えばノリコも嬉しそうに教えてくれたな…記憶をたぐり寄せれば、知り合いに聞いたことを楽しそうにしゃべっていたノリコの姿が目の前に浮かんでくる。
『まるで青春ドラマみたいなお芝居だそうよ』
『セイシュンドラマ…?よくわからんが、おまえは観に行きたいのか…』
くだらん…とは思ったが、ノリコが行きたいと言えばつきあうつもりだった。
けれどノリコは、ううん…と首を横に振ると、頬を赤く染めたのだった。
『ああいうのはね…恋に恋するような人が観て楽しいの…あたしは…』
そう言ってノリコはそっとイザークの胸に頭をもたらせた。
『もう…充分だから…』
『・・・』
その後はおなじみの展開でした
あの時、ノリコは無理矢理のキスなどという話はしてなかったから、そこまで詳しくは知らなかったのか、それとも別な芝居が上演されているのか…どちらにしろ、そんな芝居をまだ7つの子供に見せるとは…
などとイザークが考え込んでいると、上着の袖がつかまれて遠慮がちな声が聞こえた。
「ねぇねぇ…おとーさん…」
上の息子だった。この子は気の強い姉とまだ幼い弟に挟まれ、あまり甘えることが少ない控えめな性格だった。
「チ…チモがね…子供生んだの…お庭の木の根元にいるよ」
父親が帰ってきたら一番に言いたかったのに、なんだか自分にはわけのわからない騒ぎでなかなか言い出せなかったが、やっと勇気を出して言ったらしい。自分によく似た息子の顔に泣き出しそうな表情が浮かんでいる。
「では見に行くか…」
イザークは上の息子の頭をくしゅっと撫で、立ち上がってから皆を振り返る。
「理由は何にせよ…好きな女に無理矢理キスするなど言語道断だ。
たとえ芝居だとしても、男の風上にもおけないやつだな…」
そう言い放って息子たちと一緒に出て行った。
大人たちの間にしらけた空気が漂ったが、弟たちとは同行しなかったユミはそんなことは気にも留めずに可愛らしく小首をかしげた。
「でも…あたし、いまいち…その場面がよくわからないの…」
「なにが?」
「えーと…なんで無理矢理で素敵になるって言うか…」
友達のあいまいな説明だけでは、その状況がよくわからなかったと言うユミに
「うふっ…じゃあ、再現してあげようか」
さっきまであれほど憤慨していたくせに、グローシアが面白そうに笑うと、アレフは観念した顔つきをした。
「まずは…あたしが逃げ出すのよね…」
アレフ…と目配せした時に、再びドアが開いてノリコが現れた。
「あれ…イザークは?」
きょろきょろとイザークの姿を探している。
「庭にチモを見に行ったぞ…」
「そうだった、子供が生まれたんだよね」
教えてくれたバラゴに明るく笑ったノリコは、壁の前に不自然に立ってるグローシアとアレフを見て…
「なにしてんの?」
不思議そうに尋ねたのだった。
「ユミが見てみたいっていうから、再現してあげるの…」
「なんの再現?」
「まあ、見てて…行くわよ」
いたずらっぽく笑うとグローシアは、再びアレフに合図した。
逃げようとするグローシアをアレフが片手を壁について阻む。
すぐに反対方向へ逃げようとするが、そちらも手で押さえ込めてから、キスしようと顔を近づけるが…
グローシアが「ストーップ」と言って、そこで終わってしまった。
「こんな風なのよ…」
「きゃぁっ!!…すっごく素敵…ねぇ、おかあさん」
興奮気味で手を叩いているユミは、同意を求めて母親を見たが
「おかあさん、どーしたの?」
不思議そうなユミの言葉につられて全員の視線が集まった先には、真っ赤になってわなわなと震えているノリコがいた。
「ノリコ、どうした?」
ノリコの気が乱れたのを鋭く感じ取ったイザークが、両手に息子たちを抱え、部屋に飛び込んできた。
「ひ…ひどい…イザーク」
「どうした」
きっ…と自分を睨んだノリコの瞳に涙がにじんでいるのを見て、少々うろたえ気味に子供たちを床におろしてから、イザークはノリコに近寄る。
「あの時のこと…しゃべったのね」
「…あの時とは?」
「セレナグゼナ…占者の館…出ていって…」
「…タザシーナと黙面のことか…」
「ううん…そのあと…あとの…えーと…」
混乱しているのか、はっきりと言いたくないのか…ノリコの説明はひどくわかり辛かったが、なににせよ自分たちの事…それもノリコが恥ずかしがるような事を他人に話すような真似をするわけがない…
「おれは誰にも、何も言わん」
きっぱりとイザークは言ったが、ノリコは納得せずにイザークの袖をつかんだ。
「じゃあ、どーしてユミに再現してみせたりするの…?」
「再現だと…」
イザークは顔を上げて自分たちを興味津々で見ている者たちに、視線だけで「なんのことだ」と問う。ユミが少しだけ得意そうにあごを上げて答えた。
「壁ドンだよ・・・」
「・・・?」
「あのね〜壁にドンしてから、キスするの…」
ユミが説明した光景を頭に描いたのだろうか…
イザークは視線を遠くに泳がすと、すぐに合点がいった顔をした。
「・・・なるほど、無理矢理のキスか…芝居の一場面だな…」
「え…」
驚いて自分を見上げるノリコに、イザークは口元に苦笑を浮かべながら言った。
「ノリコ…彼らは今かかっている芝居を再現しただけだ」
先ほどまで怒りで赤かったのが、恥ずかしさでさらに真っ赤になった顔を隠したいのか、すがりついたイザークの胸に顔を埋めたノリコを庇うように片腕で抱くと、イザークは芝居を見たというグローシアに少しきつい視線を投げる 。
「彼(お芝居の主人公)はなぜ・・・その行為(壁ドン)に及んだんだ?」
「それは…彼女(お芝居のヒロイン)が他の女性と彼の仲を勘違いして、怒って、離れていこうとしたからよ」
怯む事なくグローシアが答えた。
「・・・それを無理矢理のキスというのは語弊があるな」
「あら、そうかしら・・・理由はなんにせよ、無理矢理は無理矢理でしょ!」
ムキになったグローシアの声を聞きながら、イザークは遠い日を振り返る。
ずっと冷たく突き放してきた。
その手を振り払ったことは何度かある。
それでもノリコは自分に必死についてきたから
それが当たり前のように思っていたんだ。
『もうイザークは必要ない!
もうそばにいなくていい!!』
泣きながら自分を拒絶する言葉を叫び、初めて背中を向けたノリコ
彼女を追いかけ
この腕に封じ込め
口づけ
跪いて願った
そばにいて欲しいと…
なりふりなど構わなかった・・・
無我夢中だったんだ
そうして本当に良かったと、今すがりついているノリコを見てイザークは思う。
一番大事なものは、まだここにある。
コホンとひとつ咳払いしてから、イザークは言った。
「無理矢理かそうでないかは別にして…好きな女を引き止める為の手段でもあり得るだろう」
「なんだか身に覚えがありそうだな…」
アレフはにやりと笑ったが、自分の誤解に気づいたノリコが身も蓋もなく真っ赤な顔をしてイザークにすがりついたまま、ぎゅっと目を閉じているのを見て、それ以上は追求するのは止めたようだ。
アレフは止めたのだけど…
「それって、ノリコのファーストキスだよな」
それまで黙って成り行きを見守ってきたバーナダムが唐突に口を挟んだ。
「セレナグゼナの占者の館の後っていったら…あの時ことだろう」
ノリコにひどく冷淡だったイザークを思い返したのか、不機嫌そうにイザークを見る。イザークは答えなかったが、バーナダムの視線をしっかりと受け止めている。
それがかえって癇に障ったのか、バーナダムはカッとなって言う。
「ファーストキスが無理矢理って、ショックじゃないか」
「え…」
ノリコがそれまで埋めていたイザークの胸から顔を上げ、落ち着かなく視線を動かし始める。
「やっぱり人生一番最初のキスってさ、女の子に取ったらすっげぇ大事だろ…別に今さらどうのと言いたくないけど…あんた、ノリコに謝るべきじゃあ…」
「あ…あの!!」
「…」
ノリコが突然叫んでバーナダムの言葉を遮った。
驚いたバーナダムはそれ以上何も言わずにノリコを見る。
ノリコはそんなバーナダムの様子を気にする余裕がなく…イザークに詰め寄った。
「イザーク…あた…あたし以外の…その…誰かとキスした事ある?」
「キス?…子供たちには、いつもしてるが…」
「そうじゃなくって…」
ノリコは赤らめた顔でたどたどしく言葉をつなぐ。
「あ…あのグローシアが言ってた、愛する男の人と女の人がする…そのっ…口づけのこと…」
いたたまれなさそうにしながらも、必死に尋ねるノリコにイザークは、少しだけ戸惑いながらも言った。
「…いや……ないな」
愛した女性はノリコだけなので『愛する男の人と女の人がする口づけ』を他の誰かとしたことはなかった…と心の中で密かに言い訳をする。
愛してはいない女性とだったらそれ以上の行為もあったことは、以前ノリコには伝えてあったが、それと現在の騒ぎを結びつけていないらしく真剣な顔で問い質すノリコに、そのことを今ここで蒸し返すのは良しとせずイザークは歯切れ悪く答えた。
そんなことは知らないノリコは、イザークから少し離れるとぺこりと頭を下げた。
「ご…ごめんなさい…」
「はぁ?…なんでノリコが謝るのさ」
怪訝そうに目をしばたきながら訊くバーナダムへ顔を向けると、だって…と前置きをつぶやいてからノリコは言う。
「ファーストキスを無理矢理って、男の人にとってもショックじゃあ…」
そこまで言った時、ドンっと大きな音をさせてイザークがノリコの後ろの壁を叩いた。
「黙れ、ノリコ」
ひっ…と小さく悲鳴を上げてから、自分を覗きこんでるイザークを上目遣いでそぉっと見上げる。意外とイザークは可笑しそうな顔をしている。
「おれにひどいとか言っておいて、自分で全部しゃべってるぞ」
「あ…」
慌てて両手を口に当てると
「や…やだ、もう…あたしったら」
再びかぁーっと赤くなったノリコはこの場から逃げようとするが、イザークがもう一方の手も壁について阻んだ。
それからちらっと後ろを向いて、娘にいたずらな笑みを向ける。
「ユミ…見ておけよ」
そう言って、両腕に閉じ込めたノリコに口づけた。 今のイザークはもう、先ほど感じた躊躇いはないようだった。
「ごはんだよ…」
台所に通じるドアが開いて現れたガーヤが、足を止めた。皆がこちらをじっと見ている。その視線の先を辿れば…ドアのすぐ横の壁にノリコを押し付けてイザークが口づけている。
やれやれとガーヤは首を振って
「ごはんが出来たから、誰か運ぶのを手伝っておくれ…」
ノリコとイザークはもう当てに出来ないと認識して言った。バラゴやバーナダムが申し出て、食卓に料理が並べられる。
イザークとノリコの姿はとっくにその場から消えていた。
「最初はノリコからだったのか…」
「ああ…ものすごく意外だな」
夕食の最中、そんな声が漏れ聞こえる。
『そっかぁ…初めてはおかあさんからだったんだ』
ユミは上機嫌でごはんを食べていた。
初めてのキスで、自分が涼を壁ドンしている様子を思い浮かべながら…
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