「ねーーーぇっ…典子ちゃん、お願い!!!」
夏はもうとっくに終わって木の葉の色が変わり始めたころ…アパートの通路に在坂と従姉妹の菜々子の姿があった。
堀江は何も言わないが、煙草を吸わない彼がその匂いが苦手なことを薄々感じている在坂は本数を減らす努力と、彼が頻繁に訪れるようになった部屋の中ではなるべく吸わないようにしていた。
どうしても吸いたい時は外の通路で吸う。
今日は菜々子が訪ねてきて、なんだか気乗りのしないお願いをされて…気がついたら部屋から出て煙草をくわえていた。菜々子も後を追って来てしつこくお願いされる。
「大学祭でね、先生と一緒に歩きたいのよ…」
今年女子短大に入った菜々子は、学業はそっちのけでサークルやら合コンやら遊びまくっていたが、なかなか想い通りの彼氏が出来ないらしい。
昨年家庭教師をしてもらった功よりかっこいい男性が現れなかったのが原因なのかもしれない…。ある意味、功に家庭教師を頼んでしまったことは、彼女に取って不幸だったのかも…などと在坂はため息混じりに煙を吐いた。
菜々子は在坂に功に頼んで欲しいと言う。
「なんで自分で頼まないのよ…」
「えーー、だってぇ…なんか頼みにくいんだもの…」
家庭教師時代に、散々甘えてみては功から拒絶された菜々子だった。
「真面目すぎて融通が利かなくて…つまんないって言ってたくせに…」
「まぁ…それはそぉーなんだけど…でも絶対みんな羨ましがるもの……ねぇ、だめ?」
「だめ!」
「ん、もう!…典子ちゃんの意地悪!!!」
美人で年齢よりは大人びて見える菜々子が、実はひどく我が儘で子供じみていることをつくづく感じる。
ガチャッ…
その時、隣のドアが唐突に開いた。
「あら、志野原さん…慌ててどうしたの?」
「え…あ…在坂さん、お…お醤油が切れて…きゃぁ…」
ぺこりと二人に挨拶代わりのお辞儀してから、駆け下りた階段で足を滑らしそうになった千津美は、慌てて手すりを抱きかかえるようにつかんで難を逃れた。
「…先生ってば、なんであんな人がいいのかしら…ぜーんぜん似合わないのに…」
菜々子は、去って行く千津美の背中を馬鹿にしたように見る。
「あんたには一生わからないよ…」
自分も最初はそう思っていたと自嘲気味に思い出している在坂の横で、急に菜々子が声を上げた。
「そうだ…彼女にお願いしよう!…絶対に断らないわ、彼女…」
「やめなさい…」
菜々子にお願いされたら、千津美なら断らないどころか功に一緒に行ってあげて欲しいなどと口添えまでしそうな気がした在坂は止めさせようとするが、さっき在坂に断られてへそを曲げてしまったらしい菜々子は聞く耳を持たず、千津美の帰りを待ち始めた。
千津美が菜々子に言いくるめられないよう傍にいようと、在坂は仕方なく二本目のタバコに火をつけた。
「京都のお漬け物だ…」
醤油を買いに入ったスーパーの特産品コーナに京都の漬け物が置いてあるのが、千津美の目を引いた。
以前はあまりこだわらずに必要なものだけを買っていたが、功が訪ねてくるようになってからは美味しそうなものがあるとつい目が引かれてしまう。
功に美味しいものを食べてほしい…
そんな思いが自然と込み上げてくるのだった。
「美味そうだな…」
「京都のだから、美味しいんじゃないですか…」
「ああ、おまえがこの前漬けたやつは酸っぱすぎて…」
「んまっ…」
そんな会話が聞こえて、千津美が顔を上げると老夫婦がいた。
「あ…」
あの時のおじいさんが奥さんらしい人と一緒に、やはり漬け物を手に取って見ている。
奥さんは元気になったようだけど、おじいさんが買い物かごを持ってあげているのを、千津美は嬉しく思いながら眺めた。
「おやっ…」
おじいさんが、千津美に気づいて…にっこりと笑った。
「あん時のおじょうちゃんか…」
「あ…はい」
覚えていてくれたんだな…と千津美も笑って答えた。
「今日も、いー人の為に料理かな…」
「え……」
「わかりやすいのぉ…」
真っ赤になった千津美を見て、あははと笑い声をあげた。
「あなたっ、失礼ですよ……すいませんねぇ」
「い…いいんですってば…」
奥さんがぺこりと頭を下げて謝るのを、手をふって止める。おじいさんは相変わらずニコニコ顔で尋ねる。
「あんたもこの漬け物買うんか…?」
「……いえ…」
よく見れば京都の銘品だけあって、学生のふところには高額であった。
「ふーむ…美味しいと思うがな…」
おじいさんは漬け物をかごに入れると、おばあさんと一緒にそこから離れて行った。
醤油の他にも二・三の品を買ってスーパーの外に出た千津美の前におじいさんがいた。
「ほれ… 」
「え…?」
おじいさんは漬け物のパックを差し出した。
「で…でも……」
遠慮する千津美の手に無理矢理握らすと、おじいさんは視線を千津美の後方に移した。
「そのえらく男前の兄ちゃんに、美味いもん食わせてあげなさい…」
「え…ええ……?」
おじいさんが何を言っているのかわからず、きょとんと首を傾げる千津美の持っていたスーパーの袋がすっと軽くなった。
「あれ…?」
振り向くと功が立っている。
「藤臣くん…」
千津美の顔がぱっと輝いたのを見て、おじいさんはよしよしと頷いた。
「仲良くしなされ……わしらのようにな…」
何言ってるんですか…奥さんの怒る声が段々と遠くなって行った。
「あ……」
前の道路を眺めていた菜々子が短く叫んでから一瞬息を止めた。在坂もつられてそちらを見る。
千津美は功と一緒に戻ってきた。
片手に買い物袋を持った功のもう片方の腕は自然と千津美の背中に回されて、ゆっくりと階段を上がってくる。
「なるほど…ああして歩けば志野原さんも大丈夫ね…」
感心したように呟く在坂は視線を二人からはずせない。
なにやらおしゃべりをしている千津美に功は短く相槌を打っている 。
嬉しそうに頬を染めている千津美を静かに見ている功…。
「藤臣さんって…あんな表情も出来るんだ…」
さすがの功も、打ち上げなど部活動以外の時にはクールな表情を緩めて微笑ったりすることもあったが…千津美を見る功の瞳には見たこともない優しさが溢れていた。
階段を上ってきた二人は、在坂達に気づいた。
「先生…お久しぶりです」
顔を赤らめ、こくんと会釈した菜々子に功が尋ねる。
「大学はどうだ…?」
「たっ…楽しいです」
「そうか……勉強もしろよ…」
遊びまくっているのはお見通し…というように功が言うと、菜々子にしては珍しく恥ずかしそうに俯いた。
「え…ええっと…」
千津美が鍵を探してあたふたするのを制して、功はジーンズの後ろポケットから鍵を取り出すと部屋のドアを開けた。
「丁度良かった…藤臣さん、菜々子が…」
「典子ちゃん!!!」
在坂がそう言いかけるのを菜々子が慌てて止める。
「…?」
功が怪訝そうに見たが…
「なんでもないんです…」
菜々子は在坂を部屋の中に押し込んで、ドアを閉めた。
「どーしたのよ、あんた」
あれほど強引に功を大学祭に誘おうとしていたくせに…在坂は怪訝そうに菜々子を見る。
「だって…」
考えてみれば、菜々子は今まで功と千津美を一緒に見ることはなかった。
功は強くてかっこいい…
千津美は友人が「ちりめんじゃこ」と称する程度の女の子だった。
絶対に似合わない…そう思っていたカップルだったのに…
「いい…もういいの…典子ちゃん」
肩を落としてそう言う菜々子を見て、在坂はふ…っと微笑うと肩に手を置いた。
「ごめん…」
「え…」
謝った在坂を菜々子が不思議そうに見る。
「さっき…あんたには一生わからないと言ったこと…」
隣の千津美の部屋からはなにやら美味しそうな料理の匂いが漂ってくる…
そんな秋の夕暮れだった。
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