嵐の夜

窓に叩き付ける雨は滝のようにガラスを伝っている。びゅうびゅうという風音は時間とともにひどくなっているような気がする。

ガチャッと言う音に千津美はビクッと振り返った。ドアからコンビニの袋を持った濡れ鼠の功が姿を表す。

「…藤臣くんてば、ずぶ濡れだよ…早くお風呂に入って…」

そこまで言った途端、千津美は恥ずかしげに口を閉ざした。



就職が決まった功は、かねてから行こうと思っていた鎌倉へ、今日千津美を連れて来た。

国文を選考している千津美が「義経記」についてひどく興味を持ったらしく、一生懸命話しているのを聞いていた時、功は気づいた。

「おまえ…鎌倉に行ったことがないのか」
「え…? う…うん」

別に恥ずかしがる事でもないのに、赤らめた顔を俯かせた千津美に功は舌打ちしたい思いだった。

週末に家族で出かけるにはちょうどいい距離にあるせいか、幼い頃から何度か訪ねた覚えがある。兄と大仏の中に入ったり、咲き誇る紫陽花を見た。夏には江ノ島の海岸で海水浴をしたな…。兄が高校生になった頃から家族で出かける事が少なくなった所為か、功にはぼんやりとした記憶しかなかった。

けれど千津美には記憶すら存在しなかった。
父親が病弱だった所為か家族でどこかへ出かける事などなかったらしい。その父親が亡くなり、後を追う様に母親も他界した後、姉と二人きりでの生活に無論そんな余裕はなかった…長いつきあいの中でそんなことすら最近知った自分を功は忌まわしくすら思う。

就職が決まったら千津美を鎌倉へ連れて行く…それは功に取っても採用試験への追い風になったのかもしれない。警察官は彼の天職のようで周りはあまり心配はしていなかったようだ。強いて言えば面接に多少の不安があったが、尋ねられたことに必要最低限で簡潔に答えた功は無事採用された。


台風が接近している事はニュースで知っていたが、朝は晴天だったし、今日を逃すと千津美と自分が丸一日空いている日は夏休みまでなかったので出かけてきた。どっちにしろ東京からは一時間弱でつく距離だから、万が一の事があってもせいぜい電車が遅れる程度だと思っていた。

お昼を過ぎた頃からぽつんぽつんと降り出した雨が夕方に急速に激しくなり、持ってきていた傘をさしてはいたが、駅へ着いた頃はすでに髪や服はぐっしょりと濡れていた。

線路に土砂崩れがあった為、今日中の復旧の見通しはたたない…人で溢れる駅構内のインフォメーションはそう告げていた。タクシー乗り場は長蛇の列…別な路線で帰る手段を探していた功は、千津美が震えている事に気づいた。

ここ数日汗ばむような典型的な初夏な気候だったせいか薄着だった千津美は、雨とともに下がった気温と濡れた衣服の所為で唇が紫になっている。

このままではいけないと、功はとっさに判断した。


駅周辺のビジネスホテルはこの天気の所為でどこも満室だった…ほぼやけくそで入ってみたラブホテルで空き室を見つけた。

けばけばしい装飾と部屋の真ん中にある大きなベッド…

一瞬躊躇した功だったが…風呂場に入り蛇口をひねって湯をためると千津美を押し込んで言った。

「服を脱いで身体を温めろ…」


千津美が風呂に入ってすぐに、夕飯をまだ食べていなかったが濡れた服で食事にも行けまいと、すぐ近くにあったコンビニに行った。おにぎりやサンドイッチといっしょにペットボトルの水とお茶…自分用に缶ビールも手に取った。

酔いたいのか…おれは…

不可抗力とは言え…この状態にひどく戸惑っている自分がいた。



「…我慢する必要があるのか…」

両親が不在の日だった。
珍しく早く帰宅した章と夕飯を食べていた時、 章がそんなことを口にした。

「どうせ、ちぃちゃんとずっと一緒にいるつもりなんだろ」

食事を終えるとさっさと部屋へもどろうとした功の背中に章が言い放った。

「男に取って好きな女を抱く事は自然な行為だ…おまえの方が不自然なんだよ…」

いつもだったら、そんなことを言う兄に一発お見舞いしていたのだが、なぜだか一刻でも早く兄から逃れたくて、その場を後にしたのだった。



コンビニで会計へ行く前に、功は別なコーナーへ足を踏み入れる。

必要はないと思う…
でも…万が一…

万が一に備えてだ…


何度も自分に言い聞かせながら、そこにあった小箱を取って買い物かごに落とした。




功が買ってきたお茶のペットボトルのフタを開ける。おにぎりやサンドイッチは功が風呂から上がったら一緒に食べようと思って手をつけていない。濡れてしまった服はハンガーにかけて空調のすぐ傍につるしてあるから、きっと明日の朝までは乾くに違いない…。

明日の朝まで…

大きなベッド以外に家具らしいものはない部屋を、千津美はぐるりと見渡した。テレビが壁に備え付けられている。さっき、窓の外を見たくて開けたカーテンも室内装飾と同様にひどくけばけばしい。この部屋にいると、まるで自分が食虫植物の罠にかかった虫のようで不安になる。

助けて…藤臣くん…

想定外の出来事に心細さから心の中で功に助けを求めてしまう 。この部屋へきてすぐに功は買い物へ行ってしまったし、戻ってきたと思ったら今度はバスルームに入ってしまった。 普通に考えれば、このシチュエーションで一番警戒しなければいけないのは功なのだが、千津美にそんな心づもりは全くない。

備え付けのバスローブしか身につけずにベッドの上に座っている自分…「ネンネ」だの「お子ちゃま」だの散々からかわれた身でも、今の状態がどういうことかくらいは、もちろんわかってはいたが…。


「はぁ…」

ため息をつくと千津美は両手で握りしめているペットボトルを見た。

ドジでチンケで取り柄なし…そんな自分となぜ藤臣くんがつきあっているのか…つきあい出した当初はかなり悩んだ…というか、他の女子から散々言われて悩まされた。

「ねぇ…なんで、あなたなの?」

呼び出されて行ってみると、数人の先輩女子が腕を組んで睨みつけながら訊かれた事がある。

「すいません」

ただ頭を下げて謝る事しか出来なかった自分…


「別に忘れ物を渡すだけなのにさ…藤臣くんまで千津美の後を追っかけてお店飛び出して行っちゃうんだもの…」

あれは大学一年生の時だった思う。三浦たちと一緒に千津美がバイトしている喫茶店に来た望月が、忘れ物をしたので届けに行った時のことだった。


「同情もしくは成り行きで、出来の悪い親戚の子を面倒見るみたいな…最初は、そーんな感じかなって思ってたのよ」

口の悪い三浦がそんなことを言ったのだった。

「学校のみんなもそんな事言ってたっけ…」

園部が当時を思い出したのか、くすっと笑っていた。

「でも藤臣くんってばさ…千津美しか見えてないかも…」

ただ真っ赤になって俯いていた千津美だったが…以前から功がいつも自分を気にかけてくれていることには気づいていた。

いつだって、藤臣くんは優しかった。
だからわたしは恐くなんかない…。


カチャッとドアの開く音がして、もの思いにふけっていた千津美が顔を上げる。バスルームから出てきた功と目が合った千津美は、ほっとしてにっこりと笑った。



千津美に渡す前にコンビニの袋から取り出した小箱を財布や鍵と一緒に洗面台の前に置いて、功は濡れた服を脱いだ。

「まいったな…」

雨に降られて千津美のアパートに駆け込んだことはある。部屋の中で二人っきりになったのは初めてだったが、引っ越しの手伝いをしたこともあって、何の戸惑いもなかった。ただ、うっかりうたた寝して目覚めた時に、千津美がすぐ横で寝ていた時は、正直慌てたが…。
それからはなるべく外で会うようにしていたし、送っていった時も特別な用がない限り部屋の前までと決めていた。


『我慢する必要があるのか…』

違う…おれがそうしたかっただけだ…

『…不自然なんだよ…』

兄さんには関係ない…


湯船につかってそんな考えを巡らしていた功は、先日偶然に高校時代の級友に出会った時のことを思い出した。


「いやぁ〜おれ、今…藤臣とお茶してんだな…」

お互いに時間の余裕があったので喫茶店に入った。主に彼が一人でしゃべっては何かを尋ね功が短く答えるという会話だったが、近況などを話して一段落した時、感慨深げに言った彼に、功はわけがわからないとばかりに眉を寄せた。

「だってさぁ…高校の時はおまえとこうして喫茶店でお茶するなんて、絶対に考えられなかったもんな…」

断られるのは承知で誘ってみたのだが、意外に気軽に応じられて、相変わらず無口で迫力あるが…尋ねればそれなりにちゃんと答えてくれるので、会話が成り立つことに軽い驚きを覚えている。

「おれたちも来年は社会人か…早いな、ついこの間高校を卒業したみたいな気がするよ」
「そうだな…」

スプーンでコーヒーをぐるぐるかき回しながら彼は話題を変えた 。

「そう言えばおまえ…あの頃つきあってた女の子がいたよな…えーと名前なんだっけ…ちまっとした…」

そこまで言って、「いけね」と口をつぐんだ。

「志野原千津美…」
「そうそう…その彼女とは…」
「まだつきあっている」

ヒューっとそいつは口笛を吹いた。

「随分長いじゃん…何年になるんだよ…あ、もしかして結婚するとか…」
「……」
「…すまん、余計な事言ったか」

返事をせずに黙ってしまった功に謝った。

「いや…まだ学生だから…」
「そ…そうだよな」

考えてない訳ではなかったが…
まだ千津美本人にすら言っていないことを、関係ない他人に言いたくなかった。

「でも、彼女…よくあれに耐えたよな… 」
「…?」

再び不可解な顔をした功だったがあまり表情が変わらなかったので、彼は気づかずに話を続ける。

「おれ…一回目撃したことあるんだぜ…」
「何を…?」
「うちらと同学年の女子に囲まれていて…散々イヤミを言ってからあいつらが去った後、彼女…」

当時を思い出してるのか彼は遠い目をした。

「ずーっと項垂れててさ…おれ、思わず慰めたくなったんだけど…」
「…けど?」
「…だってさ、おまえがいるじゃん…勿論あいつらにびしって言ってやったんだろう…」
「…いや」
「え…」

一瞬キョトンとしたが…

「ああ…そうか!いつのことかわかってないんだ…」
「いつのこと…?」

話の脈絡が功には全く見えて来ない。

「おまえとつきあい出してから彼女、いっつもすっげえ嫌がらせを受けていたもんな…」
「……」
「…?」

功が黙って睨みつけるように見ているのに気づいた彼は、少々怯えながらも、恐る恐る尋ねた。

「ま…さか、おまえなんにも知らなかった?」
「…ああ、今初めて聞いた」

あちゃーと額に手を当てて、信じられないと首を振った。

「うそだろう…学校中のみんなが知ってたぜ…」
「おれは知らなかったんだ」
「…信じられないよ…誰もおまえには言わなかったのか…つか、彼女何も言わなかったのか?」

黙って首を横に振ると、功はコーヒーを飲みながら当時を振り返る。

何度となく同学年の女子が千津美にきつく当たるのを見ていたにもかかわらず、あまり気にしていなかった自分にため息をつきたくなった。

「どうして告げ口しなかったんだろう?」
「告げ口…?」

千津美からは想像もつかない言葉を当たり前のように言われて、功の中になんとも形容し難い感情が込み上げてくる。


「素直すぎるから…あいつ…」
「は…?」

功の返事は彼に取っては思いがけないものだったらしい。小首を傾げて自分を見ている彼に、功は得意とは言えない説明を試みた。

「どんなひどいことを言われても、受け入れてしまうんだ」
「じゃあ、チンケブスとか言われたら自分はブスなんだって認めちゃうの?」
「ああ…」
「でも…あれは、ただのヒステリー集団が嫉妬して言いたい放題言ってただけだぜ」

言われれば言われるほど肩を落として落ち込んでいく千津美の姿が、功には目に見えるような気がした。

「関係ない…あいつに取ったら誰に言われたって同じ事だ…」
「それでもやっぱりさ…こぉーんなひどい事言われちゃったのよ…なんて普通言わないか、おまえに…」
「…あいつは人のことを悪く言ったりはしないから…」
「ふーん」

納得したのか…ちょっと感心したような表情を彼はした。

「意外と心は強いのかな…」

答える代わりにニコッと笑った功…珍しいものを見たなと驚いた彼はしみじみと言った。

「おまえ…彼女のことになるとなんだか人が変わるな…」

最初はこっちが尋ねたことに無表情に短く答えていた功が(それでも自分は驚いていたのだが)、千津美の話になった途端、言葉数は少なくとも積極的にしゃべり出したことに気づいた。表情までが微妙に変化している。

「ホントに好きなんだな…彼女が…」
「ああ…」

躊躇なく答えた功に今度は呆れて、それからアハハと笑った。それまであった自分の中の藤臣功のイメージが見事に変わってしまった瞬間だった。

「今日会えて良かったよ。」

別れ際に彼は功の肩をポンポン叩いて嬉しそうに言ったものだった。


告げ口をするような女に千津美が思われたことが許せなくて、少々ムキになったかもしれないな…と功は自嘲する。けれど自分の所為で散々ひどい事を言われ続けたという高校生の千津美の為に、せめてものことをしてやりたかった。



「食ってなかったのか…」
「うん…藤臣くんと一緒に食べようと思って…」
「そうか…」

風呂から上がれば千津美の笑顔があった…
一番欲しいものは案外すぐそこにあるのかもしれない…そんなことを思いながら、ベッドに腰掛けてサンドイッチの包みを開ける。


同じバスローブ姿なのに、何重にも袖をまくって ぶかぶかの服にくくまれている子どものような自分に比べて、功はその体格の所為か胸元がほどよく開いていてよく似合った。

『ねぇ…この子、藤臣くんに似合うと思う?』

以前聞いた言葉を思い出して落ち込みかける千津美に功が心配そうに尋ねる。

「身体…まだ冷えてるのか」

いけない、いけない…今ここで落ち込んでしまうと功が気にすると、千津美は笑顔になって答えた。

「ううん、もう平気だよ…わたし子どもの頃からプールの授業の時に一人だけ唇を紫になってね、皆に心配かけちゃってたんだよね…」

相変わらず人に心配かけたことを気にする千津美…

「ごめんね…わたしの所為で迷惑かけて…」

そう謝る千津美の頭をくしゃっと撫でると、千津美の顔には自然な笑顔が広がっていって、功は安心する。

無理して笑う千津美など見たくなかったから…。


しばらく無言で食べていたが、再び千津美が口を開いた。

「なんかこの部屋すごいね…どぎついっていうか…」
「ああ…そうだな…」

あらためて見回してみた。誰が選んだのか知らないが趣味の悪いインテリアに辟易する。

「すまん…こんな部屋で…」
「な…なに言ってるの…藤臣くんが悪いんじゃないのに…あーー」

そうではないと慌てて手を振った途端、持っていたおにぎりを飛ばしそうになったが、功がきっちりとキャッチした。

「あ…ありがとう」

また自分のドジに落ち込んでいるのか…おにぎりを手渡されて俯き加減になる千津美に功が言う。

「文句くらい言ってもいいんだぞ」
「え……な…なんで、これは不可抗力で…藤臣くんは一生懸命に探してくれたわけで…」
「部屋のことじゃない…」
「え…」

きょとんと自分を見る千津美に功は、言うべきことをためらわなかった。

「おまえ…おれに甘えたり我が儘言ったことないだろ…」
「そ…そんなことないよ…」

ぶんぶんと千津美は首を横に振る。

「ふ…藤臣くんにはいっつもわたしのドジで迷惑ばっかりかけてるし…」
「……そう意味じゃない…」
「で…でもわたしが観たい映画にいっつも連れてってくれるし…今日だってわざわざ鎌倉まで…わたし充分に藤臣くんに甘えてるよ…」

観たい映画はあるかと訊けば答えるが、自分から連れて行って欲しいなど千津美は言ったことはない。鎌倉だって行こうと言ったのは自分だった。一度だけ家庭教師をしている子を連れて一緒に縁日へ行って欲しいと頼んだ時はものすごく遠慮していた。


フゥーっと功は息を吐くと前髪を手でかき上げてから、千津美をまっすぐに見て単刀直入に言う。

「おれ…今夜おまえのこと、抱こうかと思ってる」
「……う…う…ん」

真っ赤になって小さく頷いたのを見ると、千津美は千津美なりに腹を括っていたんだろうということがわかる。

「だが…おまえはイヤなんだろう…」
「……藤臣くん?」

千津美は目を見開いて功を見た。功は口元に優しい微笑みを浮かべている。

「はっきり言えよ」

つきあい出した当初から、不思議と功には自分が考えている事がお見通しなところがあった。そんな功に嘘はつけない千津美だったから、全身から勇気を振り絞る。

「あ…あのね…いつかはそ…そんな関係になるのかな…とは思っていたから…そ…それは別にイヤじゃないのね…で…でも…」

今夜こんな状況になってしまって覚悟はしてた、だけど…

「ここって…その…いっぱい…男女が……そ…そのっ…」

なるほど、そこなんだ…と功は妙に納得した。

てっきり悪趣味なこの部屋で初めての時を過ごすのがイヤなのではないかと思っていたが…千津美は今までに何人もの男女の営みが行われてきたこのベッドの上ではいやだと言っている。

「…藤臣くんの部屋やわたしのアパートなら気にしないんだけどね…ってあああ、わたしったら…」

最後は自分の言ったことの意味に気づいた千津美が真っ赤になってしまった。

「おれの部屋はごめんだな…」

留守がちとは言え、隣はあの兄の部屋だ …やはり避けたい。

「いえっ…べ…別に…だからといって…えーと……」

あたふたと意味のない事を言い続けている千津美は、つきあい出した頃と変わらずに頼りなげな風情で…そう、頼りないくせに姉を安心させる為に無理して笑っていたんだ。あの頃から自分もそう変わってないと功は思う。

ドジや勘違い…自分の知らないところで嫌がらせも散々されていたんだったな…しょっちゅう落ち込んでいた彼女がまた笑顔になる事だけを願っていた自分。

できるかぎり…おまえに笑っていて欲しいから…
その為ならばなんでもするつもりだった。



「…もう寝よう…」

功は布団をめくると千津美の身体を押し込み、自分も横たわる。

千津美はさっき『おれ…今夜おまえを抱こうかと思ってる』功がそう言ったことを思い出して…

「あの…も…もし藤臣くんが…そのっ…」
「いいから…早く寝ろ」

そう言ってから、功は千津美をバスローブごと抱きしめた。




「案外眠れるものだな…」

カーテンを引いた窓の外には、昨夜の嵐が嘘のように晴れ上がって青空が広がっているのを見ながら、功はひとり呟いた。

一晩中眠れないのではないかと思っていたが、いつのまにかぐっすりと眠ってしまったらしい。目覚めた時、一瞬どこにいるのかわからず、しかも腕の中には千津美がいて慌ててしまった自分を思い浮かべ、口元に苦笑を浮かべる。

すやすやとすこやかな寝息をたてている千津美が愛おしかった。こんな朝をこれからも迎えられることができるのなら…


『我慢する必要があるのか…』

降参するよ、兄さん…あんたの勝ちだ…おれはもう我慢する気はない。


バスルームのドアが開いた音がしたので、振り返ると着替えた千津美が出てきた。

「服が乾いて良かったね…」

そんなことを言いながら、ショルダーバッグを取って中身を確認している。

「志野原…」
「え…」

千津美が顔を上げると、功がぽいっと小箱を投げた。珍しくキャッチできた千津美だったが、箱の内容がわかると真っ赤になって手からぽろっと落としてしまった。功が拾って再び手渡した。

「おまえの部屋に置いておけよ…」
「・・・」

恥ずかしそうに目をそらし、黙ってそれをバッグにしまった。



「きゃーー」

ホテルの前の濡れた石畳の上で、案の定足を滑らした千津美を功が抱き止める。

「ご…ごめんなさい、ありがとう…」
「掴まってろ…」
「…う……ん…」

差し出された功の腕を、千津美は照れながらそっと両手で掴んだ。

「電車もう通ってるといいね…」
「先に朝食でも食うか…」

今日も蒸し暑い一日なりそうな日射しの中、駅に向かう道を二人は寄り添って歩いていった。

Chizumi & Fujiomikun

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