「おかえりなさい」
仕事で深夜遅く帰ってきたため昼近くになって起きた章が階段を降りようとすると、そんな母親の声が聞こえた。短く応える功の声が続く…。
「ふーん」
功が外泊していたことをその時初めて知った章の口元が、面白そうに上がった。
先週末、千津美と鎌倉に行って台風で足止めされて帰って来られなかった功は、兄がからかおうとするのを事前に察知したのか、きっぱりと言った。
「兄さんが思っているような事はなかったよ」
「おまえ、それでも男かよ……ぐふっ…」
呆れたようにそう言った途端、みぞおちに一発くらってしまったものだったが…。
階段の上で功を待ってみる。
兄に気づいた功はふっと視線をそらした。何も聞かなくても章にはそれで充分だった。
「ちぃちゃんに優しくしてやったのか」
黙って章をやり過ごして部屋のドアを開けかけた功が、小さく呟いた。
「わからないよ…そんなこと」
ああ、そうだな…
おまえもちぃちゃんも初めてだったもんな
そして…これからもずっとそうして一緒にいるんだろうな
パタンと閉まったドアをしみじみと見つめてから、にやりと笑うと階下へと降りて行く 。
「母さん…今日はお赤飯炊いて…」
などと、後でまた功に一発殴られそうな事も平気な章だった。
「志野原さん…これ、8番…」
「え…あ、はいっ」
ともするとついぼんやりしてしまう千津美だった。
今日は土曜日で大学はなかったが喫茶店で夕方までバイトがあり、送ってくれた功とは店の前で別れた。
「おはよう」
目が覚めた時、功の腕の中で おたおたしていた自分を…功はそう言って、ギュッと抱き締めてくれた。
熱帯夜だった所為か、毛布は足元にたたまれたままだった。
朝日がカーテンを通して明るい部屋で、お互い何一つ身にまとってなかったが、嬉しかった所為か起き上がるまではあまり気にならなかった。
嬉しかったから…
「し・の・は・ら・さーーーーん」
「え…きゃーーーっっ…」
再びぼけっとしているところに同僚から呆れたように声をかけられて…相変わらずドジをしてしまう千津美だった。
「随分と若いお母さんね…」
「へ…?」
最近よちよち歩きを始めた姉の子どもを公園で遊ばせていると、他の母親がそう言って笑った。
「い、いえ…この子は姉の子なんです」
狼狽え気味に千津美が答える。
その歳ならばこんな子どもがいてもおかしくない千津美だったが、年齢よりはずっとガキっぽく見える…たぶん高校生くらいに見られたのだろう。
功はベンチに座ってずっとそんな千津美を見ていた。
大学は夏休みに入った。…と言っても、功は卒業研究があるので大学にはほぼ毎日のように通っているし、その合間にバイトもしているので結構忙しい。
けれど今日は午後早くに解放されたので、姉を訪ねた千津美に同行していた。
「あ、だめっ…」
芝生に両手をついていた甥っ子が、その手を口に持っていこうとするのを見た千津美が慌ててその子を抱え上げた。
「手…洗って来るね」
公園の隅にある手洗い場へ千津美は子どもを抱えて行った。
自分が行くべきだったのかもしれないが、なんとなく子どもと遊ぶ千津美を楽しく見ていた功は言いそびれて…
ベンチに座ったまま千津美の背中を見送った。
緑の多い公園は、真夏の午後にもかかわらず空気がひんやりと涼しい。姉にゆっくりと買い物してもらおうと、千津美と功は甥っ子の子守りを引き受けたのだった。
「ごめんなさいね…あら、千津美は?」
両手に買い物袋を抱えた姉が現れ、功の横に座った。
「今、手を洗いに行った」
「そう…あの子迷惑をかけなかった…?」
「いや…」
買ってきた飲み物を渡すと、功はありがとうと言ってから、ふたを開けて一口飲んだ。
「ここ、涼しくて気持ちいいでしょ」
「ああ…」
相変わらず短い答えしか帰ってこないが、もう慣れているので姉はあまり気にてしてない。
だから… 功が話し出した時は、意外に思ったものだった。
「おれ…」
「……?」
功はしばらく間をおくと、きっぱりと言った。
「志野原と結婚する… 彼女が大学を卒業したら…」
「まあ…」
突然のことに一瞬驚いた姉だったが、すぐに表情を緩めた。
「藤臣くん…それが言いたくて今日来たのかしら」
仲のよい姉妹だったがお互いの生活に忙しく、頻繁に会うことはない。特に子どもが生まれてからは、千津美が時折姉を訪ねるだけになっている。
功はそんな二人を水入らずに過ごせるように気をきかせてか、滅多に一緒には来ない。
誕生日や正月などに招待すればやって来て、夫と一緒に盃を合わせたりすることがあるくらいだったので、今日千津美と現れた功を見て珍しいこともあるものだと首を傾げていた。
「でもなぜ…」
千津美の卒業までまだ1年半はある。
最近知り合ったというのならともかく、もう十分すぎるほど長くつき合っている二人の結婚を反対する気など毛頭ないが、結婚の正式な申し込みにしては中途半端な時期だし、功ならばそういう場合はしっかりと筋を通そうな気がする。ふらりとやってきて、そんなことを言う功の意図が掴めずに千津美の姉はまた考え込んでみた。
口数の少ない功との会話は大抵このように進んでいくのだが、千津美の姉はそれを決して厭わない。
功が千津美にどれほど誠実か知っていたから…
誠実…
はっと何かに気づいて姉は功を見た。
「もしかして…あなたたち…」
功の横顔は相変わらず動かなかったけれど…
「ああ…」 「・・・」
姉の質問を功は短く肯定した。
姉は遠い秋の日を思い浮かべた。
千津美の体育大会で突然現れた彼が、
まだ幼いとも言える千津美をたった一人残して自分の幸せを選んでしまった…
そんな自分が抱えていた罪悪感をあっさりとさらっていってしまったのだった。
「これからも千津美の心配はあなたがしてくれるのね…」
そう尋ねた姉に答える代わりに、功は立ち上がると駆け出して行く。
おぼつかない足取りで歩いている甥っ子の後ろで、千津美がこけていた。
びっくりして泣き出した甥っ子を片手で抱えると、もう片方の手で千津美を抱き起こす。
その一瞬、二人の間に流れた空気が今までと違っていることに姉は気づいた。
「わたしは安心しているわよ…ずっと…」
姉はそう呟いた。
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