台風一過 後



「志野原さん…これからバイト…?」

講義が終わった後、園部が尋ねた。

「ううん…今日はもう帰るよ…」
「じゃあ、映画観に行かない?」
「あの・・・がね、封切りになったのよ…」

人気の役者が共演していてクランクインの時から話題だった映画だった。園部と三浦はすでに行く気らしく、楽しそうに千津美を誘う。

「…ごめんなさい…今日はちょっと…」
「あ、もしかして藤臣くんとデート?」
「そ…そうじゃないんだけど…」

『明日…バイトの後に行ってもいいか』

デートとは違うけれど…初めての事に戸惑っている所為か、『藤臣くんが来るから』とはどうしても言えない千津美だった。


「やっぱりお肉かな…」

帰りに寄ったスーパーで千津美は悩んでいた。

以前一度だけ功の為に料理をした事はあったが、それは成り行き上急な事だったので、冷やご飯を炒めてチャーハンというすこぶる簡単なものだった。今日は何かご馳走でも作らなければ…などと張り切ってみた千津美だったが…。

駅ビルの本屋でおもてなし料理の本などを立ち読みしてみたが、功の為に特別に凝った料理などすれば失敗するのが目に見えているし、おしゃれな食器などあるはずがない。ため息をついて諦めた千津美はいつものスーパーに来てみたのはいいのだが…何を買っていいのかわからずにさきほどからうろうろとしている。

「藤臣くんって、好き嫌いがないみたいだし…」

大好物があるとか…これは食べられないみたいのがはっきりしていれば、決めやすいのだが…

「あーもう、わたしったら、こんな事も決められないのだわ」

相変わらずダメな自分に落ち込んで来た千津美は、がっくりと項垂れてしまう。


「お嬢ちゃん…どうかしたんかい」
「え…」

人の良さそうなおじいさんがすぐ傍に立って、千津美の顔を覗き込んでいる。

「さっきからずーっと悩んでおるようだが…」
「えーと…あの、今夜のおかずは何にしようかと…」

しどろもどろに答える千津美におじいさんはにっこりと笑った。

「そうか…いー人の為に料理するんじゃな」
「え…ど…どうして…」

ずばり言い当てられて千津美は目をぱちくりとさせる。

「そりゃ、あんた…自分の為だけだったらそんなに悩まんとちがうか…」
「…う」

言葉に詰まってしまった千津美の横で 、おじいさんは安売りの肉のパックを手に取ると買い物かごに入れながら呟くように言った。

「わしの女房は料理が苦手での…」
「え…」
「焦げた魚、しょっぱい味噌汁…生煮えの芋…」

おじいさんはどこか遠くを見つめながら懐かしそうに言う。

「こんなものをおれに食わせるのかと、新婚のしょっぱなから何度も文句を言ったり怒ったりしたもんだ…よく、こんな女を嫁に出したと向こうの両親を恨んだこともあったがな…だけど…」
「だけど…?」

ついおじいさんの話に引き込まれて千津美が繰り返す。

「ある時出された大根の煮物が予想外にちゃんとした味で、思わず褒めちまった。特に旨いってわけでなくってまともだったというだけなんだが…そしたらあいつ、すごく嬉しそうな顔をして…」
「・・・」
「あいつはあいつなりに一生懸命だったってわかったんじゃよ…ま、その顔も可愛かったんだがな…」

照れもせずに、のうのうとおじいさんは言ってのける。

「不思議な事じゃが、それから黒焦げの魚も生煮えの芋も、自分の為にあいつが一生懸命料理したんだと思うと美味しくってな…」

ご馳走を作ろうなどという努力よりも、心を込めて功の為に料理をしろと言っているのだと千津美は理解した。けれどそのおじいさんが、今こうして一人で買い物をしているのは…不安気な千津美の表情からおじいさんは気づいたのかにっこりと笑う。

「年なのに無理しおって…あいつ、腰を痛めたんだな…」
「そ…そうなんだ」

少しだけ安心した千津美だったが…

「でも、だ…大丈夫なんですか…」
「ま…しばらくは無理をしない方がいいって医者が言いよるんで、今はわしが料理する事にしたんじゃ…復讐かな」
「ふ…復讐!?」

おじいさんの口から思いもかけない言葉が出て、千津美は驚く。

「息子の嫁が食事を作りに来るというのも、宅配サービスも断ったんじゃよ…わしの作るまずい飯をあいつは旨そうに食ってるしな…」

ハハハと笑いながらおじいさんは、豆腐の売り場へと行ってしまった。
千津美はおじいさんが取ったのと同じ安売りの肉のパックを手にした。

今日素敵なおじいさんに会ったのだと功に教えてあげよう…と思いながら…。



「雨…降ってきた」

台所に立つ千津美はひとり呟く。

「藤臣くん…傘持ってるかな…」

駅まで迎えに行った方がいいのかと迷ったが、豪放寺のところでバイトだった事を思い出して、例え傘を持っていなくても借りて来るだろうと自分に言い聞かせる。

「…!」

あの嵐の夜とは違う…しめやかな雨音の中に千津美は聞き慣れない音に気づいた。

このアパートには女の子しか住んでいない。彼女達は階段を軽い足取りで上がって来る。特に雨の時は急ぎ足で…。

今、聞こえてくるのは…大好きな彼の性格に似た足音…静かに…重厚でゆっくりと…階段を上り終えたそれは、千津美の部屋の前で停まった。



「お…やっぱり、降ってきやがったな…」

お昼を過ぎた頃から雲行きが怪しくなってはいたが、ぽつりぽつりと降り出したのは夕闇が辺りを覆った頃だった。

「おい…おまえら送ってってやるぞ…」

仕事が予定より長引いてしまった詫びのつもりか、空を見上げていた豪法寺は小室と功に振り返って言ったが、功はただ短く断った。

「おれはいい…傘を貸してくれ」
「・・・」


「藤臣のやつ…今日、変じゃなかったか…」

雨のけぶる中、傘をさした功の後ろ姿が遠ざかっていくのを見ながら、豪放寺が呟く。

「確かに…声をかけた時ぼんやりしてたな…」

今日の功は身体を動かして仕事はしているのだが、心はどこか別な場所にあったような…なんだかそんな感じがした。ほとんどしゃべらないし、表情も変わらないのでひどくわかり辛いのだが、決して短くないつきあいの中で功がぼんやりすることなどめったにないことは知っていた。

「志野原と喧嘩でもしたんじゃあるまいな…」
「んなこと、あるわけねぇだろ…」
「…でも、あいつがあんな風になるなんてよぉ…」
「いつからそんなおせっかい野郎になったんだよ」

小室の言葉に豪放寺が少しムッとしながら小型バンに乗ってエンジンをかけた。

「ちっ…ほら、早く乗れよ」

助手席に座った小室はもう一度功が消えた方角を見る。
豪放寺に言われるまでもなく、功のぼんやりの原因が千津美じゃないかということは薄々感じていたが、ただ…それ以上考えるのを止めたのだった。

「あいつは、奴といる時が一番嬉しそうだもんな…」

ひとりごちた小室の小声を、豪法寺が耳聡く聞きつけたらしい。

「…ん?なにか言ったか?」
「なんでもねぇよ」
「てめぇまでなんか変だぜ…」
「うるせぇぞ…」

そんなことを言い合う二人を乗せた車は、雨の町を走りぬけていった。



千津美のアパートの前で功は立ち止まった。
彼女の部屋の灯りが見える。


『何か作って待ってるね…』

大学で不意打ちを食らったように出会った時、思わずバイトの後に行っていいかと訊いてしまった。

一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔をくれたあいつ…

あの笑顔にどれだけ救われたか…
あそこであいつがおれを待っているという事実がどれだけ嬉しいか…

あいつはわかっているのだろうか…
たぶん、わかっていないだろうな…

昔っから、おれとの事に妙に自信をない奴だった。それもこれもおれのこの性格の所為なんだか…


功は口の端に自嘲を浮かべる。


きっとわかっていないんだろうな…
おれがあいつにどれだけ惚れているか…


功はゆっくりと階段を上り始めた。

ノックをすればすぐにドアが開いた。恥ずかしそうに頬を染めた千津美が「いらっしゃい」と言う。功は黙ったまま濡れた傘をたたきに置いた。

「藤臣くん、濡れてない?…タオル…」
「大丈夫だ…傘をさしてきたから」

慌ててタオルを取りに行きかける千津美を制しながら、功は靴を脱いであがった。

「お…お腹へってる?…も…もう…出来てるんだけど…」
「もらおうか…」

小さなアパートの部屋は玄関を入ればすぐそこにキッチンと食卓がある。千津美があたふたと料理を並べた食卓についた。



「で…でねっ、おじいさんってば復讐とか言っちゃってね…」
「…」

千津美が今日出会ったおじいさんの話をしているのを、功は食事しながら黙って聞いている。

「すごく素敵なご夫婦だなぁって思ったの…なんだかいいよねー」

千津美の頭の中に仲良く寄り添う老夫婦の姿が浮かび上がって、それを素直に羨ましいと思っているのだろう。

「ああ…だが…」

功が重い口を開く。

「おれは、復讐はできないな…」
「え…」

何を言われたのかわからずに、千津美はキョトンと首を傾げる。

「美味いよ、どれも… 」
「や…やだ、藤臣くんったらお上…手……!」

料理を褒められた千津美は照れてかぁっと赤くなると、そう言いかけたが…功の言葉が意味している事に気づいて、はっ…と口を閉ざした。

かちゃん…
持っていた茶碗をテーブルに置いた千津美は功を見る。功は穏やかで優しい表情で自分を見ている。

「あ…あのっ…そ…それって…」

困った時の癖で千津美は握り拳を口元に当てている。

「おれの場合は…恩を仇で返す…かな」
「そ…そんなことないよっ…いつかの…おぞ…お雑炊…美味しかったもの…」

必死で言う千津美がおかしくって、功はぷっと吹き出した。


嬉しそうに千津美が語る老夫婦の話を聞きながら、功は年老いても相変わらずドジな千津美は腰を痛めるどころか大怪我だってしかねないな…などと考えていた。そんな千津美に自分は寄り添ってやりたいと思う…何十年後の千津美の傍に…。

あの嵐の夜…千津美を抱こうと思っていると率直な気持ちを打ち明けてみれば、彼女は頷いてくれた。
いつかはそんな関係になると思っていたと言ってくれたのだった。

自分は千津美に許されたのだと功は思う。
この先もずっと彼女の傍にいていいのだと…

ずっと…




『あたしのこと好き?…愛してるって言って… 将来を約束して…』

なぜだか千津美の頭の中に、小松の元カレが言ったセリフが蘇ってくる。
長いつきあいの中で、功からは好き…と言われたこともなければ、 なんらかの約束もされた事はなかった…
だから今…初めて聞いたような気がする、将来を示すような言葉にぽぉっとしてしまった所為か…

「あぁぁっ…」

肘が当たってテーブルの上にあった醤油さしを倒してしまった。

「だ…台拭きっ!…」

なにか拭くものをと慌てて立ち上がると、案の定…

「きゃぁぁぁ……っ」

椅子ごと倒れてしまう。

「志野原…!」

功がすぐに駆け寄って千津美を助け起こそうと千津美の身体に手をかけると…

ビクン…

千津美の身体が強張ったことに気づいた。

いつだって千津美はなんのためらいもなく功に抱えられたりしていたのに…そんなことは初めてだった。

功は思わず手を離し、千津美は自力で立ち上がった。


やはり…
口では大丈夫なような事を言っていても、本当は不安なんだろうな…


功に無理強いする気はなかった。千津美の心の準備が整うまで待つのは全く構わなかった功だったから…こぼれた醤油を拭った後、再び食べ始め…ぽつりと言う。

「…おれ…食べたら帰るから…」
「…」

だから安心しろ…と言いたい功だった。

「…あ、そっか…バイトで疲れてるよね…」

今夜はずっと一緒にいてくれるとそう思っていた千津美は、がっかりする気持ちを無理に隠して功を気遣った。

千津美はいつものように自分のドジを嘆いて落ち込んでしまっただけだった。ただひどく情けなくって功が抱き起こそうとした時、せっかく来てくれたのにまた迷惑をかけてしまったと、思わず身体を強張らせてしまったのだったのだが…。


「あ、いい…わたしが…」

食後の片付けを手伝おうとする功に千津美が言うが、功は無視して片付けを手伝う。台所に並んで立つ…すぐ隣にいる功の存在を千津美は泣きたいほど意識していた。

「どうした…?」

どうしても、もじもじっとしてしまう千津の様子がいつもと違って、功が声をかけた。

「あっ…あのっ、藤臣くん…」
「ん…?」

功のシャツの裾をぎゅっと握り締めてから、千津美は意を決したように言った。

「か…帰らないで欲しいの…」

かぁっと赤くなった顔をうつむかせながらも…しゃべり続ける。

「こっ…この前…鎌倉で、 ひ…一晩一緒にいてくれたでしょ…す…すっごく…あの…嬉しかったのよ、だから…ね、私……」

しどろもどろで話す千津美だった。

「ああ、でもっ…藤臣くんが帰らないといけないんなら…べ…別に…いい…んんっ…」

最後まで言わせずに功は千津美を抱き寄せた。

「初めてだな…」
「え…」
「おれに甘えてくれた…」

そんなふうにされたのは初めてで、功の胸に顔を押し付けられている千津美は胸がドキドキしてくる。

「め…迷惑だった…?」
「いや…むしろ嬉しいよ…」

ああ、そうなんだ…

胸につかえていたものがすっとなくなったような…そんな気がする。
功が言った『甘えや我が儘』の正体に初めて気づいた千津美だった。
自分の願いを素直に伝えれば、功は受け止めてくれる…それを嬉しいと言って…。

静かに…ゆっくりと…幸せそうに頬を染めて…千津美は微笑んだ。

功の胸に抱かれたまま…



功が使うシャワーの音を聞きながら、千津美は今敷いたばかりの布団の横にぺたりと座り込むと、先日功に手渡された小箱を枕元に置いた。
考えてみればこのアパートの部屋で自分以外の人間がシャワーを浴びた事などなく、初めての聞く音だった。

「今日は初めての事が多いな…」

千津美はフッとため息をつく。

誰かに料理する為に食材を買ったこと…功や姉、友人が訪ねてきた時に料理をしたことはあったが、あらかじめ予定されていなかったそれはいつも、簡単に有り合わせの物で作っていた。だから今日は変に気負い過ぎてスーパーでうろうろとしていたら、親切な老人に助けられた。
自分に出来ないことを無理してするのではなく、出来ることを一生懸命やればいい…そう教えてくれたのだった。

それから…
初めて功に抱き締められたし…それに初めて藤臣くんに『甘えて』みたのだった…

「ちょ…ちょっと恥ずかしかったかな…」

千津美は片手を握りしめて口元に当てている。


不思議な事に千津美はこれから起こるであろう…もっと深刻な『初めての事』に、全く不安も恐れも感じていない。ただ、功が求めるままに任せればいいのだと思っている。だから功が抱いた心配は杞憂でしかなかった。

千津美の気懸かりはまったく別な事であった。


「志野原…」

気がつけばシャワーを浴びた功がすぐ傍に立っていた。なんとなく鎌倉の夜と似たパターンだが、着替えもなければもちろんバスローブもないので功はバスタオルを腰に巻いているだけだった。千津美はそんな功を見るとさっと目をそらす。

何度か功とプールへ行ったことがある。だから功の上半身など見慣れているはずだったが…。
ハンサムな上に長身で…がたいもいい功は、町中の人ごみの中でもすぐに見つけられるほど目立つが、プールではさらにその鍛え上げられた肉体の所為か、いやがうえでも注目の的だった。そしてその横にいるのは…スクール水着の小学生よりは少しだけましな自分…功に注目している女の子達は信じられないような…嘲るような視線を千津美に寄越したものだった。

どんな姿でも恐ろしくさまになる功と…すでにシャワーを浴びて色気もなんにもない子どもっぽいパジャマ姿の自分…『似合わない…』いろんな人からそう言われた事をいやでも思い出す千津美だった。


「なあ…」

俯いたまま固まってしまった千津美の前に、功はため息をつくと腰を降ろした。

「おまえがいやなら無理しなくても…」
「ちっ…違うの…いやじゃないのっ…」
「…?」

思わず功を見上げた千津美と、不思議そうに千津美を見る功の視線が合った。


「ほ…本当に…」

全てを委ねる前に確かめたかった…
功に後悔はさせたくなかったから…

「私なんか…で…いいの…?」

真面目な功の事だから、 このまま一線を越えてしまえばきっと…先ほどのセリフではないが、一生をかけて責任を取るつもりだろう。それが 痛いほどわかる…わかるから…

相変わらず自信のない千津美だった…。

そんな千津美を見て、功は穏やかに微笑む…
千津美の考えなどわかっていたから…。

「私なんか…って言うのはよせ」
「え…」

千津美の肩を抱き寄せ…

「おまえが欲しいんだ…おまえじゃないと、いやなんだ…」

そう言って口づける。

いつもの…軽く唇を合わせるだけのキスじゃない… 功は自分がそんなことができるのが不思議に思える位、本能に任せて千津美の唇をむさぼっていく。

やっと唇を離した千津美の身体は力なく功の腕の中に崩れ落ちて行った。布団の上に横たわらせその上に覆い被されば、潤んだ瞳で千津美が自分を見ている。初めて見せる大人な表情が悩ましい…。


さなぎがいきなり蝶に変わったようだな…


戸惑うような…嬉しいような…不思議な気がして、功は千津美の頬を両手で包んだ。

「そんな顔…誰にも見せるなよ」

もう一度口づけを落としながら千津美のパジャマに手をかけた。


Chizumi & Fujiomikun

Topにもどる


Copyright © 2008 彼方から 幸せ通信 All rights reserved.
by 彼方から 幸せ通信