二人の物語 6




ドン…

「きゃあっ」
出会い頭にぶつかった千津美がいつものように倒れそうになったところ
肩をがしっとつかまれた

「?」

「おまえ…こんなところで何をやってる」

小室だった

「あ…わたし、今仕事中で…」


しつこく言い寄ってくる人を追い払うために大学に来てくれた時から
小室とは会っていないかった

「仕事…?」

商店街をいつものように巡回していたところだった

「今、ここのタウン誌編集室で働いているの
 ところで、小室さんはどうしてここに?」
「おれも仕事、この先に用があって…」

なんでも新しい取引先ができて
これからもちょくちょく来るということだった

「良かったら遊びに来て…藤臣くんも喜ぶよ」
この商店街に住んでるんだ、と千津美は住所を教えた

じゃあ、と言って微笑みながら去っていく千津美の後ろ姿を
小室は複雑そうな顔をして見送った



「冷えるねぇ」
お茶屋のおばあちゃんが熱いお茶を出してくれた

「ありがとう」
千津美は嬉しそうにお茶を頂きながら、おしゃべりをはじめる
情報収集…それが彼女の仕事だった

師走に入って商店街はクリスマスと年末商戦で一段と活気づいている
タウン誌は今年の総集編の特別企画があって千津美も結構忙しい

今は商店街の人々に「今年一番の心に残った出来事」を聞いて回っていた

おばあちゃんは言った
「そりゃあ、あんた…傘寿を迎えた日だね…」
「そうですよね…おめでたかったですね」
千津美がニコニコしながら聞いている

くっくっとおばあちゃんは笑った
「あの日、あんた…そこの看板にぶつかって…」

『おいしいお茶あります』
と軒先にぶら下がっている 看板を指差す

「鼻を真っ赤にして『おいしいお茶くださぁい』って言いながら
 店に入ってきてさ…」

そのままお茶を飲む人用に置いてあるベンチにつまずいて
お茶の入った袋が陳列してあるところに見事に倒れこんだ
お茶袋が店内に散乱したのだった

「八十年間生きてきて初めてだったよ…こんなドジな子…
 いいもの見せてもらったって感謝したくらいさ」

「…」



「そりゃあ、やっぱり兄貴だろ」
「あんだけすげぇと思ったのは兄貴がはじめてだもんな」

八百屋と酒屋の息子たちが口を揃えて言った

「おれたち、これでも結構ならしてたんだぜ」
「どんな大人数の不良達にかかられても二人だったら無敵だったのにさ」

思い出しながらうっとりと話す

「あっという間におれたちころがしておいてよ…
 それでいて勝ち誇るわけでもなくて…」
「無表情に『志野原に手を出すなよ…』ときた…」

しびれたぜ…と涙を流しながら感動ししている

「…」


なんだか今日の収穫はあまりなかった


功は今都内の警察署に勤務している

覚悟はしていたが想像以上に激務だった
夜勤があるので昼間働いている千津美とすれ違うこともある
休日は週末にとれるとは限らなかった
超過勤務は当たり前で、勤務時間外にもしょっちゅう呼び出される
二人の時間をのんびりと過ごすことなどなかなかできなかった

それでも…と千津美は思う

昨年、あの会社に勤めていた時に比べれば
藤臣くんはずっと生き生きとしている…

感情をめったに表に出さない功が生き生きしているというのもおかしなことだが
千津美には感じることができるらしい

小さい頃からの夢が叶って本当によかったと
千津美は心からそう思うのだった





「遅いな…」

その日、商店街にまた仕事で来ると小室が千津美に連絡をしてきた
今日は藤臣くんも早く帰る日だから…と夕飯に誘われて来てみたが
功がなかなか帰ってこない

食事の用意はできていて美味しそうな匂いがただよっている
きれいに片付いた部屋を見回した
あんだけドジなやつなのに、家事は結構うまくこなせるらしい

ここで藤臣とこいつが一緒に暮らしているってわけか…

エプロン姿の千津美が妙に眩しい
小室は何気に視線をそらして言った


「…遅くなると必ず連絡くれるんだけど…」
「事件とか起こってそれどころじゃなくなったじゃねぇか」
「そーかな?」

ポケットに入っている携帯を手にした千津美がいきなり叫んだ
「あーっ」
「どうした?」
「留守電が入ってる…」
「…」

メッセージを聞いた千津美がしょんぼりして言った

「ごめんなさい、藤臣くん今日は帰れないって…」
もう何時間も前に連絡があったのに気づかなかった

「ちっ、相変わらずドジなやつだな…」
いつもと変わらない口調で小室は言ったが、内心ひどく狼狽していた

「せっかく来てくれたのに…藤臣くんと会いたかったよね」
「あ…ああ」
「ごめんね…もう食べようか?」
「…いや、おれ…帰るわ…」
「え…なんで?」

不思議そうに千津美に見られて小室はひどく困惑した
遠慮しないで…と彼女に言われて、仕方なく箸を取った


「なんだか懐かしいわ」
にっこりと千津美が笑った

「ん…?」

「小室さんとは、学食で時々こうして一緒に食べたものね」

学食とここでは状況がまるで違うのだが…
こいつにはそれがわかっていないらしい


『藤臣くん今日は帰れないって』
志野原の声が頭の中に響き渡る

いかん…と小室は何かを振り払うように頭を振った


「どうかしたの…?」

黙っている小室に千津美が訊いた

「あ…美味しいぜ、これ…料理上手いんだな…」
「やだぁ、小室さんたら…」
「本当だ…母さんに習ったのか?」
「え…」

急に千津美が口に手を当てて困ったような顔をした

おれ、何か言ったか?

「あ…あの、わたし…」
「なんだ…」
「両親とも早く亡くして…小学生の頃に…」
「!」

慌てて小室が言った
「す…すまん、おれ、知らなくて…」
「いいの…全然気にしないで…」
「それで…その…」
「あ…、でもお姉ちゃんが面倒見てくれて…」
「そ…そっかぁ、姉さんと二人でずっと…?」
「ううん、わたしが高一の時お嫁にいっちゃったんだ…」
「…」

まさかこの志野原が…と思うような
意外な事実が次から次へと出てくる

「じゃあ…それからは一人で…?」
高一だと…まだガキみてぇなもんじゃないか…

「うん…でも…」
「でも…?」
「すぐに…藤臣くんがそばにいつもいてくれるようになって…」

頬を染めて嬉しそうに千津美が言った

「そうか…良かったな」
「うん」


最初っからわかってたさ
初めて藤臣といる志野原を見た時から
おれの入り込む隙間なんて無いってことを…

だからふたりが別れたと聞いて信じられずに藤臣に会いに行った
藤臣がどれだけ打ちのめされていたかわかった時
おれは決めたんだ
一年だけ待とうと…
一年経ったら志野原におれの気持ちを告げるつもりだった

彼女の友達から志野原につきまとう男がいると聞いて
矢も盾もたまらず大学へ駆けつけた
そこで見たのは、再び仲良く一緒にいる二人の姿だった

おれにはわかった
こいつら、それまでとは違う関係になったんだ

だがよ…藤臣…
高一の時から一人暮らしの志野原を
それまで指一本触れずに大事にしていたのかよ
おまえには勝てねぇな…



「じゃあ…」

夕食を食べ終えた小室が席を立った

「せっかく藤臣くんとゆっくりしてもらおうと思ってたのに…」

ワインが用意されていた
いらんと断ったが
少しだけ…と志野原がついだので飲んでみると結構美味しかった
気がつくとボトルをほとんどを空にしていた




「あれっ」

帰ろうとする小室を送って玄関の電灯のスイッチを入れると
ぱっと一瞬灯った明かりが消えた

「やだ、電球が切れたみたい…」

慌てて千津美は近くにあったドアを開けるとその部屋の電気をつけた
寝室らしい…
玄関の暗闇と対照的な明るさの中に、ダブルベッドが浮かび上がる

小室はそれを見た途端、慌てて目をそらした

「大丈夫…?小室さん…ちゃんと見える…きゃあ」

靴を履こうとする小室の心配をする千津美が
逆に何かに足を引っかけて転んでしまいそうになり
小室に抱きとめられた

「あ…ありがとう…」


その時、ドアが開いて功が帰って来た

「あれっ、藤臣くん…今日は帰れないんじゃあ…」
小室の腕に抱かれたまま千津美が言った




事件が起こって、今日は帰れないかと思ったが
急な展開で事態が収束した

今から帰ると連絡することもできたのだが
黙って戻ってあいつの喜ぶ顔が見たかった

ドアを開けると薄闇の中、小室に抱かれている志野原の姿が見えた

寝室のドアが開け放されている…



小室は慌てて千津美から手を離した
功は靴を脱ぎ、寝室へ入ってドアをばたんと締めた
さっきより暗くなった玄関で靴を履くと小室は帰って行った

男達は一言もしゃべらなかった…


取り残された千津美は途方に暮れていた





どうしよう…

商店街のほとんどの店はもうシャッターを下ろしていた
路地に入った所にある居酒屋やパブなどがまだ明かりを灯している
酔客が何やら大声でわめいていた

人通りもまばらになった商店街を
駅に向かってエプロン姿の千津美がとぼとぼと歩いていた




小室が帰った後、千津美は恐る恐る寝室のドアを開け
着替えている功に声をかけた

「…どうして、小室さんと話さなかったの?」

答えはなかった

「さっきは…わたしがまた転びそうになって…」
「…わかっている」

千津美の顔を見ようともしない

「…なにか…」

そう言いながら 功の腕をつかんだが
その手がぱっと振りほどかれた

「藤臣くん…」

功は黙って部屋を出ていった


振りほどかれた手をみつめた
わたし…一体何をしたんだろう…

こんな藤臣くんは初めてだった
話しかけているのにはじき返されるようなそんな感じがした

功の後を追って行った

まだ 片付けをしていない食卓を功が眺めていた
二人分の食器
ほとんど空になったワインの瓶


「あの…お腹へってる? 藤臣くんの分もあるよ」
「いや…」

取りつく島もない功の態度に千津美はどうしたらいいのかわからない

ふと功はそこに丸めて置いてあるものに気づいて手に取り広げてみた

「あ、それね…小室さんがくれたの
 会社で作ったカレンダーなんだって…きれいな写真が…」

びりっ

「え…」

それを二つに裂いた功を見て、千津美は青くなって立ち尽くした


「シャワーを浴びる」

そう言って功は部屋から出ていった
しばらくして水の流れる音が浴室から聞こえてきた


破かれたカレンダーを見ながら震えが止まらなくなった
いつもの藤臣くんじゃない…

シャワーから出てきた彼と顔をあわすのがなぜか恐くなって
気がついたら外へ飛び出していた





くっくっと章が笑った

「功と喧嘩したの…?」
「いえ…そういうわけではなく…」

理由はなんだか説明したくなかった


「でも珍しいな…普通相手の実家にいかないよね…」
「わ…わたし、どうしていいかわからなくて…迷惑だったですよね」

「章…」
母親から睨まれて、章も謝った

「ごめん…そういう意味で言ったんじゃないんだ」
「そうよ…わたしたちは嬉しいわ…本当にいつでも来ていいのよ」


お姉ちゃんにはまだ手がかかる乳飲み子がいる
お友達の家にこの時間にいきなり訊ねるのは気がひけた

途方に暮れた千津美がエプロンのポケットに手を入れると
そこには携帯と小銭が入っていた
それはちょうど藤臣くんのおうちに行ける金額だった


「すいません…こんな遅くに…」
わたしったら…本当に非常識だ

「そうだよ」
いつもの軽さが消えた声で章が言った

「章…」
母親がまた睨んだが、今度はそのまま続けた

「こんな遅くに…駅からうちまで一人で歩いてくるなんてさ」
「でも…」
「功がなぜいつもちぃちゃんを送っていったのか、わかってるのかい」
「あ…」
「自分のせいで家を飛び出したちぃちゃんになにかあったら…
 功がどう思うかな… 」

じわっと千津美の瞳がうるんできた

「すまん…少し言い過ぎた…」
「いえっ…章さんの言うとおりです…わたし気づかなくって…」

「おれが言いたかったのはさ…それがあるんだから」
と、千津美のポケットの携帯を指差した

「連絡してくれれば迎えに行ったのに」

「あ…これ…」
千津美が携帯を取ると情けなさそうに言った

「バッテリーが切れてしまって…」

ブッと章が吹き出した
「ちぃちゃん、相変わらずだな…」


まったく…
功のことならなんでも無条件に受け止めそうなちぃちゃんなのに
いったい、あいつ…何をしたんだ…?



かちゃりとドアが開いて、功が部屋に入ってきた

「…」

「ごめんなさい…あなたが来た時に、功に連絡しておいたの
 千津美さんには一晩泊まってもらうって言ったんだけど…」
功がどうしても迎えにいくときかなくて…そうお母さんが言った


目が合わせられずうつむく千津美に功が言った

「帰ろう…」

そう言って手を差し出す

いつもの藤臣くんだ
もう怒っていないのかしら…

何も言わずに彼の手を握った



「仲良くなー」
章に送られて、ふたりは家を出た


功に無言でヘルメットを渡され千津美はバイクの後ろにまたがった



志野原は知らない…
小室が彼女にどんな気持ちを抱いているか…

あの日、おれを会社近くで待ち伏せていた小室の目が語っていた
あいつはいまだに彼女への想いを断ち切っていない


暗闇で抱き合っていた二人の姿が生々しく浮かび上がる
あいつから酒の匂いがした

小室に妙な下心などないことはわかっている
だが、男というのは時としてどうしようもなく押さえられない衝動に
かられることがあるんじゃないか

おれが志野原を始めて抱いた夜のように…

いくらプライドの高いやつだと言っても
理性が飛んだらどうなっていたんだ

おれがもし戻ってこなかったら…

人を疑う事を知らない志野原が、 無性に腹立たしかった
そう思っていたところに彼女に腕をつかまれて思わず振りほどいてしまった

食卓には二人が仲良く食事をしたらしい跡が残っていた
ボトルをほとんど空にする位飲んだのか…

小室からもらったカレンダーが家に掛けられるのがただ嫌だった
気がついたらそれを引き裂いていた

シャワーを浴びながら、どれだけ後悔しただろう
あんな大人げない態度をとってしまって…
彼女を傷つけたにちがいない

すぐに謝ろうと慌てて浴室から出たが
彼女の姿が消えていた


携帯は繋がらなかった
おれを拒んでいるのか…

深夜の商店街を志野原を捜して駆け回った
彼女はあの時のように
おれのもとから去っていってしまったんだろうか

不安に心臓が掴まれたように身体が震えてきた


その時携帯が鳴った…
また呼び出しかと思った
今のおれにまともな仕事などできるわけがないというのに

だが番号を見ると母さんからだった


志野原はおれの家へ行ったのか…
あいつには、他に頼れる所がないんだ

そう思うと、彼女がひどく不憫で…愛おしくて

あいつの姿が見えた時、ほっとすると同時に
抱きしめてやりたくてたまらなくなった

母さんや兄さんがいたからな…
そんな自分の自制心を少し恨んだ



マンションの駐車場にバイクを止めた
バイクから先に降りた功は、千津美の身体を抱いて降ろしてやる
ヘルメットをはずして、乱れた髪に指を絡ませた

千津美がそっと顔を見上げ、功と目が合った


「このばかやろう!」

功が怒鳴って、千津美がびくっとした



「いきなりいなくなって…」
そう言うと、藤臣くんはわたしを強く抱きしめた

「どれだけ心配したか…」
「ご…ごめんなさい…わたし…」

そう言って謝る千津美を功は大切そうに両腕で抱えて部屋へ向かった






ふぅっ、と千津美はため息をつきながら受話器を戻した

久しぶりに三浦から連絡があった
大学を卒業してから会っていなかったから、忘年会でもしようと言う

「うん、しよう!」

懐かしくってすぐに誘いにのった
けれど是非藤臣くんも一緒にと言われて

「彼…年末年始は忙しいから…」
「じゃあ年が明けて余裕ができたら教えて」

わかった、と答えると
「豪放寺くんや小室さんも呼ぼうね!」
三浦が明るく言って電話を切った


どうしよう…
あれから小室さんとは会っていない…

藤臣くんはなんて思うだろう…


あの日、彼はあんなことをしてすまなかったと謝ってくれた

「あの時…動揺してしまったんだ」

それから目をそらすと言った
「志野原…
 おれがいない間、男を部屋へあげるな…」

藤臣くんが何かもっと違うことを気にしているような感じがしたけれど
何も訊かずに約束した

「うん…これからは気をつける」


その後、彼はわたしを一晩中…
身動きもできないほどきつく抱きしめていた
初めて彼に抱かれたあの夜のように…


『恐いんだ…おまえがまたいなくなってしまうような気がして…』

彼の言葉が蘇った

また藤臣くんを不安にさせてしまったんだ
わたしはあの時、どれだけ彼を傷つけたのだろうか


そんなことを考えていたら玄関のドアが開く音がした

「ただいま」

藤臣くんが帰ってきた






「きゃあー、すっごい偶然!」

見覚えのない女が嬉しそうにおれに話しかけてきた

「…」
「やっだぁ…別に恥ずかしがる必要ないですよ」
「え…いや…」
「まさか忘れちゃったんですかぁ…ほら、この前の冬に◯◯駅前で会って…」

うふっと彼女が笑って、おれはやっと気がついた
あの時期、関係した女の一人なのだろう…

「…」

「ねえ、お仕事の後、お会いできませんか」

「よせ、そいつには婚約者がいるんだぞ」
黙っているおれに代わって同僚が面白くなさそうに言った

「ふーん」
それを聞いて彼女は少し考えた後、おれの耳元に顔を近づけると

「婚約者の彼女にあの時のこと、話しちゃおうかな…」

そう小声で言った



「じゃあ、お仕事終わる時間に入り口の所で待っていますね」


なんてラッキー…!

あの日、駅前でバイクに乗ったまま放心状態のような彼の姿を見かけた時
うっとりとみとれてしまったのよね
こんなにかっこいい人…初めて見るような気がした
ちょっと恐かったけど思い切って声をかけてみたら
案外簡単にのってきてあたしもどきどきしたんだ

でもことが終わると彼はさっさと帰ってしまって
連絡先どころか名前すら教えてくれなかった
あれ以来、何度もあの駅前をうろうろしたのに
二度と彼の姿を見かけることはできなかった…

バイト先のコーヒーショップで足をけがした子の代わりに
近くの警察署までコーヒーのデリバリーに出かけたら
そこに彼がいるんですもの

これはやはりアタックしろってことかしら…?

彼とつきあえたら最高なんだけど
婚約者がいたって構わない…
むしろ婚約者の存在をうまく利用できそうだわ
さっきも渋ってたわりにはOKしてくれたし…


彼女は満足した顔でお店へと戻っていった



なんてことだ…
この前の小室のことといい
おれは試されているのか…

志野原はおれがしたことを知っている

だが…

彼女は何も悪くないというのに
自分が傷つけた所為だと言って泣いた彼女の姿が目に浮かぶ

これ以上彼女を巻き込みたくない
志野原に知られずにどうにかしなければ
だが、どうやって…


『藤臣くんてば…』
ふと志野原がそう言う声が聞こえたような気がした…


おれは…




あの人が出てきた…
こんな多勢の人の中でもひときわ目立つ
本当に素敵なひと…

バイトの友達がびっくりしていた
彼女もずっと彼に目をつけていたらしい
でも恐くて声がかけられなかったと
道理でいつも警察署への仕事はすすんで引き受けていたわけね
デートの約束をしたと言ったら、めっちゃ羨ましがっていた


うふんと笑って彼女が叫んだ
「藤臣さーん」

彼女が近づいていくと

「ついてきな」
功はそう言って、くるりと背中を向けて歩き出した

「?」


地下鉄と電車を乗り継いで降りたところは結構有名な繁華街だった
さっさと前を歩く彼の後にくっついていく

商店街を通り抜けた時、気のせいかじろじろ見られている気がしたけど…
八百屋と酒屋からは同時に若い男の人が飛び出してきて何か言いたそうにしていた

彼が向かった先は商店街の一角にあるマンションだった


「ここ、藤臣さんが住んでいるの?」
「ああ」

なぁんだ、結局それだけが目的なんだ
映画とかお食事とかって期待しちゃったけど
でも自宅に連れてこられたのは悪くないな…
もしかしたらこれから毎日でも遊びにこられるかも…

でも、彼…ほんとうにここに来るまで 全然しゃべらなかった
そういや前の時も、ほとんどあたしが一人でしゃべっていたっけ
無口な人なんだわ…


鍵を開けてドアを開けた彼が、ただいまと言った

「?」




「お帰りなさい、ふじお…」

功が女の子を連れているのを見て、千津美はびっくりして言葉を止めた


「おれの婚約者だ」
功が彼女に千津美を紹介する

「話があるんだろう」




おれはもう少しでいつもの間違いをしでかそうとしていた

八杉と会った時を思い出した
昔のことはわざわざ言わなくても良いことだと思ったが
志野原は八杉から直接聞かされてショックだったようだ
おれの口からきちんと説明しておけば
そんな目に会わなかったのだろうに

昨年のことも結局はそれが原因だったのじゃないか
いつも何も言わずに決めてしまうことが
決して志野原のためにはならないと気づいた筈なのに

おれときたら…


それに…

彼女にお茶を出している志野原を見た

志野原は大丈夫だろう
彼女が何を言おうが
志野原ならそれを受け止めてくれるような、そんな確信が持てる


おれが試されているのではない
おれたちが試されているんだ




「あ…あの、お話って…」

ご丁寧にお茶まで出してくれたその子があたしの前に座って訊ねた
ふん…信じられないわ、この子が婚約者…?
ちまっとしたガキっぽい子じゃないの

藤臣さんたらどういうつもりなんだろう
本当に話していいのかしら

ちらりと婚約者の横に座っている藤臣さんを見た
相変わらず無表情に黙っている

いいわよ…話せって言うのなら


「あたし…今日偶然藤臣さんに会った時はびっくりしちゃって…」
「藤臣くんの知り合いの方ですか?」
「知り合いって…」

ねぇっと功を見る
功は無表情に彼女を見た

しょうがないわねぇ、と彼女が話す
「あたしたち、この前の冬に出会ってね…」

千津美の顔を面白そうに見る

「その…関係を持ったのよ」

「え…」
と言って千津美が功の顔を見た


「一度だけだ」
功が短く肯定した

「あ…」

千津美はさぁーっと青くなって、握りしめた手を口に 持っていった


だから言わんこっちゃない…
あたし、知らないわよ…


「…すいません」
「えっ…」
「怒っているんですね…」
「…」
「わたしが悪いんです
 藤臣くんは本当はそんな無責任なことするひとじゃないんです」

真剣な顔で一生懸命話す千津美に虚をつかれた彼女が焦って言う

「ちょっと待ってよ…」

「わたしの所為で…あなたまで…
 ごめんなさい…本当にごめんなさい…」

何度もごめんなさいと繰り返す千津美を
彼女はあっけにとられてみつめた


「もう気がすんだか」
功がそう言って彼女を見た


「別に…謝ってもらうつもりできたんじゃないわ」
「え、じゃあどうして?」

真顔な千津美に、思わずかぁっと赤くなって

「もう、いいわよ」

怒って立ち上がると部屋を出て行った


「待…待ってくだぁ…」
追いかけようとして立ち上がりかけた千津美を功が腕をつかんで止めた
そしてそのまま腕を引き寄せた

「悪かったな…」
「藤臣くん…」
「あいつがおまえに話すと脅かすから
 いっそ会わせた方が手っ取り早いと思ったんだ」

「脅かす…?」

不思議そうに千津美が功を見上げる

本当にこいつは人の悪意というのがわからないんだ

「おれもまさかおまえが謝るとは思っていなかったが…」
「だ…だって…悪いのはわたしだもの…」
「おまえは悪くない…」

考えてみれば彼女が謝るのは不思議ではない
何もかも自分が悪いとこいつは思っているんだ

「おれの過ちの後始末をおまえにさせてしまった」
すまんな…功が謝る

「な…なに言ってるの、藤臣くんてば…」

真っ赤になってそういう彼女がたまらなく愛おしい
もう何をためらうことがあるのだろうか…

おれは彼女の頭に手をあてるとおれの胸に押し付けた



「小室はおまえのことが好きなんだ…」
唐突に藤臣くんが言った

びっくりしたわたしは顔を上げようとしたけど
頭が押さえつけられているので動かせなかった


「初めてあいつにあった時…おれたち喧嘩していただろ」
「うん…」
「おまえとつきあっているのがおれだと言うのが我慢できなかったらしい」
「どうして…」
「あいつはおれのこと嫌っていたからな」

あのプライドの高い奴が、おれにショックを受けたと言った

「それで…あの日、玄関で抱き合ってるおまえたちを見た時
 頭に血が上ってしまった」

「だから…怒ったの…?」

振りほどかれた手を思い出す
あんなこと藤臣くんがしたのは初めてだった

「怒ったんじゃない…」

疑うことを知らない志野原にあの時は腹が立った
けれどそういう彼女がおれは好きなんだ


「妬いていたんだ…」






いつもの盛り上がりがなく、みんな妙にしんと静まり返っている


新年早々はバーゲンなどあったが
年度末からの忙しさもやっとピークが過ぎたころ
千津美ファンクラブの面々が久しぶりの飲み会を開いた

同じ頃、千津美が友達との新年会の場所を探していたので

「いーじゃぁないか、一緒にやろうよ…」
と、会場の一角を提供した

豪法寺、三浦、園部が並んで座っている
向かい側には千津美を真ん中にはさんで功と小室が座っていた



ったく…新年会の話がきた時は断ろうかと思ったけどよ…
断ったら断ったらで、変に意識していると思われてもいやだったから
きてみたんだが…

そりゃあ藤臣にしてみれば
あの時のシチュエーションは許せないとは思う

でも、結局何もなかったんだぜ
あれからもう随分日が経ってるのに
今さらこだわることでもないだろう

いったい、なんだよ…
これは…



真っ赤になった千津美はうつむいたまま料理をつまんでいる

さっき隣に座った小室に新年の挨拶をした

「あ…小室さん、明けましておめでとう…」
「ああ、今年も宜しく」

「こ…この前は…」
と言いかけた時、功が千津美の肩をつかんで自分の方へぐいっと引き寄せた

「え…」
驚いた千津美は肩に置かれてる功の手をじっとみつめた


千津美の肩を抱いたまま、功は無表情に酒を飲んでいる

「…」

何も言い出せないような雰囲気で、さすがの豪法寺も黙って酒を飲んでいた
三浦や園部をはじめ、商店街の面々も戸惑っている



「まだこだわってるのかよ」
我慢しきれず小室が言った

「いいや」

「じゃあ、なんなんだよ…それは」

「いけないのか…?」

「ふざけるなよ…」
小室が切れて言う

「ふざけてなどいない」

功と小室の目があった

ふん、と小室が笑って言った

「決着つける時がきたようだな…」
「面白そうだな…」


二人は同時に立ち上がった


「ふ…藤臣くん…や…やめて、小室さんも…」
千津美が焦って止めようとするが

「おまえはここにいろ」
そう言って功は小室とその場から出ていこうとした



「志野原さん…! 大丈夫?」

突然園部が叫んで、功が振り向いた

千津美が手で口を押さえ苦しそうに息をしている


「志野原…」

功が千津美の方へ戻ろうとするより早く
千津美が立ち上がって足早に出て行った



「千津美ちゃん…おめでたなんじゃないかい?」
漬物屋のおばさんが言った

「昨日、うちの店に来た時も入った途端辛そうだったよ…」
うちは匂うからね…と笑う

「さっきから酢の物ばっかり食べてたしね…」

「うちに検査薬あるから…」
と薬屋が功にすすめる

功はなんだかぼんやりとそれを聞いていた

「藤臣よ…ぼけっとしてないでしっかりしろよな」
豪法寺が笑って言う



「すいません…」
謝りながら千津美が戻ってきた


「志野原…」
「なあに…?」
「明日医者に行った方がいい」
「…大丈夫よ…ちょっと胃の調子が悪いだけだわ…」
「おれが一緒に行くから」
「え…」

千津美は驚いて功を見た

「そのあと、役所に行って籍を入れよう…」
「ふ…藤臣くん」
「警察学校を卒業して落ち着いたらと思っていたのだが…つい忙しくて…」

千津美は、突然の展開についていけずぽかんと黙って功を見ていた

「いいな」

真剣に功からそう言われて、うんと千津美がうなずいた



「ちょっと待ちな…」

そんな声が聞こえて、二人はみんなの方を振り向いた
そこにいる全員が責めるようにこちらを見ている

「まさか籍だけ入れておしまいってわけじゃないだろうね」

「兄貴…それはないぜ」
八百屋の息子が言った

「一生に一度のことだよ、派手にやろう」
酒屋の息子も言う


「藤臣…てめぇ」

すぐ傍に立っていた小室が功の胸ぐらをぐいっとつかんだ

「志野原に花嫁衣装を着せないつもりかよ」




Chizumi & Fujiomikun

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