「お帰りなさい、あなた」
商品を選ぶ手を止めて、ノリコはそちらを見た
お店のご主人がどこからか帰って来たようだった
『ご苦労さまでした、あなた…』
あの時の自分の言葉を懐かしく思い出して、くすっとわらった
ご主人と少し話した後、おばさんはまた戻って来て訊いた
「他に何か欲しい物はあるかい?」
「あの…近頃なんだか唇が乾燥してがさがさになるので…」
「ああ、もう風が乾いてきたからね…」
旅から旅の毎日だった
それでも最低限のお手入れくらいはしたい…
イザークのためにも…
町に入ってこの化粧雑貨屋さんをみつけたノリコは
先ほどからいろいろ細々としたものを選ぶ事に余念がない
「これがいいよ」
おばさんが、小さな容器に入った軟膏のようなものをみせてくれた
「指につけて塗るんだけど…」
そう言いながらノリコを見る
「色付きもあるんだよ」
「あたし…そんな…」
「薄くほんのりつくくらいだからね…あんたにはこれが似合う」
桜色のものを勧めてきた
「試しにつけてみな」
ノリコの唇に塗ってくれた
「やっぱり…よく似合うよ」
鏡を渡されたが、自分ではよくわからない
でも、せっかくの好意なのでそれを買い物かごに入れた
「ちょっと、いいかい?」
え…とノリコが戸惑うにもかかわらず
おばさんは手の甲でそっとノリコの頬を撫でた
「思ったとおりだ、すいつくようなもち肌だね…」
そう言いながらじろじろ眺める
ノリコはわけがわからずにきょとんとする
「顔はあどけないのにね…
男を夢中にさせるんだよ…あんたみたいな娘は」
「あ…あの…」
「気をつけなよ…変な下心持ってる男達が寄ってくるからさ…」
「あ、それなら大丈夫です」
きっぱりとノリコが言いきって、おばさんは少し不思議そうな顔をした
そこへ若い男が商品を持って入ってきた
「パラチナから香油が入ったよ」
「おや…珍しい、近頃は政変でめったに入ってこないのに…」
「香油?」
ノリコが不思議そうに訊いて
「ああ…花から取った油だけどね…
パラチナ産のは香りもいいし高品質で人気があるんだよ」
「どういうふうに使うんですか?」
興味津々でノリコが訊ねた
「肌に直接すりこんでもいいけど…
風呂から上がる時に盥にお湯を入れてさ…数滴たらしたのを頭からかぶると
香りだけでなくって髪やお肌もツヤツヤするよ…」
どうだい?と訊かれて、ノリコは欲しくなった
イザークが喜んでくれそうな気がした
「おいくらですか?」
いきなり香油の入った容器を押し付けられ、そのまま手を握られた
「え…」
「あんたにあげるよ…」
その男の人が言った
「…でも」
「代わりにって言ったらなんだけどさ…これから一緒に夕飯でもどう?」
おやおや…と、おばさんが面白そうに見ている
「あ…あた…し、だめです」
「飯だけだよ…いいだ」
そこまで言いかけたが…
「うわっ」
その手がつかまれ、ぐいっと離された
「いくらだ?」
イザークはノリコの手の中にあった香油をかごに放り込むとそう訊いた
お代を払ってノリコの腕を取ると、店を出しなにじろりと男を睨みつけた
「な…なんだよ、あれ?」
つかまれた手を痛そうにさすりながら、怒ったようにその男は言うが
おばさんはくっと笑った
「道理で…」
ものを選ぶ時はかなり優柔不断で
あたしが勧めるものを断れずにかごに入れていた娘だったが
男に気をつけろと言った時だけきっぱりと大丈夫だと言い切った
「ちゃんと見張ってるひとがいたんだねぇ」
それにしてもいい男だった…
ったく…
女の子の買い物だと言うから一緒に店には入らなかった
それがどうだ…
気がつくとどこの誰だかわからん男がノリコの手を握っている
「イザークてば、怒ってるの?」
ノリコが伺うようにおれに訊く
「おまえは悪くない…」
そう言って彼女を見た
「ん…?」
イザークがあたしを見ると不思議そうな顔をした
「あ…」
もしかして、さっきのリップが…
「変?…お店のおばさんがつけてくれたんだけど…」
慌ててポケットからハンカチを出して
唇を拭こうとした手を押さえられた
「構わん…そのままでいい」
そう言ってイザークは、赤くなった顔をふっとそらした
「?」
セレナグゼナでみんなと別れてからもう一ヶ月以上が経っていた
あたしたちは運命を変えられる方法を探しつつ
追っ手から逃げる旅を続けていた
その間に、あたしたちの関係は変わった…
『ご苦労さまでした、あなた』
あの時のイザークの狼狽ぶりは、今思うと結構可笑しかった
充分に言葉を把握していなかったあたしの間違い…
あなた…妻が夫に呼びかける言葉…
夫婦…ってなんだろう…そんな疑問が頭に浮かぶ
結婚という儀式をした二人…
あたしたちは夫婦ではないけれど
お互いの思いはもう揺るがないと確信できる
あたしが傍にいる限り生きるために戦うと彼は言ってくれた
そしてあたしは絶対彼の傍にいると
たとえあたしのせいで彼が天上鬼になってしまったとしても
それでも構わない…
イザークと一緒にいるとあたしは決心したんだ
結婚の儀式など必要ない
あたしたちはもう永遠を心に誓い合っている
イザーク…
あなた…
「ごめんなさい、待った?」
いつものように長湯したノリコは、廊下で待っていたイザークに言った
イザークはそんなノリコに微笑いかけたが、おやという顔をする
「いい香りがするな…」
「えっ、わかる? 今日イザークが買ってくれた香油をね、使ってみたの」
「香油…?」
「パラチナっていう所からきたって言ってた」
さっきはノリコの唇がほんのりと桜色に染まっていただけで
動揺してしまったばかりだというのに…
かすかな香りをただよわせながら
ノリコの髪と肌がいつもより艶めいて見える
これから風呂に行くのだろうか…
男の二人連れがすれ違い様にちらっとノリコを見たような気がした
「だめだ!」
「え…?」
ノリコの腕をつかんで部屋へと急いだ
こんなノリコを他の誰にも見せたくなかった
なぜだろう…近頃のノリコにはふとした瞬間思わずどきりとさせられる
彼女は少女から大人へと少しずつ殻をぬぎすてているのだろうか
気がつくと、彼女を見ている男たちがいることがある
いかん…今まで以上に気をつけないと…
「いろいろ買い物したみたいだな…」
イザークはベッドの上でノリコを膝の上にのせて座り
ただよってくる香りをひとり堪能していた
「うん、ああいうお店初めてでしょう?
なんだか楽しくなってね」
今までの町では小間物か薬草などを売っている店に
ついでに置いてあるのをみかけただけだった
「大きな町だからかしら」
「そうだな…セレナグゼナにもあったかもしれんが…
あそこでは買い物している余裕はなかったからな」
ノリコの髪に触ってみた
いつもよりしっとりとしている気がした
化粧品か…
まったく縁がなかったが…悪くはないな
「さっきおまえが言っていたパラチナだが…
化粧品を特産にしている町があると聞いた事がある」
「へぇ、化粧品てここではお花からつくるんだよね」
「ああ…気候が温暖なところだから、一年中花が咲いているのだろう」
「素敵…」
「行ってみたいか…?」
「えっ?」
ノリコは顔を上げてイザークを見た
「遠いの?」
「隣国だ…ゆっくり行っても二ヶ月はかからんだろう…」
どうする…とイザークが訊いて、ノリコはこくんとうなずいた
「行ってみたい…」
「では決まりだな」
「…」
ノリコが黙ってイザークをみつめている
「どうした…?」
「だって…」
初めてだった
行きたい場所があってそこへ向かうのは…
「なんだか…本当に旅行するみたいでわくわくする 」
にこりと笑ったノリコをイザークはぐっと抱きしめた
逃げ惑うような旅しかさせられないことがひどく不憫に思える
「ノリコが行きたいと言うなら海でも…雪山にだって連れて行ってやる」
そう言ってくれるイザークの気持ちがノリコにはひどく嬉しかった
あったかい想いが胸に込み上げてきてイザークの胸に頭をもたれさせる
「イザークは…行きたい所はないの?」
おれの胸に顔を埋めたノリコが言った
「特にはないが…敢えて言うのなら…」
ノリコの耳元に口を近づけて囁いた
「ノリコとふたりきりになれる所かな…」
そのまま赤くなったノリコの首筋に唇を這わした
翌朝、イザークが馬の準備を済ませるのを
ノリコは厩舎の外で待っていた
樹木の葉は色を変え始め、空気は少しひんやりとして乾いている
もう秋なんだ…
今朝、買ったリップを塗っていたら
イザークがいきなりとんとキスをしてきた
唇を重ねるだけの軽いキス…
「昨日…見た途端奪いたくなったのだが、往来だったしな…」
唇を拭いながら、そう言って彼は笑った
思い出しただけでノリコはときめいてどきどきする
どこに行こうと構わないよ
イザークが一緒にいてくれるのなら…
それだけで幸せなんだもの
「あれっ、あんた…」
昨日お店にきた男の人が通りかかって、あたしに気がついた
「あ…おはようございます」
あたしは取り敢えずあいさつしたんだけど…
「昨日の彼…あんたの恋人?」
「え…あ、はい」
ふん…とその人は鼻を鳴らした
「かっこいいやつだったけどさ…えらく独占欲強そうだよな…」
え…
そんなこと考えた事なかった
「あんたさ…束縛されてんじゃねぇ…?大丈夫かい」
もちろん…と答えかけた時、イザークが厩から出てきた
困るよ…あたしが男の人と話すだけでも機嫌悪くなるんだもの…
それなのに、その人はあたしの傍に立ってイザークの方を挑むように見る
「ノリコ…」
イザークは気がついて険しい顔をする
やだ…どうしよう…
「お…終わったの?」
「ああ」
イザークもその人を睨みつけている
どうしてこういうことになっちゃったんだろう…
なんだかため息をつきたくなる
そうだ…
ふと思いついて、あたしはイザークに言った
「ご苦労さまでした、あなた」
「…」
「…」
その人はなんだか気が抜けたような顔をして黙って去っていった
イザークは赤い顔をしてあたしを見ている
えへへ…とあたしは笑って、イザークの腕に手をまわした
「イザーク…行こう!」
|