軌跡 7


イザークは行ってしまった


最初はあんなことを言って、彼を怒らせてしまったのかと思った
あたしのことを嫌になったのかと…

彼が仕事を受けたのはあたしに時間を与えるため
よく考えて、離れたかったらおれのいない間に出て行けと
そう言われたような気がした

彼が帰って来たら謝ろう…
もう二度とあんなことは言わないと約束しよう
そうしたら、優しい彼のことだもの…きっと許してくれる

きっと…

その時あたしは、はっと気がついた

違う…
そうじゃない…

イザークはあんな事を言ったぐらいで怒りはしない
あんなに優しい人なんだもの…


『辛いな…』

あれは自分の気持ちでもあったんだ


イザークにはわかってしまったんだ
あの時、あたしのなかによぎった暗い思いが…


彼を天上鬼へとめざめさせてしまうあたしなど傍にいない方がいい
でもひとりになったあたしが捕えられたら、結局は同じことなんだ

じゃあ…いったい、あたしはどうすればいいの…?







「いやあ、あんたすごいな…」
商人がおれにそう言った


その仕事は商人が山を越えたところにある街まで品物を運んで
代金をもらって戻るまでの警護だった

山越えに一日、その街で泊まって商談に一日
次の日に山越えして帰る日程だ

その山には山賊が出るらしい

帰りの道中でそいつらが現れた

「街の仲間が教えてくれたんだよ…
 懐に大金を持っているらしいな…」



おれと一緒に背負う運命の重さに
あいつが耐えきれなくなっても不思議ではない

平凡なただの女の子なんだ
どれだけ強い意志を持っていようが
ふとした時に心が折れてしまってもしようがあるまい

幸せな時空の隙間からのぞいた
現実という名の暗い奈落…

あいつが思い詰めたあげく何を考えるかは
訊かなくてもわかっている
なぜなら、おれはもう散々同じ思いにとらわれたのだから





あたしは自分自身を否定した
あたしさえいなければ…この世から消えてしまえばいいんだと
それがイザークのためなんだと

イザークはそれをどう受けとめたのだろう


あ…

それは裏返すと


天上鬼がこの世からいなくなれば…
目覚めはもうその役を担わない…あたしは普通の女の子になれる

あたしが望んだとおりに…

『あのひとは目覚めじゃない…』

ドキン…

『普通の女のひとだもの…』


あたしはいったい彼に何を言ったの?


突然、胸が鷲掴みにされるような恐怖に襲われた


「いやぁーっ」
ノリコは叫んだ

「イザーク…」

恐怖で震える身体を両腕で抱きしめ
力なくベッドに崩れ落ちた

あたしは…なんてことを…

イザーク…許して
戻って来て…お願いだから

涙がぽろぽろとこぼれおちてくる
嗚咽がこみあげて息が出来ない

苦しい…苦しいよ、イザーク



彼がそれを考えなかったとは思えない
むしろ彼のことだから常にそのことを考えていたと確信が持てる

なのにあたしったら、自分のことしか考えられずに…
それがどれだけ彼を傷つけるかを考えもせずに…

ごめんなさい
ごめんなさい

イザーク

戻って来て…


お願い…





気がつくと山賊達は全員足元にころがっていた
どうやらおれは戦っていたらしい

天上鬼の無意識の戦闘本能か…

商人がやたら嬉しそうにおれを褒めるが

「早く行こう…」
そう言って、おれはまた馬車に乗った



不毛なマイナス思考の果てにたどり着く場所
いっそ自分自身をこの世から消してしまえばという思い

この世界の平和のためにその方がよいのではないだろうかと
何度おれはそう思っただろう

夜、絶望の中で見上げる星空がおれに語りかけている気がした
こっちへ来いと…おまえのいる場所はそこではないと


目覚めさえ消してしまえばこの運命から逃れられるのではないかと
すがるような思いであの日樹海へはいった

たとえ目覚めがいなくなってもおれの中の天上鬼は消えないというのに

だが、おれは目覚めのノリコを愛してしまった
彼女をおれの運命にまきこんでしまったんだ

天上鬼がいなくなれば、 彼女はただの女の子になれる…
もう追われることも、逃げる必要もなく…自由でいられる
そんな思いが何度も胸をかすめた

だがおれはノリコを置いて一人でゆくことなどできない
少なくとも彼女がおれといることを望むかぎりは…

ノリコを初めて抱いた夜、見上げた星空はもうおれに何も語らなかった
ただきらきらと美しく輝いていた

それは一体なにを意味するのだろうか





イザーク…
お願い…

あたしを許して
あたしのもとへ帰って来て


彼が心を閉ざしている
どんなに叫んでもあたしの言葉が彼に届かないのがわかった





ぱしゃん…と、水滴が跳ねた

「明日には帰ってくるわよ、彼氏…」
その人が言った

本当だろうか…


イザークが 出て行ってからあたしはずっと部屋に閉じこもっていた
彼の言いつけを守って…
宿を出る前に、イザークが言ってくれたらしい
食事は部屋へ運ばれて来たがほとんど手をつけなかった


そんなあたしに宿の主の娘という人が一緒にお風呂に行こうと誘ってくれた
彼女と一緒だったら、イザークもきっと怒らないと思った


身体中に残された彼の痕跡も、恥ずかしくなかった
むしろそれが唯一残された彼との愛の証のような気がした


「彼と何かあったの?」
「別に…なにも」
「けんか…したとか?」
「そんなんじゃないわ」


ふーん、と彼女はあたしを見た


最初断った仕事の話を急に受けて、そのまま宿を出て行ったんだもの
何かあったと思われても仕方ない

あの晩、彼はきっとどこかに野宿したんだろうな


問われるままに、あたしは渡り戦士のイザークに拾われた島の娘の話をした


「彼…本気なのかしら」
「え…」
「だって、そのシチュエーションってあたかも…」

そう言って彼女はくすっと笑った

「あたかも…なんなの?」
「彼にとったらね…都合のいい存在じゃないの、あなた」
「意味が分からないよ…」

彼女はあたしを見ると小馬鹿にしたように言った

「いつでも抱ける女が傍にいるってことよ」
「!」

あたしは彼女を睨み返した

「イザークはそんなつもりじゃない…絶対に違う!」

「あなた、彼が初めてなんでしょう?」
「ええ」
「男の人のことなんかなんにもわかってないのよね」

このひとは…
清楚な感じはうわべだけだ…
本当は、とても意地悪な人だ…

「男の人のことなんか知らないけど、イザークのことはわかるもの」

あたしはきっぱりとそのひとに言った
あなたになにがわかるっていうのよ…

「そう…随分自信があるのね…
 じゃあ明日…彼が帰った時、あたしが誘惑しても構わないかしら」

「構わないよ…」



お風呂場から部屋までは駆けていった
イザークが待っていてくれないのが悲しくて、また泣いてしまった





近頃、おれの彼女への想いに歯止めが利かなくなった

誰かを愛する歓びを
誰からか愛される歓びを
生まれて初めて知ったんだ

生まれてきて良かった…と思うことが出来た
幸せだととすら感じた

そうして恐ろしいほどおれは彼女に溺れてしまった

剣を床に投げ出し、裸で抱き合ったまま朝まで眠って…

見知らぬ敵にいつ襲われるかわからないというのに
こんなことでは、彼女を守ることなど出来やしない

おれが、もっとしっかりしなくては…





彼のために何ができるのか
彼が望むことならなんでもしようと

さんざんあたしは考えて来た

その結末がこういうことだったの
なんて皮肉なのかしら…


ベッドに横たわっても眠ることが出来ずに
再び旅を始めてからの彼の姿をひとつひとつ思い出して行った

彼の優しい笑顔
時折言う冗談、あたしをからかう時にするいたずらな表情
あたしが攫われたときはひどく怒っていたっけ

なにも知らないあたしに呆れたような顔をして
でも真面目に教えてくれた
あの時、彼は困っただろうな…

あたしを抱きしめた彼の腕
すがりついた彼の胸
重ねられた彼の唇

そして…
すべてをわかちあったあの夜…

今考えてみれば、彼はあたしを最初から抱きたかったんだ
最初の宿で戸惑ったようにあたしを突き放して眠ってしまった
あの村で怒って押し倒した時だって…

それなのに優しい人だから
いつも我慢して…あたしの為に…

あたしが彼の為に受け入れようとした時ですら
彼は自分を押し止めてくれた

彼はいつもあたしを大切にしてくれた
あたしの嫌がることなんか決してしようとしなかった


「!」


ちょっと待て、典子…


『イザークのことはわかるもの…』

なんて偉そうに言ったんだろう
一番大事なことを忘れていたくせに

そう…あたしにはわかる…
イザークはあのひとを抱いたりしない
イザークはあたしの前から消えたりしない

だって…

イザークはあたしが悲しむことは決してしないから


じゃあなぜ彼はあたしを置いていったんだろう…

考えろ…典子
彼は…あたしにどうしろと言うの

あたしは目をつぶって、彼の言葉を思い返した

『約束のことは忘れろ』
『おまえが望まぬなら、一緒にいなくていい…』
『少し、考えるんだな』

その言葉に突き放されたようで
すごくショックで
最初の一日は泣いて過ごした



突然、胸につかえていた物がすとんと落ちて行った


彼があたしをやっと抱いてくれたのは
あたしが絶対後悔したくないと
自分で決めてそれを望んだときだった…

彼のために…
彼の望むことなら…
あたしったらそんな事ばかり考えていた

そんなあたしには、彼が本当に望んでいるものが見えていなかった



やっとわかった…

彼は二人でずっと一緒に歩く未来を見ていたんだ

だから、そのために
あたしがどうしたいかを考えろと
未来を自分で決めるんだと…

あなたはあたしにそう言ってくれたんだね





あの時…
ノリコが暗い思いに捕らわれた時…

この腕に彼女を抱いて
余計なことは考えるなと言うこともできた

あんなふうに冷たく彼女を突き放すよりは
その方がずっと楽だった

彼女はきっとその言葉を受け入れてくれて
おれの胸で安心して眠っただろう

だが…
自分が目覚めだという現実は
これから何度も彼女を襲い、彼女を苦しめる

だから、おれのためにではなく
彼女が自分自身のためにその思いを振り払って
未来をみつめて欲しかった

辛い思いをさせたかもしれない…

けれど一度、あの揺るがない固い決意をすれば
彼女はもう絶対にそれを手放さないだろう

彼女は絶対そうしてくれるとおれは信じている

彼女はそうする力を持っているから…



馬車が街に着いた
おれは報酬を受け取ると宿へ向かった
不安など微塵もなかった



「お帰りなさい」
その女はおれに言った

部屋へ行こうとするおれの腕をいきなりつかんだ

「彼女がいいって言ったのよ」
くすりと笑った

「?」

「少し…あたしの部屋で休んでいかない?」

身体をおれに押し付けて来た





扉が急にあいて、ノリコは思わずきゃあと叫んだ

「何をしている…」


部屋中に何やら糸が散乱して、ノリコが床に四つん這いになっていた

「あのね…イザークが居ない間、暇だからね…
 冬用にショールでも編もうと
 宿の人に頼んで毛糸と編み針を買って来てもらったの…」

ノリコは説明するが、情けなさそうに言った

「でも、さっき毛糸玉がうっかり転がってしまって…」

追っかけようとしたらさらに転がって
結局、部屋中を毛糸だらけにしてしまった

おれはノリコを抱き上げるとベッドに座らせ
その毛糸玉を手に取るとほぐれた毛糸を巻き込んでいく
濃い碧のその色は、女物ではなさそうだった

冬か…
それまでにはまだだいぶ間がある

前を向いたんだな…


ノリコがじっとおれを見ているのが感じられる

「あの女におれと寝ていいと言ったのか」
「そんなこと言ってないよ」
「だが…」
「誘惑しても構わないと言ったの…」

おれは手を止めて彼女を見た
彼女はにこりと笑う

つられて思わず笑ってしまった

「おまえは強いんだな…」
「どうして?」
「おれには真似できん」
「イザークはあたしが誘惑されちゃうと思うの」
「そういう意味じゃない…ただ…」
「ただ?」

彼女から目をそらしてまた毛糸を巻き始める
見事に部屋中に転がせたようだ

「他の男がおまえに話しかけるだけでも、おれは我慢ができないんだ」

「イザークってば…」

明るい笑い声が聞こえた
どうやらおれが冗談でも言っていると思ったらしい

突然それが止まった



「一緒にいていいんだよね…イザーク」

唐突に彼女がそう言った

おれは再び彼女を見た
まっすぐとおれをみつめる視線にはもう迷いはなかった

「いいにきまってるだろう」


「!」

ノリコがベッドからとび降りて、どん…とおれに抱きついて来た
初めて出会ったあの時のように…


「あたし傍にいる…なにがあっても絶対にイザークの傍にいる」

おれを見上げる彼女の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる

「目覚めとして…天上鬼の…イザークの傍にいる」


おれの手から毛糸玉が転げ落ちていった
せっかく巻いた毛糸がまた床にほぐれて行った


おれは彼女を抱きしめて言った

「ありがとう…ノリコ」





「悪いが…興味がない」

おれは押し付けられた身体をぐいっと離した

「あの娘よりはましかと思うんだけど」
「なにがましかは、自分で判断する」

そう言って去ろうとするおれにそいつが言った

「あんな島の娘の方がいいのかしら」

無視してもよかったのだが、馬鹿にしたような言い方が気に触った

「ノリコだ…」
「え…?」
「彼女の名前はノリコだ…覚えておけ」





「ノリコ…」

あたしの名前をささやく彼の声が耳元で聞こえ
びくんと身体が反応した

ベッドに座った彼の膝に乗せられ、あたしたちは抱き合っていた
三日間の隙間を埋めるように…

「すまん…ひとりにさせてしまった…」
「あたし…恐かった、イザークがもう戻ってこないような気がして」
イザークの胸に顔を押し付けて言った

「辛い思いをさせた」
「うん…でも、イザークも辛かったよね」
「そうだな…」

ろくに食べていない…眠ってすらいなかった
きっと彼もそうだったんだと、あたしにはわかる

「でも気がついたの…イザークはあたしを置いていったんじゃないって
 イザークは絶対にそんなことしないって…」

あたしに考える時間をくれたんだ…って

「おれが傍にいたら、おまえに考える時間などろくに与えんからな」

「え…」
赤くなって見上げると可笑しそうな彼の顔があった

「イザークったら!」

また彼に笑われるのかと思ったのだけれど
彼の顔はひどく真剣なものに変わった

彼は片手をあたしの頬にあてるとそっと撫でた


「おれは死なん…」

あ…

「おまえが傍にいるかぎり…おれは生きるために戦い続ける」

未知なる敵と…
己自身の心の闇と…

だが、平坦な道では決してない

「覚悟しろよ…」

「うん!」

嬉しくて思わず元気に返事をしてしまった

そんなあたしに、彼は微笑って口づけた
三日ぶりのそれに、あたしは目眩を覚えてしまう


いつもの性急さは影を潜めて
イザークはあたしの服をゆっくりと脱がしていった

そして優しくあたしをベッドへ横たえる

あんなに激しくあたしを求めていたのが嘘のように
静かに…あたしの身体中に愛撫を繰り返した

それなのにあたしは…
あの得体の知れない感覚に捕らわれて我慢が出来なくなっていった




「イ…ザーク」

あえぎながらノリコがおれを呼んだ
行為の最中に彼女がおれの名を呼ぶのは初めてだった

おれは手を止めて、彼女の顔を覗き込む

「お…願い…」
うるんだ目でおれを見た

「…おれが欲しいのか」

「うん…イザークが…欲しい」

そう言う彼女が狂おしいほどに愛しかった
彼女の中に身を埋めると、熱いため息が耳をかすめた






「イザーク!」

ノリコの呼ぶ声でおれは目が覚めた


ゆうべは野宿だったが、宿に泊まった時でも
服を身に着けて眠るようにしていた
剣は必ず手を伸ばせば届く所に置いてある

ひどく感じやすくなった彼女は大抵途中で意識を失ってしまうので
おれが着せてやることになる
それをすごく恥ずかしがっていたが
脱がせるのと同じくらい着せるのも楽しいんだと言ったらやっと納得してくれた


まったく…
どれだけおまえを愛おしく思えば足りるのだろう



「あのね…虹がね、出ているの…
 見て見て…すっごく、すっごくきれいなの…」

ゆうべおれの腕の中で、あれほど甘く喘いでいたというのに
相変わらず無邪気に振る舞う



おれたちが再び旅をはじめて、三ヶ月近くが経っていた

近頃、予感がしだした
追っ手がくるのは時間の問題なのかもしれん


「こっちにね…見事な半円を描いているの…」


恐くないとは言わない…
いや…ひどく恐ろしい

だが、ノリコと一緒ならば
それに打ち勝つことができるかもしれないと思える
おれたちの運命を変える方法が見つかるような気にさえなれる


消えていく虹にノリコが戸惑っている…


「消えかけの虹でも今日の方が美しくみえた…
 ノリコといるせいかな…」

そんなセリフがさらりとおれの口から出てくる
おれはたまらなくしあわせだった






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