ひな祭りにはその手を取って




例年三月三日にはノリコの短大でひな祭りパーティーが開かれる
…と言っても、ひな祭りとは名ばかりの
試験やレポートから解放されて一騒ぎしたい学生たちが企画し
自治会主催で開催されるダンスパーティーなのだが…

この日には学生の知り合いならば家族や親戚、友達…
もちろん彼氏にも門戸が開かれる
夕刻過ぎに講堂の一部がホールとなって
生演奏のダンスミュージックが流れ
飲み物や軽いスナックなどが饗される

女子短大にしてはなかなか粋な催しで
この日を楽しみに待っている学生たちも結構多いらしい



「…なんで…典子?」

雅美が責めるようにノリコを睨んだ

「だって…」

困ったノリコはそっと肩をすぼめた

「いいじゃないの…別に彼氏がいなくても…」
「そうよ…典子は去年も来なかったし…これが最後なのよ…」

博子や江利ちゃんも口を揃えて言った

「彼がだめだって言ってるの?」

ノリコはううん…と小さく首を横に振った





「香港だ…」

五日前に急な仕事が入ったイザークは
行き先だけ告げて行ってしまった




襲撃してきた人たちをイザークはあっさりと倒してしまった


自分が標的にされたと知ったイザークが
何よりも懸念したのがノリコのことだった
向こうの世界にいた時のように自分が常に一緒にいれば守ることは出来る
だが、ここではそういうわけにはいかない
一人でいる時のノリコが狙われたらと考えただけでぞっとしたものだ

自分とつきあっている彼女にまで公安が監視をつけることは容易に察せられる
それは、そのままノリコのもとへ襲撃者を誘導する可能性があった
だからノリコのことは警察や関係者へは秘密にしていた
公安が監視していたし襲撃者たちもどこからか見張っているかもしれないので
ノリコが一人でイザークの部屋へ出入りすることは禁止され
イザークと一緒の時は姿形が隠されて身元が分からないようにしていた


今は襲撃される恐れはなくなり…
監視もなくなり…
自由になった…と言えば聞こえはいいが…


襲撃者を倒した後、警察はもちろん外務省にまで呼ばれて…
あまりの慌ただしさにうんざりしたイザークは
その秀麗な眉の間に常に皺を寄せていたものだった

その上、会社も待ってましたとばかりに仕事を入れてくる
ハイジャック事件から長い間何もせずにいたので
イザークは、仕方あるまい…と渋々応じていた



近頃は合鍵を使ってイザークの部屋へ入ることが
日常化してしまったノリコだった


彼のコートの中に隠されてマンションへ入っていった日々が
いまや懐かしく思い出され胸の奥にちりりと痛みが走った

ついこの間のことなのに…

毎日のように大学が終わるとイザークと待ち合せた
散々イザークに愛されて疲れた身体を
抱きかかえるようにして家まで送ってくれた
それでも門限ぎりぎりまで放してもらえずに
家の前の暗がりで何度も抱きしめられ口づけられたんだ


長い間離れ離れになっていた二人に贈られた夢のような日々だった…

でも今は…

ノリコは自分に言い聞かせる

彼には彼の仕事があり
あたしはあたしで春から保育士になるための勉強を頑張らなきゃいけない
そうしてあたしたちはこの世界で暮らしていくんだもの…

ずっと一緒に…





イザークが留守にしている間も
ノリコは毎日のように彼の部屋へ通っている

軽く掃除をするくらいしかやることはなかった

たった一人居間のソファに膝を抱えて座って…
ここでイザークに抱かれていた自分を思い出しては
首を振りながら、ため息をついた


数日すればまた彼に会えるのだから…
二度と会えないと思っていた時に比べれば
何倍も幸せなんだから…
寂しいなんて思ったらばちがあたるよ…

わかっているけれど…

目頭が熱くなるのがわかった

だめ…泣いたりしたら…
優しい彼は仕事を放り出して戻ってきてしまう

そういう人だから…


指で目をぬぐいながら
ノリコはくすりと笑った

あたしってばすっかり甘えん坊になっている

愛しい人の面影を心の中で抱きしめ
優しく微笑んでいる彼に向かってそっと責めてみた


イザークの所為だよ…





「おまえが行きたいのなら行けばいい…」

イザークはそう言ってくれたけど…
本心は訊かなくてもわかっている

やっぱり行かない……
そう友人に言おうと決心したノリコの背後から声が聞こえた

「顔が暗いわ…」

「え…」

振り返ると華が腕を組んで立っている

「彼が仕事に行ってからの典子…沈んでいる
 以前に戻ったみたいよ…」
「そ…そんなことないよ」

ぶんぶんと顔を横に振って否定するノリコだったが
華は疑わしそうに眉をひそめた

「そりゃあ彼は優しくてかっこよくて…
 理想の恋人かもしれないけど…」

でもね…と華は気の強そうな眉をくっと上げる

「彼がいないからってその度に落ち込んでたら…損するわよ、典子」
「あ…あの、華ちゃん…」

周りをぐるっと差した華の人差し指が最後にノリコの胸に向けられた

「周りには素敵なことがいっぱいあるのに、気づけないでしょ…」
「 …?」
「女の子はもっと余裕を持たなきゃ…」
「…女の子…よ…余裕…?」

華の言っていることがよくわからずノリコはきょとんと首を傾げた

「例えばね…」
「うん」
「彼がいなくっても…パーティを楽しめるくらいの余裕…」
「え…」

わかった…?と華にぴしっと言われて
気がつくとノリコはうんと頷いていた


「さすがだわ…華ちゃん」
「典子に有無を言わせなかったわね…」
「でも良かったじゃない…」

言うだけ言ってすたすたと去って行った華の後ろ姿に
友人たちは賞賛の目を向けた


ノリコはただ呆然と突っ立っていたのだが…





『イザーク…』


はっ…とイザークは顔を上げた


「どうかしたの…?」

車の後部に一緒に座ってもらったのはいいが
無視するようにそっぽを向き
全くつけいる隙を与えずに腕を組んで座っていたイザークに
歌手がチャンスとばかりにしなだれかかってきた

イザークは無表情に彼女を押し戻す


仕事の邪魔はしたくないから…と
ノリコは仕事中には滅多に話しかけてこない
何かあったのか…と不安になったイザークだった

華に誘われて今日のパーティーに出ると
ノリコが申し訳無さそうに知らせるのをほっとして聞いていた

『で…でもね、お友達とおしゃべりするだけだから…』

どうせあの気の強いハナに押し切られたんだろうと…
事情はわかるよう気がしたが… 
ハナはおれを責めるように見る…と感じるのは気のせいだろうか


『せっかくだから楽しむんだな…』

そう言ってノリコとの通信を終わらせたイザークは
突き刺すような視線を運転席のベートへと投げかけた

「…!」

急にピクっと身体を震わし後頭部に手を当てたベートを
助手席にいるマネージャーが訝しげに眺めた



世界的なポップスターの香港公演に爆破予告があり
急遽イザークたちが警固につくことが決まった

実際に舞台に仕掛けられていた爆弾を
イザークがみつけて簡単に時限装置を解体してしまった

先ず観客を避難させようという警備責任者に
いつものように、必要ない…とひとことだけ言って制した

後でみっちり警察からお説教を喰らったのは
責任者を宥めすかしたベートの方だったが
彼は彼でもう自分の役割は充分自覚しているので気にしていなかった

ゆうべ最後のステージが終り
昼下がりの香港の町を空港まで歌手を送っている途中であった

歌手を飛行機に乗せた後、ホテルに戻り
本社へ報告書を送信すれば仕事は終わる

深夜の便に乗れば、明日の早朝羽田に着く

そのままノリコの家に行って
彼女を大学まで送っていこうか…

母親なら問題なく部屋に入れてくれるだろう

まだノリコが寝ていれば
おはようと口づけて起こしてやりたかった

そして…

スーツのポケットを手で押さえたイザークの横顔が
優しげに緩んだ


会えなくて寂しい思いをしているのはノリコだけじゃない





「うわーっ…」

いつもの講堂が全く別な雰囲気になって
ノリコは驚いて入り口の所で立ち止まった

バンドが陽気なポップ系の音楽を演奏していた
ほの暗いフロアに青白い光がきらめいて
踊っている人たちの姿が瞬くように浮かび上がっている

江利ちゃんが早速彼氏の腕を引いて踊りに行った


「こっちもあるのよ…」

雅美がノリコを別なスペースへと連れて行った

そこはもう少し明るい照明で、机と椅子が並べてあり
バーカウンターでは飲み物や軽食・スナック類を売っていた


「来たわね…」

テーブルに座っていた華が手を振って呼んだので
雅美や博子と一緒にその席に座った


「やあ…」

華の下の兄と友人の灰島が一緒にいた


華と親しくしているうちに、彼女の家族にも紹介されていた

この二人は大学四年生で就職を控えているそうだ
下の兄は大学が暇な時は父親の外遊などにくっついていったりしたが
政治に興味はなく一般企業に就職するということだった

上の兄は今こそ父親の秘書をしているが
やはり自分は政治家向きでないと来年国家公務員試験を受けるとか…

二人とも人がよくて温厚なひとたちだった


「うちじゃあ、華が一番政治家向きなんだよな…」

お兄さんがぽりぽりと頭をかきながら言った時
あたしもそう思う…とノリコは激しく同意したものだった

武道の心得もある灰島は学業の傍ら
華の家で運転手兼ボディガードのアルバイトをすることもあった

華に言わせると、単純で少し短気な性格らしいが
ノリコは真面目で優しいひとなんだと思っている


華のお迎えに大学に来ることもあり
何度かノリコも華の家に誘われて行った時に乗せてもらった


「典子…今日暇でしょ…」

華はイザークの仕事のスケジュールを正確に把握している
だから近頃忙しくなったイザークに代わって
華と一緒に居ることが多くなっているノリコだった



「君…もう二十歳だよね…なんか軽いカクテルでも飲む…?」

そう訊いてくれた灰島にノリコはにこっと笑った

「ありがとう…でもお酒はすっごく弱いから…」
「あ…よ…よかったら、お…おれ…送って行くよ…」
「え…」

言葉が途切れて上手く言えない灰島を、華と兄が面白そうに見ていた


車のドアをノリコの為に開けた時…
微笑んでお礼を言ったノリコに灰島が一目惚れしたことを二人は知っていた

何度もしつこく「彼女とつきあっている奴」のことを訊ねる灰島に
華は無理だと思うよ…とは言ったのだったが…

一本気な彼はなかなか諦めようとしない

呆れながらも…古い知り合いの彼のために
今日のことは、華がお膳立てをした…とも言えなくなかった

もちろんノリコは何も知らない


「本当にいいの…
 あたし少し飲んだだけですぐ眠くなっちゃうから」

華の家から帰る時も、送ってくれるというのをノリコは断っていた
あらどうして…と首を傾げる華にノリコは曖昧に言葉を濁した

灰島さんはすごくいい人だけど…
タクシーに一人で乗ることさえ許してくれないイザークのことだから…

でもそのことを華に言えば…
きっとなにかお説教めいたことを言われそうだとノリコは直感している


他人からイザークは独占欲が強いとか束縛しているなどと思われがちだ

イザークはあたしをとても大事にしてくれているだけなのに…
そんな彼の気持ちが嬉しくて
あたしは一生懸命応えようとしているだけなのに…

そんなあたしたちが華ちゃんの目にはひどく理不尽にうつるらしい




「はい」

飲み物を渡されてノリコは我に返った

いけない…やっぱり気がつくとイザークのことを考えている

華の言うことも一理あるとノリコは思う

彼がいないからといって、彼のことばかり考えていたら
いつかの二の舞になってしまう

イザークもああ言ってくれたんだし…
今はそれなりに楽しまなくっちゃ…



「ありがとう」

にっこりと笑ってノリコは飲み物を受け取った

「え…い…いや…」



気づいていないわ…この子

華はため息をついた

そうやってノリコが笑う度に灰島の顔が赤くなり
言葉がしどろもどろになる
わかりやすぎる彼の胸の内はきっとドキドキなんだ…

応援してあげたいとは思うけど…



華が最近の社会情勢に話題を持っていって
なんとなく話が弾んでいったが…

女の子達の話題は政治や経済でなくて…
最近婚姻した皇族の話で盛り上がった


「やっぱり女の子の夢は愛するひととの結婚よね…」

華が眉をひそめているのも構わずうっとりと博子が言う

「この皇女様は相手がただのサラリーマンだけど
 それでもお嫁に行きたいって思い詰めた気持ちが叶ったのだわ…」

雅美がまるでお伽噺を語っているように話を盛り上げる


「それで…めでたしめでたしでハッピーエンドってわけ…?」

冷めた口調で華が言ったが全く気にせずに…

「ノリコだってね…」
「愛する素敵な彼氏とゴールインもすぐだから…」

ノリコはぽっと赤くなった


「え…そうなの…?」

傷ついたような灰島に気づきもせずに
雅美が、でも…とノリコを見た

「典子…プロポーズはしてもらえたの…?」

「え…」

ぽかん…と答えたノリコに、二人とも首を振った

「まだなのね…」


「どういうこと…?」

事情がわからず華が首を傾げる


「典子ってばね…プロポーズもされてないのに結婚する気満々なの」

博子が呆れたように言った

「それは…」

ノリコが慌てて何かを言いかけるが、 遮るように雅美が続けた

「彼氏だって…ご両親に結婚したいとか言ったくせにね…」


「いい加減な奴なんだな…」

灰島がぼそっと面白く無さそうに呟く

「そうね…まずお互いの気持ちを確かめるべきよね…」

そう言いながら華は、イザークの姿を思い浮かべた


類い稀な容姿を持つ彼にノリコが夢中なのは納得できる
でも…感情を現すことのない彼の真意は華にはわからなかった

あの時ベタベタといちゃついていたのは演技だったのだし…

イザークにはあの盗難未遂事件で助けてもらったことは感謝している

でも…

あれ以来…時々ノリコを迎えにきたイザークと顔をあわせている
いつも無表情で言葉少なく…ノリコを連れてさっさとその場を去る


「ねぇ…ベート…」

一度ベートに訊いてみたことがあった

「イザークって…少し傲岸なところがあるよね…」
「…は?」
「確かにすごく恰好いいし…あれだけ強いから当然なんだろうけど…」
「ま…あの態度は彼のキャラですから…」

決して人を見下したりしているわけではない…とベートはイザークを庇った

「…でも、ノリコに…あれはするな…これをしろ…
 いつも命令ばっかりで…それでノリコったら何でも言われるがままだし…」
 
華はそこのところが面白くないらしい…

「あはは…彼は誰にでもああですよ…」

その手の話でイザークの武勇伝を数え上げたらきりがない…
ベートは笑いながら言ったのだった

ニューヨークにいた頃の女性関係についても訊ねてみたら
確かにもてはするが…女に優しい男ではなかった…
言葉を濁しながら教えてくれた


プロポーズもせずに結婚を決めていると聞いて
おれの言うことにすべて従え…
そういう関係なのではないかという疑いが濃くなるだけだった


ノリコのことが気に入っている華は
世話になったイザークには悪いとは思うが
灰島のような男性と気楽につきあう方が
ノリコに取ってはいいのではないかと思っている



何気に気まずい雰囲気になってきたのを払拭するように
華の兄が明るく言った

「少し踊ってくるかな…」

会場からは軽快な音楽が聞こえてくる


「…そうだね…踊らない…?」

灰島がノリコに手を差し出した

「え…」

その手を見るとノリコは焦って首を振った

「ご…ごめんなさい…あたし…」
「踊るくらいいいだろ…」

結婚話を聞いて面白くない灰島は
彼にしては強引にノリコの手を握って誘った

「で…でも…」

きっぱりと断るのが苦手なノリコは困ってうつむいてしまう



「ノリコはおれと踊る」

そんな声が座っている皆の頭上から聞こえてきた





「じゃあ…ホテルに戻るか…」

歌手を飛行機に乗せて見送った後
ベートはそう言いながら停めた車に向かって歩き出した

「ベート…」
「…ん?」

イザークに呼び止められてベートが振り向いた

「おれの荷物も一緒に運んでくれ…」

それだけ言ってイザークはくるりと背を向けた

「お…おい…待てよ」

慌てて止めるベートを振り返ったイザークがじろりと睨んだ

「あんたの所為だ…」
「え…」

チケット売り場へと向かうイザークをぽかんとベートは見送った



長いこと追っ手から逃げる旅をしていたイザークは
いつでもすぐに荷袋をつかんで旅立てるようにする癖が身についていた
今ホテルに置いてあるかばんはすでにそのまま持ち出せるよう
全ての荷物が詰め込まれている

パスポートと財布は手元にあった


一番早い飛行機に乗り込んだイザークは夕方遅くには羽田に着いた


「動きませんね…これは」

空港からタクシーに乗り込んだが、ひどい渋滞に巻き込まれた


「おろせ…」
「え…」

イザークは料金を払うとドアに手をかけた

「ちょ…っ、お客さん…ここは高速ですよ」

あたふたした運転手の声を背中に車を降りたイザークの姿が
夕闇の中に紛れて消えた

「…」





「え…」

突然、愛しい人の声が聞こえてきてノリコは顔を上げた

「イ…イザーク…?」

「帰るのは明日じゃなかったの…?」

華が不思議そうに訊ねた

「ベートは明日帰る」

それだけ言うと灰島が掴んでいたノリコの手をさっと奪い返した


「あんたが…」

恰好いい奴だと華から聞いてはいたが…
灰島はイザークのひどい仏頂面をまじまじと眺めた


たしか…彼はノリコに対してひどく高圧的な態度をとる…
華が一度漏らしたことがあった

今もほぼ強引にノリコの手を引いて行く
黙って彼に従っているノリコの姿に遣る瀬ない思いがこみ上げてきた


「ま…待てよ…」

灰島が二人の後を追って行った

なんだか面白そうな成り行きに、好奇心一杯で雅美と博子もついて行く
華と兄も呆れた様子で後に続いた



『待ってったら…』

ダンスフロアの中心に向かって行こうとするイザークをノリコが止めた
イザークは立ち止まってノリコに振り返った

『イザークってば…踊れるの…?』

そこで初めて周りを見渡したイザークが首を振った

『いや…踊ったことはない』
『だったら…なんで…?』

音楽がうるさすぎてまともに話せないので
お互い心に語りあっている

『あの男からノリコを離したかったんだ…』
『あの男…?』

小首を傾げたノリコの後ろをイザークは睨みつけた

『そいつだ…』
「え…」

イザークの視線を追って後ろを見ると灰島が立っていた

「灰島さん…」



照明が瞬く中をノリコをはさんでイザークと灰島が睨み合っている

ちょうど音楽が終わって静かになったところに灰島の声が響いた

「あんたどういうつもりだよ!」


え…

いつになく険しい表情の灰島にノリコはびっくりしていた

そういや血の気が多くて無鉄砲…とも華ちゃんが言ってたっけ…


「いきなり現れて…自分の物みたいな顔で彼女を連れて行って…」
「いけないのか…」

イザークは無表情に問い返した

「いくら彼女があんたとつきあっているからって…
 彼女の意志はまるで無視かよ」
「どういう意味だ…」

なんだか揉めてると…人が遠巻きに集まり出した
バンドも次の演奏を始めようとしない

照明係がスイッチを入れ替えたらしく
三人はスポットライトが当たっているかのように照らし出された


「あんたの態度だよ…彼女に絶対服従でも強制しているみたいじゃないか」
「だからなんだ…」

感情を見せずに淡々と言葉を返すイザークに
むかぁ…と腹を立てた灰島が真っ赤な顔で怒り出した


灰島さん…何か誤解している
それにイザークもわざと彼を怒らせているみたい…

ノリコは先ほどからの成り行きに困っていたが
どうしていいかわからない


「勝負しろ…」

え…

「おれが勝ったら…彼女をあんたから自由にさせてもらうからな…」

腕に覚えがある灰島ならではの発言だったが…

「ちょ…ちょっと…灰島さん…」
「やめなさいよ…灰島くん…」

ノリコと華が青くなって灰島を止めた

あの事件を解決したのは表向きはベートになっている
本当のことを知っているのは、華と華の父親だけだった


「面白そうだな…」

イザークは相変わらず冷静な表情を崩しもしない

「だが…」

握っていた手を引いてノリコを引き寄せ、その肩を抱いた

「あんたが言ってた…『彼女の意志』はどうなる…?」


『あんたが勝ってもノリコがおれから自由になることを望むかな…』
暗に彼はそう言っているのだと理解した灰島の顔が口惜しそうに歪んだ


「そうよ…大事なのは典子の気持ちでしょ…」

頭に血が上っている灰島に華が宥めるように話しかけた

イザークに肩を抱かれたノリコがを口元で手のひら合わせて
申し訳無さそうな顔で自分を見ている

「…わかってるよ…」

急激に頭が冷めたらしい…灰島はぽつりとそう呟いた

自分が一人で空回りしていたのに気づきはしたが…
胸の中にまだもやもやとした物が残っていてすっきりしない


「だがな…」

びしっとイザークに向かって灰島が指をさした

「その彼女の気持ち…訊いてみるくらいしてやれよ…」
「…?」

怪訝そうに眉をひそめたイザークの後ろから、友人たちの声が聞こえてきた

「プ ロ ポ ー ズ…」
「まだですよね…」


「い…いいよ…そんな…」
「そうね…いい機会だわ…イザーク…」

かぁっと赤くなったノリコが一生懸命手を振って固辞するのを
横目に見ながら華もイザークを試すよう促した

あたしの意志は無視ですかぁ…


涙目になったノリコが恐る恐るイザークの顔を窺った

イザークが不愉快になっていないといいんだけど…


イザークはそんなノリコを見るとクスっと笑って彼女の手を取った

「こうか…」

え…



「おれは一生…ノリコと一緒にいたい…」

ノリコの手を握ったままひざまずいたイザークはノリコを見上げた

「おれと結婚してくれるか…ノリコ」

「…」


照明はいまや二人だけを浮かび上がらせていた
先ほどの喧噪が嘘のようにあたりはひっそりと静まり返って
誰もが固唾をのんで成り行きを見守っている


言葉だけのそれを期待していたのに…
こんなはずではなかった…と華や友人たちはあっけに取られていた

灰島に至っては…
どうせあの無愛想男は『くだらん…』とか拒否するだろうから
そうしたら思い切りなじってやろうと待ち構えていたのだったが…


ただ一人…ノリコだけはさして驚いた様子もしていない

イザークの顔が笑っているような気がする…
また…ふざけてるわけじゃないよね…

その場にそぐわない不謹慎なことを考えてしまうのは
イザークの過去の功罪のせいか…



「典子…返事は…」

黙ってしまったノリコの耳元で友人の一人が囁いた

「あ…う…うん」

頬を染めたノリコが躊躇いがちに頷いた

「あたし…ずっと傍にいる…イザークと結婚する…」


くっ…とイザークが可笑しそうな顔をした

あ…やっぱり…


「なんて顔してるのよ…典子」
「普通…ここは感動してうるうるする場面でしょ…」

友人たちが呆れたように小声で非難している

眉が上がったノリコの表情はどちらかというと怒っているようだった


『誤解するな…ノリコ…』

イザークがノリコを見つめながら語りかけてきた

『偶然なことがあるものだと…と感心していただけだ…』
『?』
『明日渡すつもりだったんだ…』


イザークがポケットから小さな箱を取り出した
びろうどのケースを開けると中にあった指輪を
ノリコの薬指にはめて、そこに口づける


わー…っと歓声が上がって
拍手と一緒に、おめでとうとかしあわせになって…などの声が聞こえた


ぽかんと口を半開きにしたノリコを
立ち上がったイザークがぎゅっと抱きしめた


「みんな見てる…か?」

抗議しかけたノリコよりも早くそう言って
ノリコの顎に指をかけ上を向かせるとその唇を塞いだ

最初は囃し立てていた観衆もそのうち目をそらしはじめ…
再び静まり返ったところに照明が元のように落とされ青白く瞬き出した
バンドが有名なラブソングを演奏し始める


チークダンスを踊り出した人々の姿に紛れた二人の姿が
会場から消えていることに友人たちが気づいたのはだいぶ経った後だった


その後の彼方から
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by 彼方から 幸せ通信