ノリコの日記in New York epilogue


3月XX日
あたしたちの飛行機は無事…成田空港に着いた
空港には灰島さんが迎えにきてくれていた
どうだった…と聞かれたので…楽しかったよ…と笑って答えたけど…
あたしの気持ちはひどく落ち込んでいた




帰りも灰島の隣にイザークが座った


「ベートが助手席に座って…
 ノリコとイザーク一緒に後部席に座らせたらいいのに…」

散々二人に当てつけられた華は…そう提案したが…
ニューヨークで一緒にタクシーに乗った時のことを思い出したベートが
やんわりと退けたのだ

「灰島くんがキレて事故でも起こしたらやっかいですから…」


「あんたのマンションどこだよ…そこで降ろしてやるぜ…」
「…」

灰島はイザークに言ったが
例によって…イザークは横目でちらりと見るだけで断った


先ほどから落ち着かないでいたノリコは…
灰島の言葉を聞いた時…ドキン…と胸が大きく痛んだ

旅行はもう終わったんだ…



家に着いたら、ちょうど夕飯時だった

記憶をなくした話はあえて言わずに
楽しかった旅の話をしながら
イザークも一緒にごはんを食べた

けれどあたしは…
箸を口に運ぶたびに刻々と迫ってくる別れの時が悲しくて…
胸がしめつかれるようで…
ろくに食べられなかった…

その後…少し雑談などしてから
イザークがそろそろ帰ると腰を上げた

明るく笑ってさよならを言おう…そう思った

そう…思っていたのだけれど…


「やだっ…」

玄関で靴を履こうとするイザークに…
あたしは我慢が出来ずに…


「行かないで…」

記憶をなくしてしまったことにショックを受けたあたしはその反動から…
旅先という非日常な状況も後押しして…
遠慮なくイザークに甘えてしまっていた

日本に戻ったら少しは自重しようと思っていたのに…

気がついたら…
イザークにしがみついていたんだ



ノリコに抱きつかれたイザークは困った顔をして立ち尽くした

父親は頭を横に振りながらため息をついて
背を向けると書斎に引っ込んでしまった
母親はイザークに微笑んで…くいっと頭を二階へ傾けた

結局…履きかけた靴を脱ぐと
イザークはノリコの手を取り階段を上っていった



「ごめんね…イザーク…」

荷物の片付をしながらあたしは
部屋の片隅に置いてあるイザークのスーツケースに目をやった

洗い物はお風呂に入った時に洗濯機に入れておいた
イザークのも一緒に洗うよ…と言ったのだけど…

「いや…おれのはいい…」

あっさりと断られてしまった

遠慮したのかな…
荷物入れっ放しって気持ちよくないよね…
本当はおうちに帰って整理したかったのかもしれないのに…

あたしの我がままの所為で迷惑かけたなぁ…



しゅんと肩を落としているノリコに
ベッドの端に腰かけているイザークが可笑しそうに言った

「手が止まっているぞ…」

あ…とノリコは慌てて片付けを再開する…


「早くしろよ…」

そう言って…どさっとイザークはベッドに身体を横たえたのだった

「…」




「お父さん…怒ってるかなぁ」

傍らにそっとその身を臥せたノリコの首の下に腕をいれると
イザークはぐいっと自分の方へ抱き寄せる

「さあな…」

相変わらずイザークの言葉数は少ないが…
気にしないでいい…そう言われているようで
ノリコはなぜだか安心してしまう


安心してしまったせい…?
それとも甘えた気分が続いていたから…?
ずっと遠慮して言えなかったことが
気がつくと口から溢れ出していたんだ

「仕事で会えないのは仕方がない…って諦められるのだけど…」

せっかく同じ世界にいるのに…
なぜ別れて生活しなければいけないの…

「イザークが、お父さんとの約束を尊重してくれるのは嬉しいのよ…
 でも…イザーク、いつか言ってたよね…」

幸せになろう…って…
心配してくれた皆の気持ちに報いるために…

「あたしは…こうしてイザークの傍にいる時が一番幸せ…」
「ノリコ…」
「…それでも…だめ…なの?」

たとえ…お父さんが怒って…
両親に二度と会えなくたったとしても…

離れたくなかった

「…いってらっしゃいって言うのはいいの…
 でも…さよなら言うのは…もう…いや…」

そう言ってから…
まるで二度と離れまいとするように彼の胸に強く顔を押し当てた


本当はずっとそう思っていた

でも…

散々心配させてしまったお父さんに
我がままを言ってはいけないと思っていたし
イザークを困らせたくなかったから…
我慢していたんだ

そんなあたしを…
ニューヨークでの一週間が変えてしまった

とにかく思っていることを…
たとえそれが迷惑だったとしても…
なんでもイザークに言ってみようと…
あたしは決心した



頭の天辺に彼の唇が押し当てられたのがわかった
それから耳元で彼の掠れた声が囁く

「おまえをおれのせいで両親から離す気はない」

「そ…そっかっぁ…そうだよね…」

あたしったらいい気になって甘えすぎてたんだ
イザークにお父さんとの約束を破らせようだなんて…

「ご…ごめんね…わがまま言って…」

なんだか情けなくなって…
堪えきれずにじわ…と涙が滲んできたところに
顎に手をあてられ、くい…っと上を向かされた

いやだ…今の顔…見られたくないのに…

顔を横に向けようとしたのに
イザークの手がそれを許してくれない


「心配するな…ノリコ」

彼は優しく微笑むと…
熱い口づけをあたしにくれた





最初の印象は…類い稀な容姿を持つ青年…だった
初めてその姿を玄関先で見た時の衝撃は忘れられない

だがそれは始まりでしかなかった

彼自身が語った経歴…
飯沢から聞いた話…
そして彼の引き起こした事件など

衝撃は形を変え次々と押し寄せてきて…


そう思ったのは確か大晦日だったな…
…それがまだ続いているということか…

翌日…ノリコの父親は書斎のパソコンの前に座っていたが…
仕事など全くはかどらず…
イザークが自分たちの前に現れてからというもの
すっかり癖になってしまったため息を盛大についていた



「ノリコがおれの部屋に…
 泊まることを許してもらいたい」

今朝…相変わらずの仏頂面であの男はそう切り出した

「約束を破るというのか…」
「…結婚はまだしない…」
「門限の方だが…」
「…11時までには帰らせる」

おれの部屋に…

そううそぶくあの男はひどく真顔だった


なにをしれっと言っとる…

そうぼやきながら…
わたしは彼の隣に座っている典子を見る

ゆうべは食事が満足に喉に通らないほど不安そうにしていたのだが
今朝の典子は…不思議なほど穏やかな様子でイザークの隣に座っている

腹を括ったのか…

ニューヨークで何かあったのだろうか…


子供の頃から…我がままなどあまり言うことない
聞き分けの良い子だった

だから…昨日のノリコの様子には…
驚く…というよりも ショックを受けたものだった

この無口で無愛想な …
おまけに…その筋ではかなり恐れられているという男に…
親の私たちの知らない…甘えん坊の顔をノリコは見せたのだ


「旅行を許しただけでは飽きたらんのか」
「…ああ」
「気に入らんな…」

だめだと言えば…
典子は荷物をまとめて出て行く気なのかもしれない

だが…
彼が本当に典子を思っていてくれているのならば…
そんな典子を止めるべきなのではないのか…


彼を試してみたいという気持ちもあって…
わたしは…当然反対した

「結婚前に一緒に住むなど…けじめがつかんだろうが」
「一緒に住むわけではない…」
「…ではなんだ…?
 気が向いた時だけ典子を手元に置こうというのか…」
「おれが仕事の時は…ノリコを帰す」

彼の言葉にかちんときて思わず怒鳴ってしまった

「君はいったい何を言っているんだ!」

「あなた…」
「お父さん…」

母親と典子があわてて 止めようとしたが
立ち上がった私は彼を責め続けた

「随分と都合の良いことを言うじゃないか…
 いったい我々をなんだと思っているんだね…
 なんでも君の思う通りになる…そんな存在だとでも言うのか」
「そんなふうには思ってない」
「これまでだって…どれほど目を瞑ってきたことか…わかっているのか」
「…わかっている…」
「では…私との約束など…君にとってはどうでもいいことなんだな…」
「出来れば…約束は守りたかった…」

そう言いながらイザークも立ち上がると…
わたしの傍へとゆっくりと歩いてきた

「だが…それより大切なことがある…」

間近でわたしの目をまっすぐに見つめ…
彼はしばらく間をおいた

まただ…
この男はなにか…とんでもないことを言う前に
こうする癖があるのをわたしは充分に思い知らされている

いやな予感がしたが…
わたしは…目をそらすまいと必死に彼の瞳を見つめ返した

意外なことに先に目をそらしたのは彼の方だった
いや…目をそらしたと言っては語弊があるかもしれない

なぜなら彼の姿ごと目の前から消えてしまったのだから

「え…」

わたしは彼が消えた方角…自分の足元を見下ろした


「頼む…」

床に座ったイザークがそれだけ言うと…深々と頭を下げた

「…」

その姿にわたしは虚をつかれてしまい…
しばらく口も聞けずに彼を見下ろしていた


典子はソファに座ったまま…ぽろぽろと涙をこぼしていた

後になって母親に聞いた話では
この時、典子は絶対に口を挟むなと彼から言われていたらしい
彼を責めるわたしに何度も「違う」と叫びたかったのだ…とも…

彼と会えなかった間…
よくそうして泣いていた典子を彷彿させたが…
あの頃とは全く違う涙であることにほっとしたのも事実である



その時になって…前日の出来事から
彼が典子の代わりにわたしに頼んでいるのだと気がついた

なるほど…典子のためなら
わたしに頭を下げるのも厭わないというわけか…

不本意ながら彼に感心したりしてしまったわたしだったが…
ある考えが頭をかすめた…


…いや…違う…

典子のためだけなら…
彼は黙って典子を連れて行ってしまえばいいだけだろう…

典子はずっと前からその覚悟が出来ていたのだから…
彼がその気になればいつでも我々から典子を奪えるということは
ずっと前から気がついていた

ただ…わたしとの約束を尊重してくれているのだと…

その約束を半ば反古にすると言って…
彼がこうして頭を下げているのは…

我々のためか…

我々と典子を離さないために…


結婚前だというのに惚れた男と離れたくないから一緒に夜を過ごしたい…
もし典子が直接わたしにそう頼んだとしたら…

冷静ではいられなかっただろう…

下らないことを言うなと、ろくに話も聞かずに無視するか…
逆にそんなにあいつが好きなら出て行け…と怒鳴ったかもしれない

どちらにしても典子はこの家を出て行って
二度と戻ってこなかっただろう


この男には…それがわかっているのだ…

彼を試そうだなどと…姑息な考えを持った自分が
ひどく恥ずかしくなった



「顔を上げてくれ…イザーク…」

わたしは彼に白旗を揚げるしかなかった


「娘を宜しく頼むよ…」

ああ…と例によって彼はひどく短い返事を寄越したのだった


それまではただ涙をこぼしていただけの典子が
うわーん…とまるで子供のように声をあげて泣き出した

母親が困ったように典子を慰めている…

「ほら…」

わたしは立ち上がったイザークの…文字通り…背中を押して
典子へ向かわせた

「イ…ザークっ…たら…イザ…ク…うっ…」

泣きじゃくりながら彼の名前を呼ぶ典子を
イザークはその腕でしっかりと抱きしめた…

「あた…しの…ため…ぐすっ…あたま…まで下げて…」
「気にするな…ノリコ…」
「で…でも…」
「言葉で説得するのが面倒だっただけだ…」


「!」



「…ん?」

殺気を感じたイザークが振り返ると
憤りで真っ赤になった父親がすぐ後ろに立っていた


「さっきの言葉は取り消しだ…」
「一度口にしたことを、簡単に取り消してもらいたくない」
「約束を反古にしたのはそっちだろうが」
「だから…先ほど許しを得た」
「それを取り消すとわたしは言っているのだ…」


おろおろする母親やノリコの前で…
しばらく…そんなやり取りが続いたのだった…



結局…ノリコは嬉々として…
ゆうべ空っぽにしたスーツケースに再び荷物を入れると

「たまにはうちでごはん食べてね〜」

明るく母親に送り出され
イザークと一緒に家を出て行った


書斎では父親が…
数えきれないほどのため息をついていた

その後の彼方から
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by 彼方から 幸せ通信