雨の別れ


さきほどまで晴れていた空が急に灰色に変わり…
突然…叩き付けられるような雨が降り出した

近くにあったお店の軒先に身体を押し込めて…
すぐやむのだろうかと空を見上げていると…
懐かしい声が聞こえた


「ノリコ…」

「…」

「元気か…」



すぐ近くにあったカフェまで二人で走った
彼は自分の上衣であたしが濡れないよう覆ってくれる

彼のコートの下に隠れていた懐かしい日々が
走馬灯のように頭の中を巡り始めた


小さなテーブル越しに座っている彼は相変わらずの無表情…
でもその瞳はひどく優しくあたしを包むように見つめている

泣くことをもう長いこと忘れていたはずなのに…
こぼれそうになる涙を必死に堪え…あたしは彼に微笑んだ



なぜ…あたしたちは…別れてしまったのだろう

あんなにも…再び会えたことが嬉しかったのに…
あれほど愛し合っていたのに…



きっかけは…本当に些細なことだった…と思う


なんだか…疲れていて…彼の求めを拒んでしまったあたしだったのに
気がつくと彼に無理矢理身体を開かされていた

その時…初めて彼が恐いと思った
そして…そんな風に思った自分がひどく嫌だった


ほんの僅かな気持ちのすれ違いだった
終わった後…すまなそうな顔をした彼に
気にしないでと…微笑んだら…
それですんだことかもしれないのに…


あたしは黙って彼に背を向け…
自分の身体を両腕で抱きしめ…
声もなく肩を震わせ泣いたんだった

それが…あたし以上に彼を傷つけてしまったことに
その時のあたしは気がつかなかった


彼は…それ以来あたしには触れようとしなくなった


小さなすれ違いがどんどん二人の間に大きな溝となっていった
気がつくと…一緒にいる時間が苦痛でしかなくなってしまった日々…

ただでさえ…無口な彼が…言葉を押し殺している
あたしにだけくれていた笑顔も…もう見ることはできなくなった

彼から聞こえるのは…ただ…
出会った最初の頃のような…
遣る瀬ないようなため息ばかり…


ぎくしゃくしながら過ごしたある週末の午後…
ぱっくりと口を開けている傷を見て見ぬ振りをするような…
もどかしいやり取りが我慢できなくて…
そんな状態をふっ切りたくて…

ベッドに座ったあたしは傍に立っていた彼を見上げると
抱いて…と誘ってみた

そんなあたしを…切なそうに見る瞳が辛くて…
すぐに後悔して…冗談だよ…と笑ってみせたけど…

彼の長い指がそっとあたしの頬をなぞって
彼の顔が苦痛にゆがんだ…
そのままその手が肩をつかんで…あたしは押し倒された…

口づけは無し…
お互いの欲望だけを満足させるような…
激しくて…虚しい交わり…

何度も…何度も… あたしは彼に高みに連れていかれた



すべてが終わった…


あたしには…わかった
彼は…あたしに別れを告げたのだと…


彼は黙って部屋を出ていった

あたしは一人…ベッドに横たわったまま泣き続けた
涙が次から次へと溢れて…止まらなくて…

でもそんなあたしを抱きしめてくれる人はもういなかった


翌日…学校が終わって彼の部屋へ戻ったら
あたしの留守の間に全てがきれいに片付けられていた

二人で選んだカーテンや食器などが箱に詰められて
好きに処分してくれ…そんな走り書きのメモが傍にあった


彼は…あたしのためにその姿を隠したんだ…
これ以上…あたしが傷つかないために…

彼は…いつも優しかったから…
これも彼の優しさの形だから…

あたしはもう泣かない

そう…不思議と…あたしは泣けなかった

あんなに泣き虫だったくせに…
あの夜以来…あたしは一度も泣いていない


以前引き裂かれた時は…
自分自身に閉じこもることで感情を押し殺した

今のあたしは…
押し殺す感情すらなくしてしまった…


なくしてしまった…はずだったのに…




相変わらず甘いものが苦手な彼はコーヒーをブラックで飲んでいる


彼はコーヒーだったら…意外とこだわりはなくインスタントでも構わない…
ハーブティーや紅茶はいいけど緑茶は苦手で…
お酒は全般にいける…どんだけ飲んでも酔ったためしはない

食べ物だって…彼の好きなもの…苦手なもの

今でも…その全てをあたしは覚えている


それなのに…
目の前のその人は…ひどく遠い存在だった



「お仕事で来たの…?」

多分…今は日本には住んでいない彼にそう訊ねた

「ああ…」

ひどく短く彼は答えたけど…



それは嘘…
あたしにはわかる…


心がすれ違ってしまったあたしたちは
もう…お互いに呼びかけることはできない…

それでも…あたしにはわかるよ
あたしのことを気にかけて…来てくれたんだね
あなたは…いつもそんな…
なにげない優しさをあたしにくれたんだ



あの後…あなたを忘れようと…
あたしは必死だったんだよ

そうしないと…あたしの元から黙って去って行った
あなたの気持ちに応えられないような気がして…

だけど…それは馬鹿馬鹿しいほど虚しい努力だった


事情を知った灰島さんと…
乞われるままに何度か逢瀬を重ねた

何度目か忘れたけれど…
彼のアパートに連れて行かれたあたしは覚悟していた

ベッドの上で…彼に抱きしめられて…
口づけられた時…


わかったんだ



「ごめんなさい…」

気がつくと…ドンっと彼を突き飛ばして…
部屋を飛び出していった


あなたがいつもくれた口づけとは…全く違ったのよ
あたしにはどうしても…それが受け入れられなかった


忘れるなんて絶対無理だ…って
やっと…わかった

あなたがあたしの身体に焼き付けた想い出は…
振り払おうとしても…どうしても振り払えない…

違う…

振り払いたくないとあたしの全身が拒んでいる

想い出なんかにしたくない
今だってこうしてあたしはあなたを感じることができる
このまま一生あたしはそれを抱きしめていきたい

だって…ずっとあなたと一緒にいると思ったんだもの…
あたしの未来はあなたと共にあると…そう信じていたから
あたしは…あなたにすべてを許したんだよ…



目の前のあなたは…ひどくクールで…
その表情からは何も窺えない…
でもあたしには…その押し殺した表情の下にある
誰よりも繊細な気持ちを知っている



ありがとう…

言葉には出来ないけれど…心の中でそう呟いた


あなたの想い…
あなたの気持ち…

その全てに触れて…あたしは幸せだった
あれ以上の幸せは二度と経験できないよ…きっと
だから…あなたが与えてくれたすべてに…
あたしは感謝したい



「じゃあな…」


ろくにしゃべりもせずに…
お店の前であたしたちは別れた…


雨は今…けぶったような霧雨になり…
街を白く覆っている

傘もささずに…彼の後ろ姿が遠ざかっていく



以前…こうして彼を見送った時は…
あんなに悲しかったのに…
なぜ…今は泣けないんだろう


あたしはいったい誰…?

あたし…は…

イザークが好き…
今だって…大好きなのに…

素直になれないあたしは…
もうあたしでなくなっている


戻りたい…
あの頃のあたしに戻って…
あなたに縋りつきたいよ…



「行かないで…っ」

もう…声が届かないほど遠ざかってしまった人に
心の限りを込めて…叫んでみる

お願い…行かないで…


あたし…傷ついてもいい…
いっぱい傷ついて…
いっぱい泣いて…

それでもやっぱりあなたのそばにいたい…

ずっと一緒にいるっていった…
あの日の約束を…守らせて


けれど…彼はもう振り向いてくれない…



行かないで…



イザーク…





「やだぁっ…いやだっ…イザーク…」
「落ち着け…ノリコ…」
「行っちゃやだ…一緒にいて…お願い…」
「…おれはここにいる」


は…っとノリコは目を開けると
心配そうなイザークの顔が目の前にあった


「…あたし…」

両手を頬に当ててノリコはきょろきょろと部屋を見渡した


夢を見ていたの…?


学校が終わってノリコが部屋に来た時…
イザークははまだ帰っていなかった
夕飯まではまだ間があると居間のソファに座って…
少し疲れていた所為か…そのまま眠ってしまったらしい


ノリコは両腕をイザークの身体にまわすとその胸に縋りつき
その手にぎゅっと力を込める


よかったぁ…
本当によかったぁ…

ここが一番安心できるもの…


それでもノリコは身体の震えが止まらなかった

涙が次から次へと溢れてくる
泣くのを忘れてしまった夢の中の自分より
こうして泣ける方がよっぽどましだと思うけど…

そんな不安に落ち着きをなくしてしまったノリコは
気がついたらイザークの胸の中で…
夢の一部始終をぶちまけていた

それはただの夢だ…と
イザークに言ってもらいたかったのかもしれない…



ぐいっと肩が捕まれ身体を離された…

「え…」

想定外のイザークの行為に驚いてノリコは彼を見上げた


うわっ…イザーク…怒ってる


冷たく突き放されていた時でさえ…
こんなふうにノリコを見た…
いや…睨みつけたことなどなかったのに…

深く刻まれた眉間のしわ…
瞳には怒りの炎さえ燃えているようで…


そ…そうだよね…
こーんなに大事にされて…愛されて…
なのにあたしったら…彼の所為で別れてしまった夢なんか見ちゃってさ…

イザークが怒るのも無理ないよね…


「ご…ごめんなさ…い…」

謝るノリコを…
ひどい仏頂面のイザークは…
無言で抱き上げると寝室に連れて行く

「きゃぁ…っ」

まるで投げ出すかのように乱暴にベッドの上に降ろされたノリコが目を開けると
すでにイザークは自分の上に覆い被さっていて…ほんの鼻先に彼の顔があった

「おれが…怖いか…」
「え…」

ああ…そうだ…あたしたち…
彼に無理矢理抱かれたことがきっかけで別れたんだっけ…
きっと彼はそれを再現して証明しようとしているんだ

そんなことはないと…


「こ…怖くないよ…」

ふるふると首を横に振るノリコにイザークは
ひどくいらただし気にその口元を歪めた

「おれが本気で怒っていると思っていないんだな…」




びりりっっ…

「え…」

イザークはノリコのブラウスの胸元を掴むと一気に引き裂いた
ボタンが弾け飛んで下着をつけただけのノリコの胸が剥き出しになる


「イザーク…なにもここまでしなくっても…」

イザークに買ってもらったお気に入りの半袖ブラウス…
今日は彼に会えるからとわざわざ選んで着てたのに…

…ん、でも夢の中でブラウス破られたっけ…?


それでもまだ…ノリコはそんなことを暢気に考えていた



「覚悟した…だと…」
「え…」
「どんな覚悟をしたんだ…ノリコ」

灰島さんとのことだ…

イザークの怒りの原因にやっと気がついたノリコだったが
どう言ったらいいのかわからない


「こんなことをされてもいい…と思ったのか…」

今度はブラジャーを引き裂く勢いではずされた…
イザークは露わになったノリコの胸を片手で強く掴んだ

「…い…痛いってば…やめて…イザーク」

さすがのノリコも青くなって哀願口調になるが
イザークに容赦する気は全くない

「おれの口づけとは違ったんだな…」
「イ…イザーク…」
「どう違ったんだ…」
「あ…あれは夢で…」
「夢の中でも感触がわかったんだろう…」
「そ…そんなこと…」

それ以上言葉が続けられなかった…

イザークはノリコの唇を塞いだ
噛む…と言った方がいいような乱暴な口づけ…
下唇をきつく吸われて…ただ痛みしか感じられない…

やっとイザークが放してくれた時には
ノリコの下唇は赤く腫上がっていた

「…」


涙目で自分を見上げるノリコに
もう一度…イザークは同じこと訊ねた

「おれが怖いか…」
「怖くなんかないもん…」

それでも躊躇なくノリコは即答する

ふん…とイザークは鼻先で笑うと
額がくっつくくらい近くに顔を近づけ低い声で囁いた

「おれがそんな夢…忘れさせてやる」
「イザーク…」
「覚悟しなければならんのは…今のおまえだ」
「…」



一晩かけて…ノリコは自分が見た夢のほんの一部分を
イザークから責められ続けた




そのおかげで…
なぜあんな夢を見たのかという疑問や
その夢の所為で身体が震えるほど感じていた不安が
吹き飛んでしまったのも事実であったが…




 

 side イザーク

散々苛んだノリコをベッドに横たわらせた…

ノリコの胸はまだ大きく上下していたが
意識は完全に手放している…


イザークはその横に座るとノリコの寝顔を見つめる

おれがどんなことを望んでも…
ノリコは決して拒まない

今日のおれは確かにどうにかしている…


けれど…
それは、おまえの所為だ

このおれから冷静さを奪い…
不安に陥れることのできるただ一人の存在…


ノリコ…


おまえの所為だ



ノリコが夢の話を始めた時は…それはただの夢だと…
くだらんことだ…そう思った…

たとえおれが嫌がるノリコを無理矢理抱いたとして…
もしそれでノリコが傷ついて泣いたとしても…
おれに背を向けて泣く事などさせやしない
おれの腕の中で気のすむまで泣かせてやる
そして心の全てを彼女に向けて謝ればいい

おれがおまえを置いて出ていくだと…


自分にすがりついて必死に話すノリコの背中をさすりながら
イザークは苦笑すら浮かべていた…


「…でね…あたしイザークを忘れようと頑張ったの…」


頑張れば忘れられるものなのか…
少し情けなくなって…イザークはため息をついた


「イザークと別れたことを聞いた灰島さんがね…
 デートに誘ってくれて…」


…なに…?


「何度目かのデートで彼の部屋に連れて行かれた時ね…覚悟したの…」


背中をさすってくれていた手が止まった事をノリコは気づかない


「でも彼に口づけられてわかったのよ…
 イザークのしてくれるそれと全然違ったんだもの…
 あたし受け入れられなかった…」


なぜあの男がおまえの夢に出てくる…
何を覚悟したんだ…ノリコ…
口づけられたなどと…なぜそんなにも簡単におれに話せる…



「だから…わか……た………イザー…忘れる…できない…………」


ノリコの言葉がもう耳に入ってこない…


胸の中にどす黒い怒りが沸き上がって抑えられない…


いやだ…


たとえ夢の中であろうとおまえが他の男と…


だめだ…


そんなこと絶対に許せるはずがない…



話し終わったノリコの肩をつかんで身体を離した…

ノリコが不安そうな顔でおれを見上げる…


もし…そいつの口づけをおまえが受け入れたとしたら…
考えただけで気が狂いそうだった…


ノリコを抱え上げベッドに運んだ…


思い知らせてやる…
おまえはおれのものだと…
おれ以外の男の事などもう考えられなくなるほどに…
おれしか感じられなくなるように…
その身体におれを刻みつけてやる…




少しだけ冷めた頭で…自分の所業を思い返し
イザークは疾しい気持ちでノリコを見る…
汗で湿ったノリコの髪をす…っと指で梳いた…


彼女が傍にいてくれさえすればそれでいい…
そう思っていたはずなのに…

彼女をこの腕に抱けば抱くほど…
彼女の全てを自分のものにしたいという独占欲がおれを支配する…

彼女の未来と…
出来る事なら過去さえも…
おれのものにだけしたい…


「う…うん」

かすかにノリコは声をあげ…瞼が震えた…
きっと今も夢見ているのだろう…
その夢の中でおまえはいったい誰といるんだ…


一旦収まったはずの悋気がまたむくむくと頭をもたげる


「ノリコ…」


ノリコをそのまま穏やかな夢の彼方に
そっとしておく気などおれにはなかった


「ノリコ…」


何度も名を呼ばれ…
ノリコはうっすらと目を開けた


まだ夜が開けるまでには間がある時刻…



 

 おまけ


ガラ…ッと教室のドアが開いた…
もうすっかり慣れっこになったクラスメートたちは気軽に挨拶する

「お早う…イザークさん」

いつものように目礼だけで応えると
イザークはノリコを椅子に座らせ教室を出て行った


「相変わらず…典子にしか興味ないのね…」

クラスメートたちは最初の頃こそ騒いでいたものだが…
ノリコ以外にほとんど感心を示さないイザークを
今ではすっかりそういうひとなんだと受け入れている


「…で、今日はどんな理由…?」
「えーと…」

ノリコは答えられずに赤くなった


目にゴミが入って涙を流したとか
寝起きにくしゅんとくしゃみをしたなど
そんな理由をつけてはイザークはノリコを送ってきて
さすがに抱き抱えはしないが…教室までしっかりついてくる

近頃は休日を趣味に興じて過ごしているイザークだった


昨日ノリコが、イザークが帰ってくると嬉しそうに話した時
イザークが今日現れるかどうか…クラスメートたちは賭けをしていた…
八割方が「現れる」に賭けたのだったが…


若い女の子たちばかりの学校を狙って不審者が侵入して来た時
たまたま居合わせたイザークが易々と捕まえてしまったこともあり
学校側も彼が出入りすることを黙認していた



「あれ…どうしたのノリコ…下唇が腫れてるよ…」
「あ…あの…アレルギーで…

嘘をつくのが苦手なノリコが下を向いて小声で言った

「だから…イザークさん送って来てくれたの…」
「…う…うん」

本当のことなど言えやしない…

「アレルギーで歩けないの…?」

イザークがノリコを抱えて来たのは足首をひねった時以来だった

う…っとノリコが言葉に詰まった時…
運良く講師が教室に入ってきた


いけない…準備してなかった


ノリコが慌ててかばんから教科書や筆箱を取り出したが
うっかり床に落としてしまった
それを拾うために椅子から立ち上がろうとした途端…

「きゃん…」

ぺたんと床にへたり込んでしまった…

「どしたの…?」

クラスメートが不思議そうにノリコを見た

膝や腰に全く力が入らない…
自分で立つことさえ出来ないことをつい忘れていた


困ったノリコが友達に助けを求めようかと思ったその時…
ガラ…ッと再びイザークが教室のドアを開けた



壁にもたれ腕を組む…という通常警護状態のイザークの姿が
その日…一日中教室内にあった

仕事の時よりイザークが熱心に見守っていたことを
知る者は誰もいなかった



その後の彼方から
Topにもどる


Copyright © 2008 彼方から 幸せ通信 All rights reserved.
by 彼方から 幸せ通信