恋人たちの日


「あーん、どうしよう…!」

ノリコは半泣きの顔でオーブンを前に立ち尽くしていた



今日はバレンタインデー…
ノリコはイザークにチョコレートケーキを…と頑張って挑戦してみたのだけど…

オーブンに入れてから着替えたり
洗面所でおめかし(?)などしていた時に
何かが焦げるいやな匂いが漂ってきて…

あわてて台所に駆け込んでオーブンからケーキを取り出したが
表面と端の所が焦げ付いてしまっていた…

「おかしいよ…時間はまだなのに…設定温度だって…あれっ」

もう一度レシピ本に目を通してみると
どうやらおしまいの所を見逃していたようだった

* オーブンにより焼き時間は多少異なるので様子を見ながら焼いて下さい。途中、表面にアルミホイルをかぶせると焦げません。


トホホ…と肩を落としてがっくりとしたが…

「だめだ…落ち込んでる場合じゃない
 何ができるか考えなきゃ…」

ばっと顔を上げると焦げたケーキを観察する

「上の方だけよね…だったらそこを切り取ってデコレーションとか…」

でも…デコレーションするものがないなぁ…
焦げた匂いとか…全体に移ってそうだし…

こんな時に頼りになる母親は出かけて留守だった

それに…イザークとの待ち合わせの時間がもうせまってきている…

遅くなると伝えようか…

でも…

ケーキを焼くからとは言ってないけど
いつもの土曜日より遅い待ち合わせにしてもらったので
できれば、それはしたくなかった


「なにか焦がしたのか…」

父親が鼻をくんくんさせて台所に顔をのぞかせた
ノリコが情け無さそうな顔で事情を説明すると
ふん…と面白く無さそうな顔をした

イザークへのプレゼントというのが気に入らないのだろう


「あいつだったら、丸焦げのケーキでも
 おまえが作ったのなら喜んで食べそうだがな」

そう言ってから実際その情景を想像して…
ついニヤリと口もとを緩めた

「おとうさんてば、ひどい…」

からかわれたと思ったノリコは眉を上げて抗議をする

「いや…私は…
 ん…?これはなんだ」

食卓のテーブルの上にもう一つ小さな丸いケーキがちょこんとのっている

「あ…それは…試しに焼いてみたのよ」

試作の方は成功したのに…

「おとうさんにあげようと思って…」

イザークのケーキは、この日のために用意したケーキ型で
一回り大きなハート型だった

その歴然とした差に、多少憮然とした父親だったが…

今日は恋人たちの日だったな…

そう思ってなんとか自分を宥める


「では、こっちはわたしとかあさんとで食べるから
 そっちをあげればいいじゃないか」

「え…でも」

「あいつだって…そんなに甘いものは好きではないだろうから
 小さくても構わんだろう…」

どう見たって辛党のタイプだ…

「うん…だから、かなりお砂糖の量は控えて
 ビターに作ったんだけどな…」

残念そうにハート型のケーキに目を落としてから
ノリコはそぉっと上目で父親を見た

「本当に…焦げたケーキでいいの?」

「私たちはかまわないよ…」

父親が優しくそう言ってくれたので
嬉しくなったノリコは思わずありがとうと父親に抱きついた


幼い頃からノリコは、嬉しいことや悲しいこと…
何か感情を揺るがせるようなことに出会うと
よくこうして抱きついてきたものだった

あの事件依頼それはぴたりと止まっていたのだが…

久しぶりの娘の身体の感触を父親は懐かしく感じて
愛おしむようにそっと背中に手をまわした


「いけない…!」

慌てて、ぱっと身体を離したノリコが
ラッピング…と呟きながら、ケーキを包み始めた


あの男にも、そうやって抱きついたことぐらいあるのだろうな…

少し感傷的になりかけた父親は
そんな表情を娘に見せたくなくて…
そっと台所から出ていった



ラッピングを終え、手提げ袋にケーキを入れて出かけようと
もう一つの紙袋に目をやったノリコはふっとため息をついた



「あの…」

昨日の放課後、帰りかけたノリコに麗美さんが声をかけてきた


麗美さんとはあのカフェ以来…時々学食で一緒にお昼を取ったり
休み時間におしゃべりをするようになっていた

けれど、おしゃべりの内容のほとんどは
麗美さんがイザークのことをいろいろ訊ねてくるのだった

イザークの出身地
イザークの誕生日
イザークの仕事
イザークの好きなもの

質問は延々と続いていく

ノリコはできる範囲で律儀に答えていたのだが
友人たちから釘を刺されてしまった

「気をつけな…ノリコ」
「お人好しのノリコにつけ入ってるわね…」
「隙あらば奪おうとしているのよ…きっと」


それは、違う…とノリコは思った

彼女は、そんなイヤなひとじゃない…

麗美さんはあの外見でずっとちやほやされてきた所為で
本当の恋を今まで知らなかったんだ

狙った男性はほぼ落とせるという確信が
彼女をさらに「恋すること」から遠ざけていたんだろうな

イザークに恋してしまった麗美さんは
自分の気持ちを持て余して戸惑っている
イザーク本人にその気持ちを打ち明けられないから
あたしにこういう形で思いを託しているんだ

彼女が、ただ初恋に戸惑っている…純情な女の子とすら思えてくる
少し天然入っているかも…


だから昨日このチョコレートの袋を渡された時も断れなかった


「明日はもちろん彼と会うんでしょう…?」

こくんとうなずいたノリコの手にその袋を押し付けると

「彼に渡してね…」


都心の老舗のデパートの専門店でしか扱っていない
外国産の高級チョコレート
紙袋すら、めちゃくちゃ高級感に溢れていて
自分が用意したそれは比べるとなんだか見劣りする

昨日もその後、イザークとは会ったのだけど
なんだか今日まで見せてはいけない気がして
袋は丁寧にたたんで、チョコの箱と一緒にかばんに入れたのだった


お人好しか…

だって…イザークが好きって気持ち…
あたしと一緒だもの

それに…
あれだけ綺麗なひとなのに
恋愛に不器用な感じがなんだかイザークに似ている気がする


彼の初恋は…あたしなんだ


ノリコはそっと頬を赤らめる



『女は何度も抱いたことがある…
 名前も…顔すらも覚えていないが…』

再会して間もない頃…
あたしを後ろから抱きしめて
彼はそう言った

顔を…見られたくなかったのかもしれない…

あたしと出会う前に…
そしてあたしと引き裂かれた後も…

身体だけをただ繋げた行為だったと…


『そんなおれを軽蔑するか…』

彼が耳元で囁くように訊ねる声が震えている気がした


あたしは…
そうやって女性を抱いているイザークが
そしてそんな彼に抱かれている彼女たちが

なぜかひどく切なく思えて…


『もう…他のひとは抱かないで…』


ただ…そう答えた


ああ…と彼はあたしを抱いていた手をぎゅっと強めた

『もう二度と…』



そんな風にしか女性と接することが出来なかった彼が

初めて誰かを真剣に好きになって…
あんな引き裂かれ方をされて…

あたしと同じで…
どこかに不安な思いを引きずっているのかもしれない

だからなのか…

彼は、ひどく過保護だったり…独占欲をあからさまに誇示して
近頃はおとうさんにからかわれることすらある

不器用で…けれどその想いをまっすぐにあたしに示してくれる彼と
麗美さんの姿が重なるから…

あたしは断れなかった…





今日のイザークとの待ち合わせは彼の家の近くの駅の改札口だった

麗美さんのチョコを預かったってことで
イザークが気を悪くしなくちゃいいんだけど…



「あ…」

電車を降りてイザークのもとへ向かいながら
また別な気掛かりに一抹の不安を感じていたノリコだったが
彼の気配を感じて顔を上げた


彼の存在を感じとるといつも…
大きく包み込んでくれるような安心感に覆われる


「大丈夫…」

そう独り言を呟いて
ノリコはニコリと笑うと彼の元へと急いだ


ノリコと目が合うと静かに微笑みを浮かべたイザークに
ぼすっとノリコは抱きついた…
両手が塞がっていたので身体を軽くぶつけただけだったが…

「ノリコ…?」

普段は人前でそういうことをするのをひどく恥ずかしがるノリコだったので
イザークは不意打ちをかけられたように驚いた

「何かあったのか…?」
「ううん…ただイザークがこうしてあたしを待っていてくれるのが嬉しくて…」
「…」

少し焦ったようにノリコを見下ろしたイザークだったが
ふっ…と口元を綻ばせる


そう言えばなにか感情が高ぶると
人目も気にせず抱きついてくるんだ…ノリコは…
おれが待っているのを嬉しく思うほど不安なことでもあったのだろうか…


自分に縋りついているノリコが両手に荷物を持っていることに
イザークは気づいてそれを取ろうと手を伸ばす
はっ…と我に返ったノリコが赤くなってぱっと身体を離した

「やだ…!あたしったら…」

優しく微笑んでいるイザークの姿が見えた途端…
何も考えずにその胸に飛び込んでしまった

「おれは構わんぞ…」

くっと笑ったイザークが取ろうとする荷物から
ノリコはケーキが入った袋を守るように握りしめる

「こっ…これは…いい…自分で持つ」
「…?」

プレゼントを持ってもらうわけにはいかないじゃない…
…あ…!

しまった…とノリコはイザークの手元を見る


麗美さんの袋…渡しちゃった…
今更返してもらうのも変だよね…


ごめんなさい…ノリコは心の中で麗美さんにそっと謝った

イザークは少しだけ不思議そうな顔をしたが
あまり気にせずノリコの背中に空いている手を廻して歩き出した


「買い物をしたのか…」

イザークはスーパーの袋を見て、なぜ…というようにノリコを見た
いつも食事の材料は一緒に買っている

「だって…一緒に買い物するといっつもイザークが払っちゃうでしょ…」
「ノリコ…おまえはまだ学生で…」
「わかってるったら…今日だけだから…」

そう言われるのは承知の上だったので
ノリコはイザークの抗議を遮るとにこっと笑った

親からのお小遣い…ってわけじゃない
バイト代はほとんど使わずそのまま残っている

ここの世界でも相変わらず…
いつだって、どこに行ったって…
全部イザークが払ってくれる…

だから、せめて…今日くらいは…


「バレンタインデーか…」

商店街のあちこちにやたらとちりばめられたハートの飾り付けに目をやりながら
イザークがぼそっとつぶやいた

「イザーク…バレンタインデー知ってるの…?」
「ああ…もちろんだ…恋人たちの日だろ…」

ちょっと意外…という顔で自分を見上げるノリコに
少し面白そうな顔でイザークは応える

「だが…女だけがプレゼントをしたり告白するとは知らなかったな…」
「そ…それは、日本だけだよ…」
「ああ…あっちでは、どちらかというと男が花を贈っていたようだった…」

おれはまったく興味がなかったが…と、最後は小声でイザークが呟いた


この場合の「あっち」は、こちらの世界の「あっち」で…
…ということは、ニューヨークのことかしら…


「欲しかったか…」
「え…」

考え事をしていたところを急に訊ねられて
一瞬なんのことかわからずに思わず聞き返してしまったノリコだったが
すぐにイザークの意図を理解して、ぶんぶんと頭を振った

「ここは…日本だから…全然そんなこと考えていなかったもの…」
「買ってやろうかと思ったのだが…」
「え…」


花屋に一歩入ったイザークは店の中をぐるりと見渡すと
店員が声をかける暇もなく、そのままきびすを返して出て行ってしまったのだ



「ここの花はあまり好きではないな…」


あ…同じだ…


いつか自分が感じたことと同じことをイザークも感じている
それが無性に嬉しかった

「あ…わかる、あたしもね…そう思ったことあるの…」
「ん…?」
「なんか人工的でね…」
「…そうだな」

ノリコはくすっと笑うと、それから小声でそっと呟いた

「あの時の花束は素敵だったな…」
「…」

後にも先にも花束をあげたことはただの一度きりで…
ノリコが何を言っているのかすぐに察したイザークが
照れたように少し赤くなった

「あーんな草原…この世界のどこかにもあるかなぁ…」

お花畑は栽培されたものだし…
天然なものがあったとしても、摘むのは禁止に決まってるし…

楽しそうにおしゃべりをするノリコの耳元に
イザークは顔を近づけると、そっと囁いた

「花なら後でいくらでも散らしてやる…」
「…!」

かあああ…と真っ赤になったノリコは
つい目をぎゅっと閉じてしまう


イ…イザークったら…
往来のど真ん中で…平気でそういうこと言うんだから…



「ノリコ…『みんな見てる』ぞ」
「え…」

イザークに言われてノリコは目を開けた

『みんな見てる』はノリコがイザークを制する時に
よく使うフレーズなのだが…
今日はイザークに使われてしまった


真っ赤になって目をかたく閉じたノリコが
イザークに肩を抱かれて歩く姿がおかしかったのか
何人かの通行人が笑いながらこちらを見ているのが目に入った


「う…」

これ以上赤くはなれないノリコは
恥ずかしさに顔をうつむけたまま歩いていった
周りは全く見えなかったけれど、イザークに任せれば
危険なことなど何もないことをノリコは知っていた


ぱさり…

身体がコートで覆われて
イザークのマンションのそばまで来たことがわかった



「あれっ…随分早く帰ってきましたね」
「駅まで迎えに行っただけだろう…」

土曜日は大抵、夕方まで帰らないことが多かった
毎日の監視の中、イザークの行動範囲で唯一彼らが把握しているのは
イザークの帰宅時間のみであった

おれたち…ここで一体何をしているんだ…
そんな空気が刑事たちを覆っている

車の中の誰からか…遣る瀬ないようなため息が聞こえた頃…


「奴が出てきました…」
「え…」

珍しくイザークがマンションのエントランスから出てきた

「こっちに向かってきますよ…」
「え…」

イザークはまっすぐその車に近づくと
運転席のドアを力任せにバンっと開けた

いつでも飛び出せるようにドアには鍵はかけていなかった
それでも毎日監視していた男が目の前に現れて
運転席の刑事は、ひっ…と青くなった

義理…だそうだ」

イザークは紙袋を彼に押し付けると
不機嫌そうな表情でひと言だけ言って、また戻っていった

「…」


『いつも大変だよね…』
そう思ったノリコがスーパーで買った
キャンディタイプのチョコボンボンが入っていた




台所では遅めの昼食を用意している
鍋を火にかけ手が離れたノリコが、居間のテーブルにケーキと
麗美さんのチョコレートを並べてイザークに全てを打ち明けていた

麗美さんからは昨日預かったこと
ハート型のを焼いたのだけど焦げてしまったこと


「これを食べてもいいか」

ノリコのケーキを指してイザークが訊いた

「え…でも、食事前だよ」
「今、欲しいんだ」
「…」

珍しいな…
イザークがそんなこと言うの…

ノリコは不思議に思いながら
ケーキをお皿に載せてフォークと一緒にイザークへ渡した

「こっちは…」

麗美さんのチョコをイザークは脇にどけた

「後で一緒に食べよう…」


それじゃぁ…麗美さんに悪いよ…と喉まで出かかった言葉を
ノリコはぐっと飲み込んだ

突っ返したり…捨てたり…
麗美さんの気持ちを無下にするわけでもなく
かといって受け入れることなど出来るはずがなく

二人で一緒に食べる…

それが一番いいとイザークが言うのなら
あたしはそれに従おう…

麗美さんにもちゃんと話して、きちんとお礼を言おう


「こんな高級チョコ…食べるの初めて…楽しみ♪」

笑顔でそう言うノリコにイザークはケーキを口に運びながら…

「こっちも美味いぞ…」


もう…なんだって『美味いぞ』なんだから…


少しあきれながらも…やっぱり嬉しいノリコは少し照れて
えーと…と説明を始めた

「イザークは甘いの好きじゃないかな…って思ったからね
 お砂糖は控えめにして…ビターにしてみたのよ…」


イザークは食べる手を止め顔を上げると、何か…少し考えて…

「確かに…砂糖の甘さは苦手だが…
 決して甘いのが嫌いなわけではない」

ふーん…とノリコは小首を傾げた

「…甘い果物とか…?それとも蜂蜜なんかは好きなの…?」

ケーキを再び一口食べると
イザークは少し悪戯な笑みを口元に漂わせノリコを見た


「ノリコの身体は…蜜のように甘いからな…」


「イ…イザーク…!」

また赤くなったノリコが、今度は抗議するように叫んだ

「やだ…もう…!恥ずかしい事ばかり言って…」

「何を恥ずかしがってる…」

おれは嘘などついてないぞ…と可笑しそうな顔をしたイザークの胸を
ノリコは拳で叩き始めた

「からかってるんでしょう…」
「からかってない…」
「じゃあ…あたしが赤くなるのを見て楽しんでるの…?」
「おまえを見ているのはいつも楽しい」
「イザー…、ん…」

抗議をしていた口が強引に塞がれる

バレンタインデー最初のキスは
ほろ苦いチョコの味がした


後頭部をイザークの手がしっかりと抑えているので
抗うことが出来ない

時々唇のたてる音が響いて
部屋の中が先ほどとは違う甘い空間に変わっていく

唇をイザークの思いのままに貪られて
身体から力がぬけていったノリコは簡単に引き寄せられて…
膝の上に乗せられてしまっていた

「…ふぅ…」

やっと解放されて大きく息を吐いたノリコは
イザークの指がすでにブラウスのボタンを
ほとんど外しているのに気づいて慌てた

「あ…あの…イザー…」

声がうわずってしまい最後まで言葉にならない

イザークの舌がツーと首筋をはって
身体がゾクリと大きく震えた

大きく開けられた胸元に彼が唇を寄せて
吸い付くようなキスを何度も落とすと
次は味わうように舌で舐めはじめた

「…イザーク…」

熱い息を吐くようにノリコは彼の名を呼んだ


イザークはノリコの胸元から顔を上げ目を合わせると微笑んだ

「やはり…おまえは甘いな…」


「…鍋が…」

こんな時に…と思うが、コンロにかけたままのシチューが気になる

「ああ…」

イザークがちらっと調理台に目をやると
コンロの栓がひとりでに回って火が消えた


…もう…イザークったら…

再び始まった執拗に繰り返される愛撫に
意識を飛ばされそうになりながら
柱にかかった時計に視点があって…
ノリコはうわごとのように呟いた

「…まだお昼過ぎだよ…」


その言葉にイザークは動きを止めるとノリコの顔を覗き込む
ノリコの顔にかかった髪の毛を指で払いながら
涼しい顔でイザークは言った

「恋人たちの日…だろ、今日は…」
「…」



そのままノリコを抱いて立ち上がると寝室へ向かった

続き
その後の彼方から
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by 彼方から 幸せ通信