星空の下で

なんで…こんなことになったんだか…


ベートは星空を見上げて深ーいため息をついた





ニューヨーク以来…なかなか会うことが出来なかったノリコと華が
久しぶりに顔を合わせたのが一週間前


今、二人が半同棲していると聞いて
華がベートと一緒にイザークの部屋を訪れた

華は今、兄に代わって父親の秘書をしている
激務といっていい程の仕事だが華は頑張っていた


その父親がお盆休みを取るので
華も来週は時間があると言った

ノリコの学校はお盆をはさんで10日間ほど夏休みになる
当然のようにイザークはそれに合わせて仕事は入れていない
…ということは相棒のベートも暇であった


「えー、じゃあ皆で一緒にどこか行こーよ」

ノリコがはしゃいで言えば
否を唱える者などいなかった

「海…どこかのビーチホテルなんかどうかしら」

そんな華の提案は
イザークがきっぱりと却下する

「だめだ…」
「なんでよっ!」

けんもほろろなイザークの態度に憤った華の肩がポンポンと叩かれて…
隣にいるベートを華が見ると…

諦めろ…とでも言うようにベートが首を振っている


服はいつもイザークに選んでもらう…
そう嬉しそうに言っていたノリコを見ればいやでもわかる

鎖骨さえも隠す高めの襟首…
膝下丈のスカート…
真夏だと言うのに…露出が極端に少ない服装…

イザークがノリコの水着姿を許すとは…到底考えられない

久しぶりに華の中にイザークのノリコに対する束縛ぶりに
むらむらと怒りがこみ上げてくる

「あのね…」
「高原のリゾートホテルなんかもいいね」

子供時代の悲惨な境遇から骨の髄まで平和主義者なベートが
文句の一つや二つ言いたそうな華を遮った

「…」


気性は激しくても…お嬢様育ちの華は案外素直に
ベートの提案を受け入れる

「高原…だったらうちの別荘…」
「そう言えば…イザーク」

今度はノリコが華を遮ってイザークを見上げた

「…ん?」

なんだ…と視線を向けるイザークに
にっこりと笑ってノリコは言う

「あったかくなったら…野…キャンプに連れて行ってくれるって言ってたよね」
「ああ…そうだったな 」

「キャンプ…?」

まったく予想外なことを聞いて
ベートがきょとんとした顔になった


日焼けとは無縁そうなイザークの肌を見れば
アウトドアが趣味なようにはとても見えないのだが…

ニューヨーク時代のイザークが余暇をどう過ごしていたか知らない

社交性が皆無と言っていい彼は
一人でそんなことをしていたのだろうか…


「君にそんな趣味があったとはな…」

半ば感心したように呟いたベートに
イザークは無言でじろっと睨んで応えた


「面白いわ…」

休暇は別荘や豪華なホテルでしか過ごしたことのない華が
興味津々な顔でそう言って…
結局みんなでキャンプをすることに決まった


「キャンプ場って予約しなければいけないのかしら…」
「キャンピングカーをレンタルするのかい…」
「あら…テントで寝るんじゃないの…?」
「それだと…テントや寝袋も用意する必要があるね」

華とベートが準備について打ち合わせしようとするのを
イザークが一蹴する

「必要ない…おれが用意する…」
「おれたちの分も君が揃えてくれるの…?」
「ああ…場所もおれが決める」


…仕切る気満々だな…


ベートは信じられなようにイザークを見る

誰にも心を開かず…
常に周囲に放っておいてくれというオーラをふりまいている奴…

いや…今だってそれはあまり変わっていない


たった一つの例外を除いて…


イザークの隣でワクワクしながら華とおしゃべりをしているノリコの存在が
彼に取ってどれほどのものなのかを
ベートはあらためて思い知らされるのだった


「わかった…じゃあお願いするよ」

決していい加減なことをするやつではないだろうと思ったので
イザークに全て任せることにしたのだった





「え…」

当日華の家に迎えにきたイザークとノリコの姿を見て少し驚いた


山歩きをしてからキャンプ…

そんなかなり大まかな予定をノリコから知らされていたので
華もベートも動きやすい服装…
登山靴とまではいかないまでもしっかりした運動靴…
日差しも強そうなので帽子…
とりあえずそれなりな恰好をしていたのだったが…

イザークはいつものようにジーンズに綿シャツを羽織って…革靴を履いている
ノリコにいたってはワンピース姿だった…


「山歩きって恰好じゃないわね…」
「あはは…どこか舗装された道でも散歩するんでしょうね」

ベートは華とこっそりそんな会話を交わしながら…
イザークがアウトドア志向なのかと信じた自分が可笑しくなったものだった



ノリコが乗っているせいか…(とベートは思っている)
イザークはまったく危うげのない安全運転で高速を走っている
車内はイザークを除く3人がおしゃべりに花を咲かせていて
楽しい休暇の始まりにいやがうえにも期待が高まっていった



「…」

高速を出たイザークは深くなる山の合間の
ひどいでこぼこ道に車を進めていく

ガタガタ揺れる車内で…会話することもままならず…
ただ…身体を支えるのが精一杯な状況になって…
ベートは僅かばかり不安になった


その道すらも途切れたところに車を停めた


辺りはうっそうと繁る木立に囲まれ
昼間だと言うのに薄暗く空気はひんやりとしている

めったに人などやってきそうにもないところだった


イザークは車のトランクから荷物を取り出す


「え…」

車に乗った時に預けた着替えだの洗面用具などが入ったリュックを渡され
華とベートは面食らったように立ちすくんだ

てっきりキャンプ場の駐車場に車を停めて散歩に行くのか…
または山歩き(散歩)をしてから
車でキャンプ場に向かうのかと思っていた


あたりを見回しても「◯◯キャンプ場…矢印」みたいな張り紙はなくて…
…と言うより、自分たち以外の人間がここにいる気配すら感じられない…
そんな山奥深い場所であった

イザークは大き目のナップザックのようなものを肩にかけると
もう片方の手には夕飯の材料が入っていると思われる アイスボックスを持った


「ちょっと待て…イザーク」

焦って言うベートにイザークが振り返った

「…キャンプ場は…どこだ」


「キャンプ場…?」

なんだ…それは、と言うようにイザークの眉が顰められる

「キャンプするんだろ…おれたち…今夜」


キャンプか…

イザークの頭の中で野宿=キャンプと変換された


「しばらく歩いた先でキャンプする」
「…」



けもの道…とすら言えないような木々の間の草を踏み分けて…
イザークはすたすた歩いて行く

ノリコはイザークの腕にしっかりと捕まって
嬉しそうにおしゃべりをしている

急な斜面…木の根っこや石などがあって転びそうな所に差し掛かると
荷物を持っているにも関わらずイザークはひょいっと器用にノリコを支えている…


なるほど…ワンピースでも問題ないわけだ…

ベートは妙に感心して見ていた


「ねぇ…イザークのあの荷物…」

こちらも…ベートに必死に捕まって歩いている華が
不安そうに囁いた

イザークが持っている荷物には…
どうみたって4人用の寝袋や
テントが入っているようには見えない…


イザーク程器用には出来ないが
それでも華が転ばないようベートは気を遣っている

「近頃はかなりコンパクトになっているのでしょうね…」

ひたすら楽観的に…それを心から願うように…ベートが答えた
そんなことあり得ない…と頭の片隅でわかっていたが…



「こっちだ…」

緩やかな斜面をしばらく登って行くと
イザークはそう言って方向を変えた

地図も磁石も持たず…
もちろん道標もない…

かなり適当に歩いているように思われる
以前来たことがあるのだろうか…


遭難…という言葉がベートの頭をかすめたが…
言葉にするのが怖くてベートはなにも訊ねずにいた

勝ち気な華ですら不安そうにしている

明るいノリコの話し声が…ただ一つの救いだった


真夏だと言うのに森の中の空気はひんやりと澄んでいる

「ここ…気持ちいいねぇ」

そう言って振り返ったノリコに
華もベートも慌てて不安げな表情を隠した

「あ…ああ…そうだね」
「森林浴…って言うのかしら…なんだか落ち着くわ…」

そんな二人にノリコはにっこり笑った間もなく
視線を横にそらすとうわっ…と声を上げた

「あそこにキノコが生えてる…」

ノリコが指差した先の木の根元にみっしりとキノコが群生していた


「…あれは食えん…」

ちらっと横目で見たイザークがあっさりと言った


おいおい…イザーク…
君はそんなことまで詳しいのか…


感心しているのか…呆れているのか
自分でもよくわからずに胸の中で突っ込んでみるベートだった


「…そっかぁ… 」

一瞬だけ残念そうな顔をしたけど…
すぐにまた明るくおしゃべりを始めたノリコを
ベートはじっと見つめる


ノリコはイザークが「食べられる」と言えば
なんの疑いもなく食べるのだろうな…

こんなところを歩かされても…
不安なそぶりなど一欠片も見せやしない
いや…不安どころかひどく楽しそうだ…

ノリコのイザークに対する無条件の信頼…

それがここでも発揮されているということか…


最初から不思議だったんだ…
イザークという他人にはひどくわかりにくい男のことを
ここまで信頼できる彼女が…

そりゃぁ…イザークに出会った途端…
盲目的な虜になった女は今までに何人も見てきた

だがノリコのそれは…
そういう類いのものでないような気がする


ノリコは知っているのだ…
彼がどんな男か…

いや…
それだけじゃない

二人の間には…おれたちが知らない何かがある

そう思ってしまうのは…
おれの気のせいだろうか…



イザークが突然立ち止まって振り返った
物思いに耽っていたベートもはっと我に返る

「…?」

後方斜め右の方向にイザークの片手がすっ…と伸びる

華とベートもつられてそちらに顔を向けるが
木や繁みの奥は暗くてなにも見えない

「ど…どうしたんだ…?」

すぐに手を引っ込めて前を向いたイザークにベートが訊いたが…
なんでもない…と短く答えてイザークはまた歩き出した

「…?」

華もわけがわからず…戸惑った顔をしている


そんなイザークの奇妙な行動すら…
ノリコは気にも留めずにいる…


ノリコ…君はいったいイザークの何を知っているんだ…



実際…遠耳で訊いていたのでノリコは知っていたのだったが…


『イザーク…?』
『…熊がいたんだ…』
『うわっ…怖い』
『心配するな…もう大丈夫だから…』


イザークの遠当てをくらった運の悪い熊が
繁みの中に気を失って倒れていたことを
もちろん…ベートは知らない




どの位歩いたのだろうか…
イザークはゆっくりと歩いていたので息があがるようなことはなかったが…
それでも足が少し重くなってきた頃…せせらぎが聞こえてきた

木立が急に開けた…
薄暗かった森から抜け出した為か
空がやけに青く見えてベートは目を細める


清流の流れる沢があった
水際に立ったイザークが辺りを見回す…


「ここにしよう…」
「…ここ…?」
「ああ…ここでキャンプだ…」


キャンプと聞いた時は
水道や入浴施設…バーベキュー炉などが完備されたようなキャンプ場で
バンガローまたはテントで寝るのだろう…くらいに思っていたのだったが…


「こ…ここで寝るのかい?」
「そうだ」
「…だが…」
「ベート…木を集めろ…」

何か文句でも言いたそうなベートをイザークは遮った

「は…?」
「流木だ…白い方がいい」

イザークが指差した河原には石ころの合間に流木が転がっていた…

「乾いた枝でもいい…」

今度は森の中を指差す…

「流木…枝…?」
「夕飯を作る…バーベキューか…」

イザークがノリコから教わったキャンプ用語(?)を駆使する

「バーベキューって…炭やコンロを使うんじゃぁ……」
「そんなものはいらん」


「…はーぁ…君がここまで野外派とはね…」

ベートは頭に手を当て大きくため息をついた後…
よいしょ…と言いながら流木を拾い始めた

なんだかんだ言って…
その生い立ちからか…順応力は人一倍高いベートだった


ノリコと華はアイスボックスを開けて夕飯の準備を始める

「お肉はね…もう味つけてあるから…焼くだけでいいのよ」
「焼くって…」

華は言葉を濁らせた…


バーベキューパーティなら家や別荘で何度もやっていた
けれどそこには…立派なバーベキュー用のグリルが
庭に設置されていたものだったが…
たき火だけでどうやって肉を焼くのか…
全く見当がつかない華だった


「それからお野菜やキノコはね…」

戸惑っている華に構わず…ノリコは続けて言った

「アルミホイルに包んで火に放り込むの…」
「ほ…放り込む?」

もうそれは華の知っている「バーベキュー」とは異次元のものだ

「…ホントは葉っぱの方が美味しいんだけど…」
「…葉?」
「あ…ううん…なんでもない」

思わず口走ってしまったノリコが慌てて取り消した


イザークは裸足になってジーンズの裾をまくると
水の中へザブザブと入っていく

「少々冷たいが流れは穏やかだ…水に浸かっても危険はない…」

「水に浸かるですって…」

華がイザークに抗議するように声を上げた

「聞いてないわ…水着持ってきていないし…」

「水着…?」

何を言ってる…と言わんばかりにイザークが華を見た

「そんなものは必要ない」


水着が必要ない…?

も…もしかして…
何も身につけずに水に入れって言ってるの…


「イ…イザーク…」

真っ赤になった華は手を両手を握りしめ肩に力を入れた
ホリーに見習って…むっつりすけべ…と叫びそうになったが…


「汗を流したくないのか…」
「え…」

華の懸念を察したのか…
イザークは口の端を上げて答えた

「日が落ちれば…たき火の周り以外は暗闇だ」

心配するな…とイザークは普段の仏頂面を崩して
可笑しそうな顔をする


「そんな暗闇で…水に入るなんて…危ないじゃない」

イザークに見透かされてしまった華が
照れくささを隠すかのように言い返した

拾った枝を運んできたベートが、華にまで笑っているイザークを
不思議そうに見つめていることには気づいていない


「ベートと一緒なら大丈夫だろ …」

真っ赤になった華はう…っと返事に詰まった


「おれはノリコと入るから…」

イザークはしれっとそう言うと…
腰にはさんでいた小剣を取り出した


まだ…なにか言いたそうな華を尻目に…
イザークは急に集中して水面をじっと見ていたかと思うと
ザ…ッ、と剣を水中に突き刺した

剣の先には魚が刺さっていた

次々とイザークは捕れた魚を取ってノリコたちに向かって投げる

「…」

華はもう何も言えずに…
そんなイザークをぽかん…とみつめていた



なんだか懐かしいな…


投げられた魚を手に取ったノリコの頭の中に
こうしてイザークが魚を捕ってくれた日々が蘇ってくる


あの世界で一緒に旅をし始めた…まだ言葉が通じなかった頃…
イザークは小さな動物を捕えたんだ


一人旅の長かったイザークにとって…
町の食堂を利用する時以外は自給自足することが多かった

山菜や茸…木の実はもちろんのこと…
食用できる動物を捕えて食するのだ

けれど…

捕えた動物を捌こうとした途端…
ノリコが腕をつかんで必死で止めた

町の食堂では平気で肉を食べていたのに…

不思議な気がしたイザークだったが…
今にも泣き出しそうなノリコを見て動物を再び放したのだった



考えてみたらさ…
いつも食べているお肉だってどこかで処理されているのであって…
なのに自分の目の前ではいやだ…なんてあたし随分身勝手だ…
イザークも呆れてたかもしれない
それでも…イザークはあたしの願いを聞いてくれた

イザークはいつでも優しかった…

態度はひどく素っ気なかったけれど…
いつだって…ひどく優しかった


ノリコはうっとりと当時を思い出す


それ以来肉類は干し肉などを町で購入していたが
しばらく経って片言の会話の中で…
ノリコが肉よりも魚の方が好きだと知ったイザークが
野宿が続いて買い置きのものもなくなって仕様がなく川で魚を捕った

あの動物を捕えた時の騒ぎを思い出して…
イザークはなるべくノリコの目に触れないように捌こうとしたのだが…

全くこだわりなくノリコは魚を捌いているイザークの手元を覗き込んで…
まだ火も通していない身を食べていいかと真顔で聞いたのだった

イザークが…よせ…と言ったので
ノリコは諦めたのだが…

それ以来…魚が住んでいそうな川や沼などがあると
イザークはノリコの為に魚を捕るようになった


今…こうしてノリコの世界へ来てみれば納得できることだったが…
あの頃はそんなノリコにひどく戸惑っていた自分を
イザークは思い起こして可笑しくなる



捕った魚をきれいに捌いて先を尖らせた細い枝に刺していく
鮮やかなイザークの手つきに華やベートも感心していた

「ねぇ…捕れたてだからお刺身にしても食べられそうね」

華が昔のノリコのようなことを言う…

「それがね…川のお魚はやめた方がいいのよ…」
「…典子…随分詳しいのね」
「うん…イザークが教えてくれた」

嬉しそうににこにこしているノリコを
はいはい…と華とベートがやり過ごした


石で囲んだなかにベートが拾ってきた木を重ねて
イザークが火をつけようとマッチを取り出した

そんなもので簡単に火がつくのだろうか…
ベートは興味津々で眺めている


『ノリコ…』

イザークの声が聞こえて…
ノリコはベートに笑顔を向けた

「ベートさん…これ…開けてくれる?」
「はい…」

渡された瓶詰めのフタをベートは簡単に開けると
再びたき火に視線を戻した

「おおっ…」

ベートは思わず感嘆の声を漏らす

すでにたき火はパチパチと勢いよく燃えていた

イザークが枝に刺して器用に焼いた肉や魚…
アルミホイルに包んで蒸した野菜
後はノリコが作って持ってきたポテトサラダや
パン…果物などもあって

夕飯は華やベートが予想していたものよりずっと豪華なものとなった


食事の後片付けを終えた後…
しばらくたき火を囲んでおしゃべりなどしていたのだが
ノリコや華があくびをかみ殺し初めて…
そろそろ寝ようかと言うことになった


「寝具だ…」

やはり…

不安が的中した…とばかりにベートは 渡されたものを見る
薄い敷布と毛布が一式だけ…

「あんたたち…一緒でいいだろ…」


テントもなし…
下に敷くマットもなし…


「 …これだけで寝るのか」
「ああ…」

なにが問題なんだ…とイザークが例によって目で問い返す

「…雨でも降ってきたら…どうするんだ」

「雨など降らん…」

イザークはあっさりとベートの質問を一蹴した

「だが…山の天気は変わりやすいといううじゃないか…」

それでもベートは食い下がってみたが…


「心配いらん…」


なぜそんなに自信を持って言える…
君は天気までわかるのか…


言いたいことはたくさんあったが…
ふとベートはイザークの隣にいるノリコを見た…


イザークがノリコを雨に濡らすような危険をおかすだろうか…


それは絶対にあり得ない気がして…
だからイザークが心配ないと言えば本当に心配ないのだと
妙な安心感すら沸き上がってくる


ノリコのイザークへの信頼がおれにも伝染ったらしい


「ああ…君がそう言うなら…」

ベートは逆らうのを止めてイザークに応えた


「汗を流したければそこの浅瀬で水を浴びろ」

そんなベートにイザークが指差した方向は真っ暗闇で…


「あはは…いくらなんでもあんな暗がりで水の中に入れないな」


「これを持っていけ…」

火のついた枝をイザークが差し出した…


せめて…懐中電灯とか…
そういう文明の利器を君は知らないのか…

相変わらず気持ちだけ突っ込んで…
ベートは黙って枝を受け取った…


「ちょっと待って」

華が焦って抗議するように叫ぶ

「そんなので照らしたら…」

丸見えじゃない…とは言えずに言葉を濁らしたが
イザークにはわかってしまったらしい


「おれとノリコは少し離れた所に行く」

そう言いながら立ち上がると
ノリコの手を取って歩き出したイザークが振り返った

「それから…ベート」
「…」

すっかりイザークのペースにはまったベートが
操られたような動きでイザークを見る

「おれが帰るまで火の番をしろ…」
「火の番…?」
「火の粉がどこに飛ぶかわからんからな」

「だったらさ…火を消しても構わないんじゃないの…」

気温はさほど低くはない…
たき火を一晩中燃やさなければならないのか…

そんなことを訊ねるベートに
イザークはさらっと答える

「暗闇で蠢く獣は火を怖がる…」

「…」

華とベートの顔色が変わった



イザークはノリコを連れて上流ヘと歩いていって
その姿が闇に紛れて消えた


炎が瞬いたとしても…それはとても明るいとは言えなくて…
華とベートはさっと汗を流す程度で水浴びを終えた

華だけ寝具に寝かして…ベートはたき火の傍に座った

最初は寝付かれずに何度も寝返りをうっていた華だったが
疲れたのか…寝息が聞こえてきた



さらさらと木の葉が擦れる音
合唱のように響き渡る虫やカエルの声
夜行性の鳥の羽ばたき…
よくわからない獣の呻くような鳴き声…


「山の夜は意外とうるさいんだな」

都会育ちのベートは初めて知った自然のざわめきに
感心したようにひとりごちた…

大都会のジャングルとこの未開の山奥…
どちらが危険なんだろうか…

路上で暮らしていた子供の頃…真夜中に通りから人と車が消え…
昼間の喧噪が嘘のように静まり返る一時があることをベートは覚えている

だが…それは昔のことだ…

ベートは頭を振ると今日のことを思い浮かべた

イザークの今まで知らなかった面を見せつけられて随分驚いたな
あいつはまだどんなことをあの仏頂面の下に隠しているんだろうか…

まあ…何をやらせても完璧なことは変わらないが

だが…


ベートは困ったように頭をぽりぽりと掻いた


ノリコとイザークはまだ帰ってこない

ベートはとっくにイザークが水浴びだけに
ノリコを連れ出したとは思っていなかった


あいつ…

どんな危険な状況でも眉ひとつ動かさず
冷静に対処出来るクールな男

何度組んでも…一度だってあいつの感情や
ほんの少しの心の動揺すら見たことはなかったのに…

イザークはノリコの事となると理性が吹っ飛ぶらしい
抑えが利かないそれは…まるで十代の少年だな…


もうすでに何度も思っていたことだったが
あらためて確信したベートだった



星空を見上げながら数えきれない程のため息をついていたベートのもとへ
しばらくして眠ってしまったノリコを抱えたイザークが戻ってきた


「交替しよう…」

イザークはノリコを横たえ毛布をかけると…
たき火の傍に座った


「悪かったね」
「…ん?」

突然謝ったベートをイザークは顔を上げて見る

「おれたちお邪魔だったかな…
 ほんとは二人っきりで来たかったんじゃない…?」
「何を言ってる…」

取り合おうとしないイザークに構わずベートは続けた

「素直に言ってくれていたら
 おれたちだって無理してまでついてこなかったよ」
「くだらんことを…」
「くだらなくなんかないだろう」
「ノリコが皆で一緒に行きたいと言ったんだ…おれに異存はない」
「ほらね…君の望みは違ったんだ」
「ノリコの望むことを叶えてやるのがおれの望みだ」

ったく…とベートは頭を抱えた

こいつ…頑固なのか…
いや…意外とわかってないのかも

「では質問を変えるけどさ…
 もしノリコと二人っきりだったら…今、君は何をしていた…?」
「…」
「ノリコをさっさと寝かせて…火の番かい?」

言葉に詰まったイザークにベートがにやっと笑う


「満天の星に見守られながら…燃え盛る炎に照らされ…
 甘くて…けれど熱い一夜…」

まるで詩を朗読するかのように大げさな抑揚をつけて言った

「わざわざどっか…灯りもない暗い所まで行って
 押し倒すよりずっとロマンチックだよね」
「ベート…」

じろりとイザークが睨むが
もう慣れたベートはどこ吹く風と受け流している

「おれがどこでノリコを押し倒したって…?」
「とぼけるなよ…あんな冷たい水にずっと浸かっていたとでも言うのか」
「キスしただけだ」
「は…?」
「押し倒してなどいない」


水からあがったノリコの冷えた身体を温めるように抱きしめ
一日中ずっと傍にいながら触れることの出来なかったその唇に
息をつくことすら許さないように深く口づけた


「まさか…キスだけで動けなくなったのかい…」

ノリコの寝ている方を指差すベートに
ああ…とイザークが答えた


唇を離すと…ノリコはイザークの胸にぐったりともたれ掛かってきた
その身体の感触を楽しむようにしばらく抱きしめていたイザークは
ノリコが腕の中で安らかな寝息をたてていることに気づいて
思わず苦笑したものだった


「ノリコは感じやすくて…キスだけで立てなくなることもある」

顎を手でさすりながら、ふーん…とベートが相づちを打った

「ノリコの身体を支えて抱いているうちに眠ってしまっただけだ」

大真面目にそう言うイザークがベートには可笑しくてたまらない…
吹き出しそうになるのを堪えている

「すごいな…おれもハナをキスだけでうっとりさせてみたいよ」
「ハナはならないのか…ノリコはしょっちゅうだが」
「い…いや…ハナは…」


「ベート…!」
「イザーク…!!」


それぞれの背後から責めるように名前を呼ばれた男たちは
ぎくりとして話を止めた

「…」

始めこそ声をひそめていたが…気がつくと普通に話していて…
女の子たちを起こしてしまったらしい…

ノリコは真っ赤になって恨めしそうに
華は怒った顔をして…
男たちを睨みつけている


「あたしをキスだけでうっとりさせたいですって…ベート?」
「あれは…ただの言葉のあやでして…(たじっ)」
「なにが言葉のあやよ…出来るものならやって見せなさいよ…!」
「…」


「ひ…ひどい…イザーク…感じやすいとか…しょっちゅうだとか…
 なにもそんなことベートさんに話さなくったって…」
「い…いや…おれは…(おろっ)」
「恥ずかしいよぉ…」
「…」


華はぷいっと顔をそらせると背中を向けて寝てしまった
ノリコは毛布をかぶって丸くなっている



「…」

男たちはそれ以上ひと言も話さず…
ひどく憂いを秘めた表情で…
朝までたき火の傍に座って火の番をしていたのだった


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