願いはひとつ




「ホントにそいつ…そんなに強いの?」
「ハイジャックやっつけちゃうくらいだから…強いんじゃないの…」


久しぶりに帰って来た息子にビールをついでやりながら
母親はなんということもなく…当たり前のように答えた


「仕事で世界中飛び回っているし…
 強くもない警備人がわざわざ外国から依頼されないでしょ…」

ま…あの容姿もお呼びがかかっている理由かもしれないけど…

最後の方は…息子の土産のお饅頭をほおばりながら
モゴモゴと口の中ではっきりとは言葉にならなかった


飯沢から聞いた話を父親は妻に伝えていなかったので
母親の判断材料はその辺りだった


「でも…そんな強くてカッコいい奴がさぁ…
 典子のこと…本気なのかなぁ…」


爆弾事件の後…心を閉じてしまったノリコが
理由がわからないままに…不憫でならなかった兄だったが

母親から時折届くメールで…ノリコに彼氏ができたこと…
そのおかげでノリコが昔のように明るさを取り戻したと知って
ほっとはしていたものの…

今時の男女関係など くっついたり離れたりは日常茶飯事だ…
婚約までしておいて…もしその彼氏がノリコを傷つけるような真似をしたら…
きっと前以上にノリコが落ち込んでしまいそうで…一抹の不安を感じていた


母親はメールではあまり詳しいことは知らせていない…

「後でやってくるから…自分の目で確かめなさいよ」

うふふ…と含み笑いをしながら楽しそうに母親は言った


兄が今日帰ってくると知らせた時
学校終わったら行くね…ノリコはそう答えただけだったけれど…

二人でやってくることは訊かなくてもわかっている

イザークの仕事とノリコが学校へ行っている時以外は
ずっと一緒にいる…呆れるほど仲のよい二人だったから…




東京の本社に用があって久しぶりに上京してきた兄だった

昨年建設会社に就職した兄は研修も終わった秋頃に
その会社が関わっている地方のバイパス工事の現場に配置された
新入社員の彼は、会社と監督…作業員の間に挟まれて
雑用にてんてこまいで猛烈に忙しかった
それでも最初のうちは少しホームシックにでもかかったのか…
週末だけでも無理して帰って来たりしていたものだが…
そのうちばったりと帰らなくなった…
お正月にすら帰ってこられない程忙しいようだが
時々届くメールに仕事にやりがいがあるし…
仕事場の雰囲気もよく楽しくやっているようなことが書かれていたので
両親もあまり心配はしてはいなかった…

息子と入れ替わるように現れた娘の彼氏に(特に父親が)振り回された所為で
息子のことを考える余裕がなかったのも事実だが…




「しっかし…あの典子がなぁ…」


ノリコは同年代の子に比べてかなり奥手だったと兄は記憶している
自分と同学年のテニス部のキャプテンにほのかに憧れていたようだったが…
告白なんてとんでもなくて…
例え…万が一…彼の方から好きだ…なんて言われたとしても
きっと赤くなって固まって…まともにつきあうなんてできなかっただろうな…


まだ幼さが残る頃のノリコを思い浮かべて…
兄は思わずくすりと笑う


一緒にテレビドラマを見ていたって
ちょっとでも色っぽいシーンになると赤くなって部屋を出て行ってしまう
そんなノリコが可笑しくて…よくからかっていた…

あの事件が起こる前までは…


その後のノリコの様子を思い出すと
心が締め付けられるような遣る瀬ない思いに捕らわれてしまう…


だけど今は…

ノリコに婚約者がいて…結婚が待ちきれずに…
彼と半同棲しているというのがなんだか信じられない


「それにしても…よく、とうさんが許したな…」

会ってまだ半年にも満たない男と一緒に暮らすなんてこと…
けじめに関しては結構堅い父親ならば…
一年待てくらい言いそうなんだが…


実際…そういう約束だったことは勿論兄は知らない…
その約束をノリコの為にイザークが頭を下げて反古にしたことも…

両親は兄には事件当時ノリコがすでに
男性と関係を持っていた話はしていなかった

だから友人や知り合いに話しているのと同じく
昨年末に二人は偶然出会ったのだと言っている


母親は兄の漏らした疑問には応えずに…
少し遠い目をしてぽつりと言う

「典子ったらね…泣くのよ…」
「え…」


ほんの数週間前…その日は学校がなかったので
仕事に出かけるイザークが空港へ行く途中…ノリコを家まで送ってきた

玄関先で…寂しいと言いながら縋り付いて泣くノリコを
イザークは切なそうに微笑んで抱きしめていた


「思いっきり泣いた後は…
 吹っ切れたようにまた笑っていたのだけどね…」


ふーん…と相づちを打つ兄には…
母親がなにを言いたいのか…よくわかった

本当はひどい泣き虫なのに…
小さい時からノリコは…両親や兄に心配かけまいと…
どんな時でも健気で…前向きに頑張ろうとしていたものだった

小学生の頃…父親の転勤で仲良しの友達と別れてしまった時も
落ち込んでいるのが傍目にわかったが…
新しい学校は楽しいかと訊けば…
楽しいよ…と笑って答えるような…そんな子だった

だから…その婚約者が出張で当分会えないのが寂しいからと言って…
泣いたりすれば彼が困るだろうと…元気に明るく笑って…
いってらっしゃいと言うのが…本来のノリコなはずだ

例え…彼のいない所で泣くとしても…


「そいつの前では頑張らないんだな…典子は」

ええ…と母親は頬杖をついた顔を軽く傾けると
ひどく満足そうな微笑みをそこに浮かべた

「イザークさんが…頑張らせてくれないのよ…」
「…そうなんだ…」

なんだか…兄もつられるように微笑んだ




ただいま…というノリコの声が聞こえた


「うわぁー…お兄ちゃん…久しぶり」

部屋に入ってきたノリコが
まったく屈託のない笑顔で兄に抱きついた

「の…典子…」

兄は…少し驚いたのと…照れたのか…顔を赤くしている


小さい頃はこうして抱きつく癖があったけど…
…年頃になってそれは影を潜めた…と思っていたのだが…
どうやら…また復活したようだった

そんなノリコから…顔を上げると…
背後に立っている男が目に入った


「…」

母親から…「かっこいい」とは聞いていたが…


そういうレベルじゃないだろう…かあさん


ノリコを抱いたまま…兄はイザークを見る

なんだか睨みつけられている気がしたけど…
母から、ひどく無愛想な人だから…と聞いていたので
あまり気にせずに…ニコリと笑って会釈したが…
プイ…と、視線をそらされた

あれ…?

兄は不思議そうに首を傾げた…




「そっかぁ…明日から一週間休みなのか…」


夕食後…父親は締め切りが近いと言って…すぐ書斎に引っ込んで…
母親はもうすでに床に入ってしまっている


ノリコは兄とのおしゃべりが止まらなくて…兄にしてみても…
にこにこしながらぺらぺらとしゃべるノリコの姿を見るのは
本当に久しぶりのことだったので嬉しくて…
もう深夜近いというのに…なかなか切り上げようとしない


「うん…学校が休校でね…」

ノリコの学校はこの時期、二年生が研修合宿をする
講師のほとんどが同行するため一年生は休校になる
イザークも当然のようにその期間は仕事を入れていない

「なんか予定でも入れてるのか…?」
「ううん…別に…」

ただ…一緒にいられればそれで構わない二人だったから…


「よかったらさぁ…おれの所に来ない?」
「…え?」


温泉宿があるんだ…
兄は少しはにかみながらそう言った


工事現場の近くに…
山奥の秘湯として人気の一軒宿がある…と兄は語った

家族経営の…小さな宿だったが
泉質の良さと家庭的なおもてなしで結構人気の宿らしい


兄たち…従業員には現場にプレハブの宿舎があるが
そこは宿泊しなくても温泉だけつかることもできるので…
兄は時々息抜きに行くのだそうだ


「そ…そんな大きくない宿なんだけどさ…」
「お兄ちゃん…なんで赤くなってるの?」
「べ…別におれ…」

そう言いながら…がしがしと頭をかき出した兄を見て
くすっとノリコが笑った

「な…なんだよ」
「お兄ちゃん…困るとそうする癖…相変わらずだね」

う…と言葉に詰まった兄を見て…
ノリコは何かに気づいたように…にこっと笑った

「もしかして…お兄ちゃん…そこにいい人いるの?」
「…」


図星だった…

その宿には一人娘がいた
最初に行った時からなんとなく気になって…
気がつくとむこうも自分を意識しているようで…
思い切って告白したら…恥ずかしそうに…うなずいてくれた



「お正月にも帰ってこないと思ってたら…そういうことだったんだね」
「正月は書入れ時なんだよ…」

どうやら兄は正月休みに…
旅館の手伝いをしていたらしい

「父さんたちにはまだ言うなよ…」
「なんでぇ…?」
「お…折りをみて正式に紹介したいと思ってるんだよ…」

兄の気持ちはわからなくはないが…
ノリコはちょっと首を傾げた

「だったら…あたしたちだけ…先に会っちゃっていいの?」
「…」



「まだ一つ…」

急に黙ってしまった兄に代わって…
それまでノリコの隣で…ほとんど何もしゃべらずに…
グラスを傾けていたイザークが…ぽつりと呟いた

「おれたちを連れて行きたい理由がありそうだな」
「え…?」

ノリコは兄から目を離し…
横にいるイザークを不思議そうに見上げる



「うん…」

イザークの鋭さに驚きながらも…兄は素直に頷いた

「実は…」

今までふもとの町からその宿までは…
車一台通るのがやっとのような曲がりくねった道を
1時間以上かけて行くしかない…ひどく不便な場所だったのが…
バイパスが完成すればぐっと行きやすくなる

そこに目を付けた地元の有力者がそこに大きなホテルを建てようと…
温泉権を譲ってもらいたいと申し出たのだが…
宿の経営者は代々受け継いでいるそれを手放す気はなく断った



「それから…嫌がらせが始まったんだ…」

兄はぐ…っと手を握りしめ、悔しそうに言った

「警察に言わないの?」
「法に触れるぎりぎりのことをしてくるんだよ」


腕に覚えがありそうな者たちを従えて…
酔っぱらって女性客に抱きついたり…
温泉の中を汚したり…

「どっちにしろ…警察がやってくる前にいなくなるしな…」

都会とは違う…
110番したって…来るまでに一時間以上かかる…
後になっていくら証拠をつきつけても
警察幹部と昵懇な有力者が上手に握りつぶしてしまう

不便さにも関わらず…
通って来てくれていた常連が来なくなっていた

彼女と両親は…絶望的になっていて…
もう…半分諦めかけている
それを…なんとかしてやりたくて…


兄はイザークを見ると…少し自嘲気味に笑った

「かあさんが…あんたは強いって言ったんで…
 助けてもらえないかと思ったんだ…でも…」

相手は岩みたいな頑丈な奴らをいつも8人ほど引き連れて押し掛けてくる…
それに比べて…細身なイザークに目をやった

「いくらなんでも…無理だよな…」

虫のいいことを考えていた自分が情けないと…下を向いた


「あたし…行きたい…」
「…え?」

きょとんと自分を見る兄を横目に
ノリコは少し甘えた風に上目遣いでイザークを見る

「だって…イザークとまだ温泉に行ったことないもん」
「…そうだな」

おねだりするようなノリコの様子に…
イザークの仏頂面が綻んだ


「じゃぁ…いいの…」
「ああ…行こう…」

「…」



結局二人は…翌日の午前中に本社で用を済まして
お昼過ぎの飛行機で戻る兄と同行することになった



イザークがお酒を飲んだので…
今晩はここに泊まることにしたノリコとイザークだったが
ベッドの上で…小競り合いが始まっている


『だめっ…』

声にできずに…ノリコはイザークに必死に語りかける

『お兄ちゃんが…隣にいるんだよ…』
『それが…どうした…』


力では敵うはずのない相手にノリコは必死の抵抗を試みている

『お願い…やめて…』
『いやだ』
『…イ…ザーク…?』

こんな強引なイザークは初めてで…
ノリコは目を見開いて…自分組み敷いているイザークを見る
彼の瞳が責めているように見えたのは…
気のせいではないようだった


『おまえの所為だ…』
『…?』


わけがわからず…
訊ねるような視線を送ったノリコにイザークが答えた

『おれ以外の男に抱きつくな…ノリコ』
『え…だって…お兄ちゃ…ん…』

「…ぁ…っ」

イザークの愛撫に翻弄されながらも…
わずかに残っている理性を総動員して
必死に声を上げまいとしているノリコの姿に
イザークの口の端が密かに上がった

『おまえの所為だ…ノリコ』



飲み過ぎた兄が…ベッドに倒れ込んだ途端…
熟睡したのをイザークは気配で悟っていたのだが…

自分の目の前で他の男(兄)に抱きついたノリコが
よっぽど気に入らなかったらしい…
彼女を懲らしめてでもいるかのようにイザークは容赦なく
ノリコの感じやすい所を責めて立てていった




翌朝、ノリコはむくれて…
恨めしそうな目でじ…っとイザークを見て彼を狼狽えさせたが…
またイザークとの旅行だと考えると嬉しくなって…
すぐに機嫌を直してしまった

そんなノリコが愛しくて…
イザークは、おはよう…とその腕に閉じ込めキスをおくった




「えへへ…イザークと温泉入れるの嬉しいな…」
「は…?」

飛行機の中で能天気にそう言う妹を
本当に状況を理解できているのか…兄は呆れたように見る

「あのな…言っとくけど…混浴じゃないから」
「でもでも…貸し切り風呂あるんでしょ」
「ないない…男風呂と女風呂に…
 それぞれ内風呂と露天風呂が一つずつあるだけだから」
「えー…せっかく楽しみにしていたのに…」
「おまえな…」

つまらなそうに口を尖らせたノリコを…じっと見る

これがドラマのキスシーンだけで顔を真っ赤にしていたあのノリコか…
兄はなんだか信じられない…

「結構恥ずかしいこと言ってるって…気づいてる?」
「え…」

きょとんとしたノリコをはさんで向こう側に座っているイザークは
窓の外を眺めているだけで…相変わらず無口だ


かあさんは自分の目で確かめろ…と言ったけど
彼はただノリコの傍にいるっていうだけで…
ほとんどしゃべりもしなければ…表情を変えることもない
ゆうべノリコが甘えたようにおねだりした時…
一瞬だけ微笑んでいたようだったが…
まぁ…ノリコの我がままをすぐに受け入れたくらいだから…
甘いことは甘いのだろうけれど…


「あいつが…ただの無口で無愛想なだけの男だと侮るなよ」

今朝、ノリコたちを一緒に連れて行く…と言った時
父親はやけに真剣に忠告したものだった

「他の何にもほとんど興味は示さない…一見ひどくクールそうだが…
 ただ…典子の事になると…要注意だ」
 


隣でノリコがおしゃべりしているのに
イザークは興味無さそうにそっぽを向いている
いったい何に注意すればいいのか…兄にはよくわからなかった



地方の小さな飛行場に着いた
停めてあった車で兄は二人を温泉旅館まで連れて行った




「…あんた浴衣初めて…?」
「ああ…」

夕飯後…一緒に温泉に入ったイザークに
兄は…これを着ろと浴衣を渡した

「帯を締める手つきがやけに慣れていたから…
 もう何度か着たことがあるのかと思ったんだけどな…」

帯の位置はもっと下…と
ウエストをきゅっと絞ったように巻かれた帯を下の方に結び直した

「帯は中へ入れ込まないで…こうくくるんだ」

そう言いながら…結んでやった時…
イザークの表情が可笑しそうに綻んだような気がした

気のせいだろうか…


「しかし…あんた…腰が細いな…」

肩幅はかなり広い…
風呂場で見たのは…余計なものなど何一つない締まった身体だった


この身体が妹を抱いているのか…
兄としては少々複雑な気持ちになったものだった

それに…
本当にノリコはこの彼を受け入れているのだろうか…と
心配になったのも事実で…

それはさておき…


彼は…ノリコの我が儘に引きずられるようについて来ただけなんだ
やはりこんな細身では…期待する方が無理なんだよな…


風呂場を後にしながら…兄は諦めたように首を振った


「何してるんだ…?」

イザークが女風呂の前で立ち止まり壁に身体をもたれさせた

「ノリコを待つ」
「何もここで待たなくっても…ロビーでビールでも飲んでようぜ」

そんな大きくない旅館なのですぐ先にあるロビーを指で示す

「…いや…いい」

兄は肩をすくめると先に行ってしまった


以前の旅の間…些細な不注意からノリコを失いたくないと…
ずっとそうして守ってきた癖がまだ抜けていないらしい

そんな自分自身を苦く笑いながらも
やはりこうして待っていないと気がすまないイザークだった


「うわぁー…イザーク、浴衣も似合うね」

出て来たノリコが無邪気にそう言って笑う姿にイザークは目を細める

「おまえもな …」
「そ…そぉかな」

今度は照れて頬を染めたノリコの腰に手を廻すと…
愛おしそうに引き寄せた

ほんの数歩で着いてしまうロビーまで二人は…
仲良く寄り添って歩いているところを宿の娘にみつかってしまった


「仲がいいのね…」
「え…やだ沙織さんてば」

沙織は優しい雰囲気の大人しい娘だった
ノリコはなぜ兄がこの女性が好きになったのか…わかるような気がする
きっと…一緒にいると安心できるのだろう…
自分がイザークに寄せる気持ちと同じように…


イザークはノリコから手を離すと
沙織が持っている冷えたビールと麦茶が載っているお盆を黙って取り上げた


「遅いぞ…」

ロビーの長椅子に座っている兄が待ちくたびれたように言った


「温泉どうだった…」

ビールをグラスに注ぎながら…沙織が訊ねる

「すっごくいいお湯だったよ…」
「うふふ…日本の名湯にも選ばれているのよ」

少し自慢げにそう言った沙織の表情が曇った
小さいながらも人気の宿で…沙織は幼い頃から両親を手伝ってきた
それが今…奪われていくのがひどく辛い…

眉を曇らせた沙織の手を兄はそっと握ったが
相変わらず…お気楽な調子でノリコは呟いた

「…やっぱ、イザークと一緒に入りたかったなぁ」
「まだ言ってるのかよ…」

沙織の様子に気づいているだろうに…
ノリコらしからぬ思いやりのない言葉に兄は少しむっとした…その時…


入り口のガラス戸にヘッドライトが煌煌と差し込んだ

「…!」
「来た…」


建物の脇に駐車場があるにも関わらず…
いつも人の出入りを邪魔するかのように玄関前に車を停めるのだ

沙織の両親も奥から出て来て…入り口の方を力なく見ている


「おまえはここにいろ」

イザークが立ち上がって玄関先に向かう
兄と沙織の父親もそれに続いた


2台の車からばらばらと人が降りて来た
どいつもごつい岩みたいな身体のひどく人相の悪い輩だ

中に入るのを邪魔するように立ったイザークに
その中の一人がにやにやと笑いながら訊いた

「誰だ…あんた」
「この旅館に雇われた警備員だ」

はっはっは…とそいつは高笑いをする

「…こいつぁいいや…浴衣を着た警備員かよぉ…いかすぜ」


くっ…と後ろで歯がみした旅館の主にイザークが振り返った

「警備の報酬だが…」
「は…?」

この状況でいったい何を言い出すのか…
主が虚をつかれてぽかんとイザークを眺める

「1時間風呂を貸し切りにしてくれ…」
「へ…」
「毎晩だからな…」

言うだけ言うと…
返事を待たずにイザークは男たちに向かって行った





「きれい…」

露天風呂で…さっきは一人で星を見ていた…
今…イザークの膝に抱かれているノリコには
同じはずの星空が全く違って見える


「とろりとしたいいお湯でしょ…」

お湯を手で掬ってイザークに笑顔を向けた

「お肌がツルツルになるんだよ」
「それは…後で確かめさせてもらう」

イザークも悪戯な笑顔で応えた

「もうっ…イザークってば」

口では怒ったように言うけれど…
甘えるように身体をイザークの胸に預ければ…
顎に指がかかり上を向かされて…唇が重ねられる

今はもう…満天の星も…
とろりとしたお湯も…
ノリコに取ったらどうでもよくなっている




それより…ほんの数分前…

「…」

あまりのあっけなさに…
旅館の主と兄は惚けたように突っ立ていた


ほんの少しだけイザークの身体が舞ったように見えた
気がつくと運転手をのぞく全員が地面に転がっている

「手伝え…」

イザークに促されて…転がっている奴らをかついで車に放り込む

「早く行け…」

言われる間もなく…運転手らは車に飛び乗ると
超スピードでその場からいなくなった



「あれ…もう終わったの?」

青い顔で心配していた沙織母娘をよそに…
ロビーにおいてあった雑誌をぺらぺらとめくっていたノリコは
イザークが戻って来たことに気づいて顔を上げた

「来い…」
「え…」

イザークに腕を引かれてノリコは立ち上がってついて行く
誰もいないことを確かめるとイザークは男湯に入って内側から鍵をかけた

主はあわてて「ただ今入浴できません」と手書きの張り紙を入り口に貼る


それは… 二人が帰るまで毎晩…
一時間だけそこに掲示された



「あいつ…」

飲みかけの麦茶のコップと広げられたままの雑誌が置いてある
ロビーの机を見ながら呻く兄に…沙織が笑って言った

「ノリコさんは彼のこと…本当に信頼しているのね…」
「え」
「だって…ちっとも心配なんかしていなかったのよ…」


違う…信頼とかじゃない…
ノリコは知っているんだ…彼の力を…

だから…なんの躊躇いもなくあいつをここに連れて来た…
あの甘えたおねだりは…おれが負担に思わないよう
気を遣ったのか…というのは少々穿った見方だろうか…

さきほどのノリコらしくない発言も
沙織に「心配するな」と暗に伝えていたのかもしれない…

けれど…


「あいつ…」

兄はもう一度呟く

何度もノリコが一緒に風呂に入りたいと言った時
まるで興味のないような顔をしていたくせに…

断れない状況下でいきなり切り出してくるとはな…
いや…断られることなど露程も思っていない態度だった


『あいつを…侮るな』

父親の忠告が身に染みて理解できたような気がする

『典子の事になると…要注意だ』


この旅館を守るために闘ってくれたのか…
ノリコの願いを聞き入れさせるために闘ったのか…
よくわからないけど…


「まぁ…いいか」

あんだけぼこぼこにやられて…
あいつらがまたやって来るとは思えない

沙織や両親の顔に笑顔が戻っている

理由はなんであれ…彼には感謝しなければな…


兄は殊勝にそう思った…


そう思ったのだったが…



ぐったりしたノリコを抱えてイザークが風呂場から出て来た

「のぼせたの…?」
「今…冷たいお水を持ってくるわね…」

「心配いらん…」

気遣って訊ねる沙織たちに短く答えると…
すたすたと部屋へ行ってしまった


「あいつ…」

三度目の呟きが…呻くように兄の口から漏れた


その後の彼方から
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by 彼方から 幸せ通信