無題2


荷物はすでに纏められていた。

着替えを取りに寝室に入ってきたイザークに泣きはらした顔を見られたくなくってノリコは壁側に目をそらす。


「起きているんだろう…」

イザークはベッドに座ると、ノリコの髪を撫でる。

「ゆうべはつい飲み過ぎた…」


どんなに飲んでも酔いつぶれることはないイザークなのをノリコは知っている。そもそもなぜ、そんなに飲んだのか…羞恥心とも罪悪感とも言える感情が涌き上がってきた。

あたしの所為だ…


ノリコは謝らなければと忙しなく思うが…言葉が出てくる前に

ピンポーン

インターフォンが鳴った。イザークが呼んだタクシーが到着したのだろう…。


結局何も言えなかったノリコの頭に、キスを一つ落とすと

「じゃあな…」

そう言ってイザークは出て行ってしまった。


仕事に出かける彼に、普段だったら抱きついて、何度もキスをせがんでいるノリコだった。



たった五日間の仕事だ…
五日間もあたしたちは会えないんだ…


はぁー…とノリコは今日何度目かになるため息をついた。


イザークが仕事に行っている間実家に戻っているノリコは、イザークと再開する前に、他者を拒絶し自分自身に閉じこもっていた時間を取り戻すかのように居間で両親と一緒に 過ごすことが多くなった。

「典子ったら、ため息ばかりついて…どうしたの…?」

夕飯の間会話も少なく、なにか話しかけられても上の空だったノリコに母親が訊いた。

「イザークさんと喧嘩でもしたのかしら…」

ほんの冗談のつもりで言ったのに、うっ…と唸って俯いてしまったノリコを見て
想定外だった母親は、あらと口を押さえた。

「…喧嘩って言うほど…大したことじゃないのよ…」

顔を伏せたままノリコは消え入りそうな声で答える。

「どうせ犬も食わん…というヤツだろう…」

つまらなそうな顔で父親がガサコソと音を立てて新聞をめくる。

「そうよね…」

母親も頷いてお茶をずずっと啜った。本当に仲がいい二人の間が、険悪になるなんて考えられないらしい。

立木家の居間は、普段のように平和だった




「ねぇ…きみ…」

夕暮れの雑踏の中で肩をつかまれたノリコは、思わずきゃ…っと叫んだ


「ごめん…驚かせてしまったかな…」
「…あれっ…あなたは…」

目の前には、中学生の時憧れていた先輩の大人になった姿があった。

「やっぱり…立木の妹かな…」


あたしのこと…覚えていてくれたんだ…
彼に憧れている女の子は多かったのに…

兄のクラスメートだったその人はスーツ姿がとても似合っていて、相変らずカッコよくそこに佇んでいた。思わずしげしげと眺めてしまうノリコの脳裏に中学生時代が思い浮かぶ。


まだイザークと出会う前のあたし…

あれ…


ノリコは不思議な感じがして思わず意識がそれた。



「少し時間ある?…よかったらお茶でも…」

もの思いにふけってぽーっとしていたノリコに、 先輩が誘う声が聞こえた。

「…はい」

無意識にノリコは答えていた。



「いま仕事でいる先に彼女が出来たんだよ…」
「ほう…それは…」

兄の近況を教えてあげると先輩は面白そうに笑った。
当時の学校で出来事や先生のことなどをおしゃべりして楽しく過ごした。


甲高い声で笑う女性たち…。
やや疲れた顔をしながらそれでも笑顔を浮かべ注文を聞く店員…。
氷がぶつかる音やカップが皿に置かれる音・・・。
夕刻のカフェはやけに騒がしい。


そんなざわめきの中に、先輩の訊ねる声が聞こえた。

「立木さん…彼氏はいるの…?」

今までの話題とは違う、突然の問いだったが、ノリコはほほを染めるこくりと頷いた。

「そっかぁ…随分きれいになったのはその所為かな…」

くすっと先輩は笑って、ノリコは少しどぎまぎしてしまう。

「せ…先輩だって彼女くらいいるんでしょう」
「いや、いないよ」
「でも…絶対すごくモテますよね…」
「そうだね…
 女の子からはいろいろモーションかけられているかもしれないな…」

あっさりと認めた先輩をノリコは相変らずだなと思う。中学生の時から妙にさめていて、飄々としていた先輩だった。その辺は全く変わっていないらしい。

「先輩ってば…本気で誰かを好きになれないんですか…」
「今までは誰も…だが…」

先輩はそれまで浮かべていた柔らかな笑顔を顔から消し、急に真顔になった。

「君だったら、本気になれそうな気がするな…」
「…え」

ノリコは一瞬目を見張ったが…すぐに表情を崩して、ニコっと笑う。

「やだぁ…先輩ったら冗談ばっかり…」
「あはは…」

朗らかに笑った彼が、口元に苦笑を浮かべたことにノリコは気づかない。


「そう言えば妹が言ってたけど…明日、同窓会だとか…」
「あ…はいそうです」

先輩の妹はノリコと同じクラスだった。


「あの頃の君を好きだった奴ら…きっと悔しがるだろうな」
「え…」

ぽかんと首を傾げるノリコに、先輩は苦笑を禁じ得ない。


この子はきっと、自分がどれだけ魅力があるかわかっていないタイプだな…とそう思う…少しだけ…ノリコの彼氏に同情した先輩だった。


しばらくおしゃべりしてから、ノリコは先輩と別れたのだった。




『ノリコ…』

寝ようとベッドに入ったノリコに、いつものようにイザークが騙りかけてくる。

あれからずっと気まずいままに、当り障りのない会話をしていた。けれどノリコは今日、思いきって言ってみたのだった。


『あのね…前に話したことあるでしょ…中学の時に憧れていた先輩…
 今日彼に偶然会ったのよ…』

その後の彼方から
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