count down kiss


器用なものだな…

庭先から父親が感心したように駐車場の屋根を見上げた



数年前に設置したそれは確かきれいに輝く銀色だったはずが
今ではすっかり汚れて暗い灰色になってしまっている

いつか洗わなくては…と思いながらも後回しにしてしまって
結局大晦日の今日、腹を括ったわけだが…

脚立の上からでは、二台分の幅のある屋根の端の方にしかブラシが届かず
かといってアーチ状になっている屋根の上に乗るのは危険で
母親と話してやはり業者に頼もうかということになった

汚れたままで年越しか…

自分の無精な所為なのだが…
父親がひどく不本意なまま家の外回りを掃除していたところに
イザークがやってきた



彼と一緒に新年を迎えたいというノリコの気持ちはわからなくもないが
門限を守るという約束を半ば強引に破ったイブの日から
まだ一週間も経っていないので、父親はなかなかうんとは言えなかった

「うちで一緒に過ごせばいいじゃないの」

母親が出した折衷案で折り合いをつけ
イザークが午後、ノリコの家に現れたというわけだった


近頃イザークのためにと料理を始めたノリコは
おせち料理を作る母親の手伝いをしていた



…ったく…こいつときたら…

セータにジーンズという軽装が逆にスタイルの良さを強調している
最初に見たのが高給そうなスーツにネクタイ姿だったせいか
服装にはこだわるタイプかと思っていたが
普段の彼はごくシンプルな格好をしている

ノリコが言うには柄物と化学繊維が嫌いで、あとはどうでも良いという事だ

ま…何を着たって様になるからこだわる必要もないんだろう
ノリコの服にはやけにうるさいらしいが…



「駐車場の屋根をきれいにしてくれるとありがたいんだがな…」

なんとなく面白くない父親は、イザークが手伝いを申し出た時
無理にとは言わんが…とちょっと意地の悪い気持ちで言ったのだった


イザークは脚立からひらりと屋根の上に乗ると、アーチの傾斜を物ともせず
あたかもまっすぐな地面に立っているかのように屋根を洗い始めた



「あらあら…大丈夫なの」

皮底の靴はひどく滑りやすそうで…
ホースで水をかけながら、すたすたと濡れた屋根の上を歩いているイザークを
様子を見にきた母親が心配そうに見上げた

父親は…というと、最初は感心していたが
相変わらず無愛想な顔で淡々とこなしているイザークの姿に
あいつが足を滑らせて慌てるところを見てみたいものだ…
などと不謹慎なことを考えている



「うわーっ、面白そう…」

ノリコがやってきて、羨ましそうに叫んだ時は
両親は呆れたように首を振った

「来るか…?」
イザークが屋根の上でしゃがんで手を差し出した

「うん」
「危ないわよ…典子」

止めようとする母親に、大丈夫だから…と笑って脚立に上ると
ノリコはイザークの手に自分の手を委ねた


「きゃぁっ…」
「典子っ!」

案の定…イザークに引っ張り上げられて屋根に足をつけた途端
つるりとみごとに足を滑らし、両親は青くなって叫んだが
イザークがすかさず反対の手でノリコを抱えると
そのままアーチの天辺にひょいっと立たせた

「やだ…こんなに滑るなんて…
 イザークったら…平気で立ってるだもの…」
「典子…」

ほっとため息をつきながら娘の無鉄砲な言動に
今度はやれやれといった風情で首を振る

言いがかりともいえるような事を言われてるにもかかわらず
イザークは蕩けそうな微笑みを顔に浮かべノリコの後ろに立つと
また滑らないように腰に手をまわし彼女の身体を支えた

「二階から見るのと全然違う…」

足を滑らした事はとっくに忘れて
目の上に手を当ててノリコは楽しげに周りを見渡した

「気に入ったか…?」
「うん…! イザーク…ありがとう」

顔だけ振り向いて無邪気に笑うノリコに
イザークは思わず…顔を寄せようとする…が…

「典子…」
コホンコホン…咳払いとともに父親が重々しく三度目の名を呼んだ


駐車場の屋根にぴったりと寄り添って立っている二人の姿はかなり目立って
近所の家々の窓から幾つもの顔がのぞいていている
散歩中の人まで立ち止まってぽかんとそんな二人を眺めていた


「屋根掃除の邪魔をしているぞ…」
「そろそろお煮染めが炊きあがる頃だから…」

両親に急かされて、イザークは渋々ノリコを抱えると
ストンと脚立の上に下ろした


「彼氏かい…?いい男だねぇ」
「え…やだ…もう!おじさんたら…」

近所の知り合いに声をかけられたノリコが
照れて赤くなった顔でそう言うと、家の中に消えて行った

イザークはまた無表情な顔に戻って屋根を洗い始め
父親はなんだかひどい脱力感に襲われながら庭木の手入れをする

ノリコと母親は仲良くおしゃべりをしながら
おせち料理の仕上げにかかった



しばらくして…異変は起こった


「!」

いきなりイザークは手にしていたホースとブラシを投げ出すと
屋根から飛び降り、家の中へと駆け込んで行ってしまった

「うわぁぁ…」

水が勢いよく出ているホースが上から振ってきて父親は全身水浸し…
せっかくたき火をしようと集めた枯れ葉も濡れてしまった

「な…なんだ…いったい…」

ぽたぽたと身体から水を滴り落としながら
慌てて蛇口をひねって水を止めた父親はくしゅんとくしゃみをした



「痛ッ…」

ノリコが指先を口へ持っていった

「まあ…切っちゃったの?」
「大丈夫…ほんのちょっとだから」

流水で傷口を洗って、血がまだ止まらないので絆創膏でも貼ろうかと振り返る

「きゃっっ…」

眉間にしわを寄せたイザークが目の前に立っていた

「あれほど気をつけろと言ったのに…」
「だってぇ…」

青くなったノリコは肩をすぼめ、上目遣いでイザークの顔を窺う
イザークはそれ以上何も言わずノリコの手を取ると
傷口にそばにあったキッチンペーパーをあて、上から力強く押さえた

「…」


「お料理していれば怪我や火傷は日常茶飯事で…」
「お母さん…!」

母親が救急箱から取り出した絆創膏を渡しながら笑って言いかけた言葉を
ノリコが慌てて遮ったが、遅かったようだ


「もう料理はするな…」

ノリコの指に絆創膏を巻いたイザークが包丁を手に取って
ノリコが切っていた野菜を見よう見まねで切り始めた

意外と器用である

あたしより上手かも…

しゅん…と落ち込んだノリコだったが
それでも…と頑張ってイザークに抗議を始めた

「で…でも…最初はいっぱい失敗して…そうしないと上手くならないもの…」
「おまえが痛い思いをしてまで作ってもらっても嬉しくない」
「やだっ…そんなのいやだよ…」
「ノリコ…?」
「あたしはイザークにお料理してあげたい…絶対にそうするんだから」


「どうした…」

びしょ濡れの父親がキッチンを覗くと
今にも涙が溢れそうな目で、それでもきっ…と眉を上げたノリコと
包丁を手に愁眉を寄せたイザークが睨み合っている

「まあ…風邪を引きますよ」
「喧嘩か…?」

面白そうに訊ねた父親に、それが…と母親が事情を説明する

「犬も食わんというやつだな…」

はぁ…と父親はため息をついて
母親に促されるまま着替えに行った


ノリコに泣きながら懇願されたイザークが結局折れて
気をつける…と何度もノリコに誓わせてから包丁を返した

心配そうに何度か振り返りながら
イザークはキッチンを出て庭に戻って行き
ノリコは包丁を手に、すうっと深呼吸するとまな板に向かった



立木家は平和(?)に除夜を迎えようとしていた





夕飯をすませた後は居間に座ってテレビを観たり
おしゃべりしたりして過ごしている

先ほどの諍いはもうすっかり影を潜めて
床にちょこんと座るノリコの傍らにイザークが片膝立てて座り
仲良く並んでテレビを観ている

イザークは特にテレビ番組に興味を示すわけではなく
楽しそうにしているノリコを眺め
ノリコのおしゃべりに耳を傾け
時々短く相づちを打つといった具合だった


二人の背後にあるソファに座っている父親は
ノリコの方に向けてるイザークの横顔をじっとみつめた


出会ったはじめは…無口で無愛想で…
機嫌が悪いのか…そうでないのか…
何を考えてるのかさっぱりわからなかったものだが…

いや今でもよくわからない


娘が恋した男はただ者ではなかった

最初の印象は…類い稀な容姿を持つ青年…だった
初めてその姿を玄関先で見た時の衝撃は忘れられない

だがそれは始まりでしかなかった

彼自身が語った経歴…
飯沢から聞いた話…
そして彼の引き起こした事件など

衝撃は形を変え次々と押し寄せてきた

このイザークという尋常では計り知れない青年と
ごく平凡な女の子でしかない典子との関係が
不思議で仕方がない

彼の口から語られた典子への想いを
簡単に信じてしまっていいのだろうか…

小説家のたくましい想像力のせいか
娘の父親の狭量さからか
以前裏切った娘に甘い罠をしかけ
復讐しようとしているのではないかとすら考えたものだ


だが…

あいつと知り合って…まだ半月ほどだが
いやでも気づいてしまうことがある

はたからすればその態度や言葉遣いから
典子が彼に唯々諾々と従っているように見えるだろう

実際のところは…
時々、おい…と突っ込みたくなるほど…
あいつは典子にめちゃくちゃ甘い
過保護を超えている…

今日の騒ぎとて、原因を知ればあほらしくて
勝手にやってくれと放っておくしかない
結局は典子の主張が通ったようだし…

それに…

最初は偶然かと思った…
だが気のせいとも言えなくなるほど…何度か目の当たりにすれば…
今では確信が持てる

あの無愛想な表情…仏頂面ともいえるそれが
典子が傍にいれば、瞬く間に消えてしまう

純真な想いさえ漂わさせて
あいつはノリコを慈しむように見る

典子に心底惚れているというのは本当だろうか




「えーっ、この人まだ出てるんだぁ」

大晦日恒例の歌番組を観ていたノリコが素っ頓狂な声をあげて
父親の思考は途切れた


「?」

「あたし…中学生の頃…この人好きだったんだ…」

不思議そうな顔をするイザークにノリコが説明した

「そうそう…典子、結構彼に夢中だったよね」

イザークの表情が曇った事に気づいていない母親が笑って応えた


あの事件以来…歌番組どころか世情から遠ざかっていたノリコにとって
懐かしい…という思いがこみ上げただけだったのだが…


「おまえ…この男が好きだったのか…?」

低く抑えた…それでいてどこか責めるような口調だった

「好きって言ったって…アイドルだってば…」
「アイドル…?」

よくわからないと言う顔をしたイザークに
ノリコはえーっと…どう言ったらいいのか…考えて…

「ただ憧れる…ていうか」
「憧れる…?」
「だからね…カッコよくって人気があるテニス部の先輩がいいなぁ…
 っていうのと同じなのよ」

イザークが真顔なのに今更ながら気づいたノリコは
焦りながら一生懸命誤解を解こうと試みるが…
どうも墓穴を掘っているようだ…

「では、この男がつきあいたいと言ったらおまえはそうしていたのか…?」
「やだ…ありえないって…」
「ありえたら…どうした」

イザークに追求の手を緩める気はないらしい…

「で…でも…実際会ってみたら…
 テレビとは全然違ってがっかりしちゃうかも…」
「…?」
「すっごく気さくな感じだけど…ほんとは無愛想で感じ悪いとか…」
「無愛想な男が嫌いなのか…」
「ち…違う…!そういう意味じゃないったら…」



妬いているのか…

最初はイザークがからかっているのかと思ったが
どうやら本気らしい

父親は不思議な光景を見ているような気になった

あれだけの容姿を持ち
ハイジャック犯などあっという間にやっつけてしまう奴が
アイドル歌手を好きだと言ったノリコに嫉妬し
真剣に問いつめている



「その…先輩という奴も好きだったのか…」
「だからぁ…憧れだって…イザークだって誰かに憧れたことないの?」
「ない」

瞬即で答えられて、うっ…とノリコは言葉に詰まる

「ノリコがそんなに惚れっぽいとは知らなかったな…」
「もう…誰だって好きなタレントくらいいるよ」
「おれが好きになったのはノリコだけだが…」
「あ…あたしだって…イザークだけだよ」
「だが…あいつも好きだったと…」
「違うってば…好きって言ったって…全然違うのよ」
「どう違うんだ…」



「の…典子」

背後から聞こえた苦しげな声に、はっと振り向けば…
涙を流して笑っている両親の姿が目に入った

「も…もういい加減に…」
やめてくれ…と苦しそうにお腹を抱えて父親が頼んだ

「…」
「…」

それ以上続けられず黙ってまたテレビに視線を戻すが…
明らかに機嫌が悪そうなイザークの気配が伝わってきて
ノリコはふっとため息をついた


『本当に…好きなのは、イザークだけなんだから…』

ノリコが送ってきた言葉にイザークは片方の眉を上げて答えた




「もうすぐね…」

こうして皆が揃って新しい年を迎えるのは
あの事件以来初めてだったから…

ちょっとした口喧嘩すらも好ましく思えるほど仲の良い二人を眺めながら
本当に良かった…と心から嬉しくて
母親は浮き立つ気持ちを抑えられない



歌番組が終わってテレビでカウントダウンが始まる

「…8、7、6…」


その時…

ぷつんと照明とテレビが消え、部屋は闇に包まれた


無造作に抱き寄せられ
思わず声をあげそうになったノリコの口が塞がれる


「停電…!?」
「懐中電灯は…」


慌てる両親の声を聞きながら
唇をひどく乱暴に奪われて…ノリコの身体から力が抜けていく

どこかで歓声とクラッカーが鳴る音が聞こえた

年が明けたんだ…
ぼんやりと…頭の片隅でノリコは新しい年の訪れを認識するが
口内を蹂躙するかのような彼の舌の動きに意識さえも奪われそうで…



抱き寄せられた時と同じように、唐突にまた身体を離された

電灯が灯り…再びついたテレビでは
各地で迎えられた新年の様子が映し出されている

「ああ…良かった」
「典子…?」

床に手をつき、かろうじて身体を支えているノリコに
どうしたんだと、心配そうに両親が訊ねた

「な…なんでもない…急だったんで…びっくりしただけ…」

イザークはかすかに震えているノリコの身体を支えるように腕を伸ばすと
そのまま抱き上げ膝の上に乗せた
口元に悪戯な笑顔が浮かんでいる

両親の目の前で…
恥ずかしいとは思いながらも抗う力をなくしてしまったノリコは
イザークのなすがままに身を任している


目のやり場に困りながら…
母親はそれでもにっこりと笑って言う

「明けましておめでとう…」

「おめでとう…」

両親に向けて新年の挨拶をしたイザークが
腕に抱いているノリコに目を落とした

「ノリコ…」
「イ…イザーク…明けましておめでとう」

頬をうっすらと染めたノリコがイザークを見上げた
先ほどイザークから与えられた激しい口づけの余韻が未だ残っているのか
潤んだ瞳が静かに瞬いている

「ああ…おめでとう」


おまえを…おまえの心をおれだけで一杯にしてやる
他の男の立ち入る隙間もないほどに…



しばらくそうして見つめ合っていた

母親に促された父親がいやいやながらも部屋を出て行ったことに
ノリコは気づいてはいたが…
おやすみと言うことすらできないほどに
イザークの視線に囚われてしまっていた



「…イザーク…あたしの事…まだ疑ってるんでしょ…」

やっと視線を外すとノリコはイザークの胸にこつんと頭を寄せ目を閉じた

「いや…」

そう言って、イザークはノリコを抱く腕にぎゅっと力を込めた…

「でも…嬉しい…」
「ノリコ…?」

くすっとノリコは微笑う…

「妬いてくれたんだ…」
「…」

返事はなかった

見なくてもわかる…
きっとイザークは照れて…顔を赤らめている


ノリコはイザークの鼓動に耳をすませながら
新しく迎えた年に思いを馳せた

年越しは…イザークの胸の中で…
口づけられて迎えたんだ…

「今年はきっと…良い年になるね…」
「ああ…」

なんだか…泣きたいほどの幸福感に包まれた


「ありがとう…イザーク」

気がつくと…彼の手が顎にかかり上を向かせられて…
今年二度目の口づけが今度は優しく…静かに落とされていった




その後の彼方から
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