ホワイトデー前夜



監視が解かれてから尾行の心配もなくなったイザークは車を手に入れ
今日は休暇中のノリコを連れて郊外へと向かった


別に行くあてがあったわけではなかった
周りの景色が山に囲まれてきたので高速を降り
適当な所で車を止めると、あとは自然の中を歩いていった

ハイキングと言うほどではない…

春の野山にまだ緑はそれほど青くはなかったが
花や鳥などを見かけると立ち止まって嬉しそうに眺めるノリコを
イザークがやはり嬉しそうに見つめるという
そんな散歩の延長のような道行きだった

車が通れないほど細い道に入って行った
風景には看板や電線などが時折目につき少し興ざめさせられるが
人通りのほとんどない道を二人っきりで歩いているのがただ懐かしくて…
ノリコは自然と ステップを踏むように楽しげな足取りになる


「きゃぁっ…」

脚を滑らせたノリコをイザークが後ろから抱きとめた

「はしゃぎ過ぎだ…ノリコ」
「だって…イザークとこうして歩くの…久しぶりなんだもの」

街中を歩くのとは全然違うよね…などとおしゃべりを止めないノリコを
イザークは抱きしめたままなかなか離そうとしない

「また…野宿したいなぁ…」

旅から旅の毎日だったけど
イザークと一緒にいられてすっごく幸せだった
あの頃の自分たちが思い出されて…

遠い目をしてうっとりと微笑んだノリコは
イザークの顔が切なげにゆがんだのに気づかなかった


「まだ風が冷たい…朝晩は冷える…」

てっきり、そうだな…と言ってくれるものと思っていたので
ノリコは振り返って不思議そうに小首を傾げる

イザークはいつもの無表情に戻っていた


あの世界での旅に思いを馳せた時
なぜかノリコの泣き顔が頭に浮かんできた
その瞳からぽろぽろと涙をこぼしていたノリコの姿を
イザークは何通りも思い出せる

おれはいったい何度彼女を泣かせたんだ…

もっと優しくしてやれば良かった…と何度も後悔した時の
裂かれるような胸の痛みが蘇ってきてイザークは震えるほどの不安を覚えた


いかん…

気がつくとノリコが心配そうに自分を見ている
イザークは心の中で舌打ちをした


いつだってノリコには笑っていて欲しいのに…


「たき火が出来ないだろ…」

ノリコの耳元に顔を寄せてイザークは囁いた


『山火事注意!』『たき火厳禁』

そんな看板があちこちにあった


「あ…うん、そうだね…」

一瞬イザークの気から憂いを感じたノリコだったが
少しふざけたようにそう言うイザークに安心してにっこりと笑った


「暖かくなったらキャンプしようよ…」

イザークは約束する代わりにノリコをぎゅっと抱きしめた



彼女の涙そっくりなペンダントがノリコの胸元で瞬いている

もう二度と泣かせない…

そんな思いを込めて
イブの夜にノリコの首にかけたんだ

もう二度と…
絶対に…





カッカッ…

マンションの廊下を足早に歩く音が響いている


ノリコを家まで送ったイザークが
エレベーターを降りて部屋に向かっていた

鍵を差し込もうとしたイザークの眉がきっ…と顰められ
そのままドアを開けて部屋へと入って行った


「やあ…」

居間のソファにベートがニコニコと笑いながら座っていた


「あんたのやってることは犯罪だ…」
「…留守だったからね、外で待ってるのもなんだったし…」
「寝室にいたらチャイムを鳴らしてもおれは応えんぞ」

十一時がノリコの門限なんだろ…とベートが片目を瞑って笑う

「この時間しかさ…ひとりでいる君をつかまえられないからね…」
「何の用だ…」



この男は変わったな…

ベートは心中大いに感心していた

以前のイザークだったら問答無用でおれを放り出していただろう
おれがなぜここにいるか…など興味の欠片もみせずに…

ずっと一緒に仕事をしながら彼に感情というものがあるのか
疑問に思っていたものだったが…



「まぁ…座ったら…」

持参した酒をベートが勧め
イザークが嫌そうな顔で渋々応じた



イザークが突然日本に行ってしまった時はびっくりしたものだった
そしてその後一緒に仕事をした時はもっとびっくりした
 
ベタベタとくっついてくる王妃に露骨に顔をしかめるどころか
一人で何か思いにふけっている時にあの仏頂面がふ…と綻ぶことすらあった

心を取り戻した男か…
子供の頃…聞いた童話にそんな話があったっかな…

全てはノリコという恋人が出来た所為らしかった…



ベートは、相変わらずの仏頂面でグラスを口に運んでいるイザークを見た


「明日…いやもうすぐ今日か…何の日か知ってるかい…?」

なんだ…という顔をイザークがする


やっぱり知らないんだな…

ノリコが自分で話すとは思えなかったし
イザークがその知識を得る機会はほぼ無いだろう…
そう考えていたベートは、したり顔で説明を始めた


「日本には面白い習慣があってね…
 バレンタインデーには女性がチョコを贈るだろ…
 明日はホワイトデーと言って…男性がそのお返しをする日だそうだよ…」
「お返し…?」
「…そう、何か甘いもの…
 マシュマロやキャンデー、クッキーなんかを贈るらしい」

イザークがふん…と鼻を鳴らした

「では明日…何か甘いものをノリコに買ってやればいいわけだな…」

教えてくれたことには感謝するが…
なぜこんな時間にわざわざ…

責めるような視線を送ってくるイザークに
まあまあ…とベートが手で制した

「ノリコから…バレンタインには何を貰ったんだ…?」
「…チョコレートケーキだ」
「もちろん、手作りだったんだろう…?」
「…ああ」

我が意を得たり…得意げな表情でベートはポンとイザークの肩を叩いた

「手作りには…手作りでお返しだね…」





「子供の頃、しばらく世話になった家庭の母親が…
 性格は最悪だったんだが、彼女の作るクッキーは最高でさ…
 おれ、しょっちゅう手伝わされたんだ…」


腕を組んで立っているイザークが
食卓に並べられた材料を見下ろしていた顔を上げた

「…では、あんたが作ってくれるのか…」

ちちち…とベートが指を振った

「それじゃぁ、手作りでお返しにならないだろう」

渡したエプロンをイザークに突き返されて
服が汚れてもいいんだな…などと一人ぼやきながら
今度はボールと泡立て器を渡そうとした

それも受け取ろうとしないイザークにベートは咎めるように言う

「君はノリコの喜ぶ顔が見たくないのかい…?」
「…」
「高額なお菓子よりも、手作りの方が何倍も嬉しいもんだよ…」


イザークの頭の中を
ノリコのケーキと麗美さんの高級チョコがよぎった

いや…例え買ったものであったとしてもノリコがくれたのなら…

そう思うが …


『イザークは甘いの好きじゃないかな…って思ったからね
 お砂糖は控えめにして…ビターにしてみたのよ…』

そう説明するノリコの姿がひどく可愛らしくて…
ケーキを焼くのを失敗したという話でさえ
自分の為に彼女が一生懸命してくれたことが嬉しかった

…それも事実


それに…

『うわぁーっ』

目を大きく見開いて驚くノリコの姿が見えるようで…

彼女がそれで少しでも笑ってくれるのなら…



「わかった…」

ため息をつきながら…
イザークは不本意そうにベートから道具を受け取った

「何をすればいい…?」




「いやぁ…さすがだね、イザーク君は…」

ベートは顎をさすりながら感心したように
イザークの手元をのぞき込んだ

「ハンドミキサーがないとわかった時はどうしようかと思ったんだが…」

ひどく楽しそうに褒めるベートを
バターと砂糖をかき混ぜているイザークがじろりと睨んだ

「あんたは…何もしないのか…」
「おれは…ほら、ハナから手作りケーキを貰ったわけではないし…」

バレンタインデーはイザークがまだ働けなかったので
ベートは一人で仕事に出かけていて、いなかったらしい…
華もそのへんはあまりこだわらない性質だった


「卵を一個ずつ割り入れて…
 白く…クリーム状になるまでね…頑張ってね」
「…」


「うん…もういいよ、イザーク
 二種類作るから…半分こっちのボールに入れて…」
「…」


「ああ…粉を入れたらこねないで…さっくりと混ぜるんだよ」
「…」


「じゃぁ…丸めて並べていって…大きさと形は揃えてね…」
「…」


口をへの字に曲げたイザークが
言われるがままに黙々と手を動かしている姿が可笑しくて
ベートは先ほどから吹き出したいのを懸命にこらえていた


「…君…結構、こういうことも得意なんだね…」

くっくっ…と笑いがどうしても漏れてくるので
ベートは手で口元を隠している


「どう見ても…ノリコ一人には量が多いようだが…」
「あ…半分はハナにやるから…」

並べ終わった天板を憮然とした表情で見ていたイザークが
ぎろっ…とベートを睨みつけた

「だったら何故…あんたも手伝わなかったんだ…」
「おれ…材料買ってきたし…作り方教えてあげたじゃない…」
「人に作らせたものをもらってハナが喜ぶかな…」

大丈夫…と言うようにベートはイザークの肩をポンポンと叩いた

「きっと面白がるよ…おれが作ったっていうより喜ぶさ」
「…」





「ひざまずいたんだってねぇ…」

焼き上がりを待つ間…また居間のソファに腰を落ち着けた


「おれも見たかったな…」

作業の最中はイザークの機嫌を損なわないようにこらえていた笑いを
やっと解禁してベートが可笑しそうにくっくっ…と笑った


「好きな女にひざまずくのがそんなに変か…」

いつもの無表情でグラスを傾けながらイザークがしれっと言った

「まあ…滅多にしないよね…」

ベートもグラスを持ち上げると、ふと真顔になった


「…好きな女か…」

その言葉を口の中で転がすように繰り返してみた


ニューヨークの闇社会を牛耳るマフィアや国際的な暗殺集団が
その名前を聞いただけで青くなる男だ

モデルやダンサー…有名女優にポップスター…果ては一国の王妃まで…
奴に首っ丈の女を挙げたらきりがない

そんな奴がひざまずくことすら厭わない程ノリコを好きだと言う


「…そこまでノリコのことを…おれ、信じられないな」

ノリコは際立った美貌や個性の持ち主ではない
明るく素直で、その笑顔に癒されそうな…ごく普通の女の子だった

二人の間に接点が見つからずに
ノリコと初めて会った時は不思議に思ったものだ

いや…いまだに不思議に思っているから
その疑問がついうっかり口を衝いて出てきてしまった


ローテーブルを挟んで向かい合って座るイザークが
突き刺すような視線をベートに投げかけてきた

「あんたに何がわかる」

ぞっとするほど冷ややかな口調だった


しまった…怒らせたか…


「はいはい…わかりませんよ」

へらへらと笑いながらそう言うベートから
プイ…とイザークは顔を逸らした


ハナはつい最近まで、イザークはなんでも自分の言いなりになるノリコを
傍に置いておきたいのだと憤っていたものだった


違う…

口にこそ出さなかったがおれは彼女の考えを否定していた

そういう存在を必要とするのは
自分の弱さから目を背けようとする卑怯な人間だろう

イザークはそんな男ではない…


それに…

落ち込んでいるノリコを必死で慰めていたな…
ノリコに注意されておろっとしていたっけ…
ハナの家でいちゃついていた時は、演技とはいえ結構嬉しそうだった

今日だってノリコの喜ぶ姿が見たくて慣れないお菓子作りを
期待以上に真面目にやってくれた

そんなイザークの姿は…


まるで恋愛に不慣れな十代の少年のようじゃないか…


向かい側に座っているイザークをちらっと盗み見た
相変わらずの仏頂面の上に純真な少年の面影を重ねてみる


「?」

ぶっと突然吹き出したベートにイザークは怪訝そうな顔を向けた

「…い…いや…あの…」

肩を震わしながらベートはしどろもどろで懸命に言い訳を探した

「…ハナに…今日の君を…見せたかったな…と…」

わけがわからん…というようにイザークは眉を潜めた

「彼女…君の事…なんだか誤解しているようだからさ…」
「あんたがどうせ誤解させるようなことを吹き込んだんだろ…」

え…と笑いを止めてベートが眉をぴくりと動かした

「心外だな…おれがそんな男にみえるのか」
「おれはなんと思われてもいい…」

べートの発言を無視したイザークが言葉を続けた

「だが…ノリコが困るような真似はやめて貰いたい」
「だから…おれは…」
「あんたの彼女だろ…」

イザークがびしっと言ってベートはぐっと言葉を呑み込む

「あまり余計なことをするなと言ってやれ」

どうやら灰島の気持ちを知っているハナが
パーティにノリコを誘ったのが気に入らないらしい

「ノリコと違って、ハナはおれの言うことを素直に聞かないんだよ」

本当の所は…あのプロポーズの所為でハナの誤解は八割方解けている
吹き出した言い訳にあんな事を言ってしまった自分が悪いのだが…
一方的に文句を言われてベートは次第に意地になってきた


「ノリコだって気に入らなければ文句も言うし、違うと思えば反論する 」

無表情に淡々と…イザークは言葉を紡ぐ

「あんただって見ていただろう…」

そりゃあ、おれは知ってるさ…
だが、ハナは…そんなイザークを見る機会が無かっただけだ…

「そもそも君の普段の態度が問題なんだ…
 おれの言うことよりハナは自分で見たことで判断するから」
「あの夜…ハナの目の前でノリコに充分優しくしてやったつもりだったが」
「あれは演技だったんだろう…」
「演技であんなことはできん」

やっぱり…そうか

推測が当たったことは嬉しかったが
まだ釈然とはしなかった


「大体…君は極端すぎるんだよ…
 普段クールなくせに唐突にひざまずいたり…」
「プロポーズしろと言ったのはハナのほうだ」
「だからって…何も…」
「おれがひざまずくと何か問題でもあるのか…」

お互い…段々とヒートアップしてきたが…

「あるね…灰色熊が突然レース編みし始めたようなものだからな」
「なんだ…その例えは…」


こいつ…ノリコのことになるとよくしゃべるな…


やけに会話が続いてることにベートは気づいた

イザークとの会話は普通二三回言葉を交わすだけで終わってしまうのに…

ちょっとした感動さえ覚える



「まぁ…イザーク君も一生に一度のことだったわけだし…」

急に気を良くしたベートが
突っかかるのを止めてにっこりと笑ったが…


「一度じゃない…」
「へ…」

思いがけないイザークの言葉にベートは面食らって間の抜けた返事をした

「…どういう意味だ…」

イザークは指を三本立ててベートの顔の前に突き出した

「三度目だ…」
「…」

ぽかんとしたまま言葉に詰まっているベートに
イザークは口の端を持ち上げると悪戯っぽく笑った

「どうやら灰色熊はレース編みが得意なようだ」


イザークがジョークを言っている…


自分の耳を疑っていたベートがはっと気づいて台所の方に目をやった

「しまった…!」




慌ててオーブンを開けたがすでに遅く…

クッキーは焦げて嫌な臭いを発していた

「あちゃー」

額を手で押さえたベートががっくりと肩を落として呻いた


「…」

イザークは黙ったまま見下ろしている

おれもか…ノリコ…



「バターがもうないな…」

そう呟いたベートにイザークがひどく嫌そうな顔を向けた

「まさか…もう一度おれにやれと言う気か …」
「君はノリコを悲しませたいのか…」

その言葉に反応するかのように、イザークの顔にさっと憂いが浮かんだ

「せっかく作ったのに失敗して捨てた…なんて聞いたらさ…
 顔では笑うかもしれんが絶対心の中で泣くだろうね…」

「…」





その後、ベートは24時間スーパーに足りない物を買いに走り
イザークは再びお菓子作りが始められるように
ボールやら泡立器をきれいに洗い始めた

男たちの夜はまだ終わりそうにない…



その後の彼方から
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by 彼方から 幸せ通信