ありがとうの言葉


「あ…あ…りひゃ…とぉ」
「ありがとう」

イザークはノリコの言葉を訂正すると背を向けて歩き出した。買ってもらったかばんを両手で抱きしめながら、ノリコは慌てて後を追った。

『だめだなぁ…一番大事な言葉だからって練習したのに…
 いざとなると上手に言えない』

日本語でそうつぶやいてから、ノリコは「ありがとう」を何度も小さな声で繰り返してみる。

「ありひゃ…ありがと…ありがとう…あ り が と う…」
「そう何度も礼を言われるほどのことをした覚えはないが…」
「え…?」

ちらりと後ろを見れば、ノリコが大きな目を見開いて首を傾げている。

「いや…なんでもない」

ったく、俺は何をしてるんだ…
言葉の通じない娘に向かってくだらない冗談など言って…

舌打ちしたいような気になってイザークは目をそらすとまた前を向いた。


イザーク、何を言ったんだろう…

気のせいか振り向いた時のイザークは微笑っていたような気がする。
普段めったに変えることない不機嫌そうとも言える表情を、ノリコが上手に言えて嬉しくて笑った時などにふっと緩めてくれることもある。でもさっきのはちょっと違った。なんだか面白そうで…そんなイザークはじめて見たかもしれないとノリコは思う。


異世界へ来てからもう一週間が経った。まだ単語をいくつかと挨拶などしか覚えていない。発音も変だからイザーク以外の人にはわかってもらえないこともある。それでも来た時に比べれば身振り手振りも交えてかなりの意思の疎通が出来るようになったかな…とノリコは思う。

それにしても…ノリコは歩いているイザークの後姿をじっと見る。たまたま通りかかってあたしを助けてくれた人…どこかに預けられるのかとも思ったが、なぜか自分を連れて歩いてくれる。ご飯を食べさせてくれるし、服や身の回りの物も買ってくれた。出会った時はひとつだけ持っていた荷袋も今は二つになってる。ノリコだとひとつだけでも両手で抱えなければいけないくらい重いのに、軽々持ってすたすたと歩いて行く。


なぜ…あたしの面倒を見てくれるの…

ノリコは彼がそうしてくれることがすごく嬉しかった。彼が傍にいてくれるというだけで、安心していられる。でも…それ以上に不思議な気がする。なんの縁もない人なのに…

なぜ…


馬を預けてから宿まで歩いていく途中だった。

多分お宿の女将さんにいわれたのか、イザークはノリコに細々としたものを買い与えていたが、それは全部イザークの持っている荷袋の中にある。ちょっと風が強いから手鏡を見て櫛で髪をとかしたいとか…唇ががさついているので軟膏みたいなリップクリームを塗りたいとか…いちいちイザークに言わなければ…と言うか身振り手振りで説明して渡してもらわなければならない。ポケットはハンカチ一枚でいっぱいだったし…宿でも彼の荷物を勝手に掻き回すのは遠慮して、着替えすらも彼から渡される。ちょっと不便かな〜などと思っていたノリコは、途中にあったお店の前で足を止めた。目に入ったのは、イザークが持っているのよりはふたまわりくらい小さなかばん…房飾りがついているところを見ると女物だろう…

「欲しいのか…」
「え…」

気がついた時にはイザークはすでにそれを手に取っていた。

『でもでも…』

もうイザークには充分すぎるほどいろいろと買い与えられている。それが申し訳なくて、止めようとしたが…

「ほら…」

渡されたかばんをノリコは両腕で抱きしめると言った。

「あ…あ…りひゃ…とぉ」



その宿は一階が酒場になっていた。イザークは一瞬眉を顰めたが、仕方なく中ヘ入って宿の主人と部屋の交渉を始め、鍵を貰った。階段を上るイザークの後を、ノリコはくっついて行く。

「え…」

部屋へ一歩入ったノリコは驚いて目を見はった。
小さな部屋には小さなテーブルと椅子が一つ置かれていて…ベッドが一つしかない。

『ま…まさか…でも…』

日本語でも言葉が出てこなくて…口をぱくぱくさせながらノリコは真っ赤な顔になった。

も…もしかして…同じベッドに…

カルコの町では同じ部屋に寝るだけでも恥ずかしかったのに…
ノリコの頭に中はもうすでにパニックになっている。

イザークは気にせず、荷物を部屋の隅に置くとノリコの名を呼んだ。

「ノリコ…」
『は…はいっ』

焦って大声で返事をしたノリコにイザークの片方の眉が上がった。それからもう一度「ノリコ」と言うと、ベッドを指差した。

あたしがここに寝ろってことかな…

相変わらずクールな表情のイザークを見て、自分が勘違いをしたことにノリコは気づいた。恥ずかしくなって落ち込んでくるが、ふとイザークはどこで寝るのだろうと思う。やはり同じ部屋で男女が一緒に寝るのはいけないと思って、別の部屋を取ったのだろうか。

「ノリコ…」

3度目に名前を呼ばれ、ノリコは顔を上げた。

「おれは仕事…」
「し…のと…」
「し ご と…だ」

はっきりと区切って言ってから、イザークは腰の剣を叩いてみせる。だがイザークの仕事がなんなのかも知らないノリコは、ただキョトンと首を傾げているだけだった。
それ以上、ノリコにわからせる手段を持たないイザークは、困った顔をするとノリコの頭をポンと叩いてから、黙って部屋を出ていった。


『でも荷物を置いていったもの…』

不安には襲われたものの…あの時と同じ、イザークの荷物はここにある。だから彼はまた戻ってくる…ノリコはそう自分に言い聞かせた。

部屋に一人きり残されたノリコは一冊の本を開ける。 ページごとにひとつの絵…花や動物、人の身体の一部などが描かれて下に文字が書いてある。どうやら子供用の文字を習う本らしい。分厚くってずっしりと重いのに、イザークは躊躇なくノリコにそれを買い与えた。そして時間がある時は文字を指差しながら読み方を教えてくれる。だからノリコも一生懸命覚えようとする。

『え…っと、花は確か…』
「ニーナ」

ちゃんと言えたよね…ノリコは満足気に頷くが…傍でイザークが「よし」って言ってくれないことが寂しい。

『だめだめ落ち込んじゃ……えーっと次は虫…』


それでも一日中部屋に閉じこもっているのは、やっぱり苦痛だった。窓の外に目を向けると、人通りの多い道で活気があった。散歩などしてみたい気にもなるが言葉のできない自分がひとりでのこのこと出ていって、何かあった時にどうすることも出来ない。

きっとイザークが出ていく時に言いつけたのだろう…三度の食事は部屋に運ばれてくる。なにかお手伝いでも出来たら…と一度階下へ降りて行ってみた…人の声がする方へ行ってみるとそこは酒場で男の人達がお酒を飲んでいた。

「お…かわいい嬢ちゃん…」
「こっちおいでよう…」

酔っぱらいが目ざとく見つけてノリコの腕を掴んで引っぱった。ノリコは青くなってその手を振りほどこうとするが、男の力には叶わない。そのまま取り込まれようとするところに…

「何してるんだい」

宿の女将が現れてノリコはホッとした。

「この子は宿のお客さんだ…手を出したら、あたしが承知しないよ…」

女将の剣幕に、男達はノリコから手を離すと何事も無かったように飲み始める。

「あのね…連れの人から言われてるんだ…
 あんたをここには来させないように…って…」

食堂は酒場と同じ一階にあったが、イザークは先ほどのようなことが起こるのを懸念して女将にノリコの食事は部屋まで運ぶように頼んでいた。
けれどそんなことを言われてもノリコはわからない。女将に階段まで連れて行かれ促されるまましょんぼりと上がって行く。


イザークがいなくなって三日目…さすがにノリコは心配になって、勉強にも集中できなくなってきた。

時間が経てば経つほど、不安が増してくる。自分はイザークのことをなんにも知らないことに気づく。知っているのはせいぜい名前と強いこと…それから傷がすぐに治ったな…後は…すっごく優しい人だってことだ。

このままでは、気が滅入るだけだから…ちょっとだけ、外を歩いてみようかとノリコはこっそりと…足音を忍ばせて階下へ降りて行った。お昼が過ぎ、宿屋の人も一息つく頃だろう…。誰もいない廊下からノリコは外に出た。

宿への帰り道を確認しながら、慎重に歩いて行く…この世界へ来て初めてひとりでの外出だった。しばらく歩いて行くと、市場らしい…屋台のお店が並んでいるところへ出た。

『ここのどこかで…かばんを買ってもらったんだ』

ノリコは数日前のことを思い出す。

なぜあの人は…あたしにああも親切にしてくれるのだろう…。

なぜ…

ノリコはぷるっと顔を振ってそんな疑問をはねのけた。自分はこの世界のことはなんにもわからないのだから…ただあの人を信じるって…彼について行くって決めたんだから…


しばらくぶらぶらとお店を見て、そろそろお宿に帰ろうかとノリコが思った時だった…

『あれっ…』

ノリコは吸い付けられるようにそちらを見た。

イザークだ…

長身が市場の人通りの中でも目立つ…間違いない…
彼だったが…

彼の傍には黒髪の美しい人が寄り添っていた。

その女性はきれいな布…ショールだろうか…それを身体にあててなにか彼に話しかけている。こちらを向いていないので彼の表情は見えない。

似合うとか、似合わないとか…そんな会話を交わしているのだろう…
自分とは違う…ちゃんと意思の疎通が出来て…
無口なイザークもおしゃべりなどするのだろうか…
あの端正な顔に微笑みが浮かばせて…

ズキン…

ノリコの胸が痛んだ

結局それを買った彼女は嬉しそうにイザークの腕を取った。自分がそうした時はすぐにふりほどかれたのに…イザークはそのままその女の人と歩き出した。ノリコとは反対の方向に…。二人の後ろ姿が遠ざかっていく…。

ノリコは回れ右をすると一目散に宿へと走っていった。女将さんが何か叫んでいたけど、それを気にする余裕はなく部屋に入ってベッドに飛び込んだ。

自分はイザークの何を知っているんだろう。優しいとか強いとか…でも、彼が何者で、どんな仕事をしている人で、家族は…何も知らないことに、今さらながらノリコは気づく。

ただ旅をしている人…そう思っていたけど…永遠に旅をする人なんかいない。考えてみれば当たり前だ。

この町は彼の住んでいるところなんだ。置きっ放しの荷物は旅の為なので、今は必要ないんだ。
あの女の人は彼の恋人…もしかすると奥さん…。旅の途中で拾ってしまったあたしを家に連れて帰るわけにはいかず、この宿に置いて、親切な彼はあたしの身の振り方を今、考えてくれているのだろう。

たまたま通りかかっただけなのに
彼はもう充分すぎるほど自分の面倒を見てくれた。
お金だって、いっぱい使わせた。
こうしてあたしが宿に泊れて食事もとれるのは、全部彼のおかげ…

それだけでも、いっぱい感謝しなければいけないのに…

胸が痛む…
息が出来ない…

なんで…


自分は一体彼に何を期待していたのか…
ずっと一緒にいてくれるとでも思ったの…

ノリコはベッドに俯したまま、次から次へと流れてくる涙を止める術を持たなかった。



サーラというその女性の両親はそこそこ裕福だったが、流行病で彼女が成人する前に亡くなった。後見人となった父の友人が引き取ろうという話も出たが、両親と住んだ家から出たくないと断った。生まれた頃からサーラの世話をしているばあやと女中が二人、若い女性の主人なのでその家は女世帯だった。力仕事など男手が必要な時はその都度人を雇っている。
両親が遺してくれたものと、裁縫が得意なので町の高級服飾店からの仕事を請け負ったり、町の女の子達を集めて裁縫教室を開いたりして暮らしには困っていなかった。


「どうしましょうね…」
「そうだな…」

いずれお嬢様にお似合いの婿をと、ばあやは後見人と話しはしていたが…。サーラの美貌に目をつけた金持ちのどら息子が求婚して、家まで押し掛けてくる。断っても、断っても諦めそうにない。サーラはその男を毛嫌いしていたので結婚などとんでもなかった。なのに人を遣ってサーラを見張らせたりしている。そして更に…

「なんでもお嬢様を奪おうと、金にあかせて町のごろつきたちを雇っているとか」

ばあやは心配そうに眉をひそめた。
女だけの館にそんなやつらが乗り込んできたらどうしようもない。この闇に覆われた理不尽な世界では、そんな形でお嬢様が奪われても、婚姻が成立したと見なされてしまう。

「しばらく私の館へ来ないか…」

そのどら息子が諦めるまで…と後見人は提案したが…

「いやです…どうしてあんな男の所為で逃げなければいけないのでしょう。
 わたしはここにいて、普通の生活を送ります。」

サーラは意思の強い眼差しでそう答えた。
後見人もサーラの性格を良く知っていたので、やれやれと首を振る。

「警備に渡り戦士でも傭うか…」
「でも…」

町で見かける渡り戦士は皆ごろつきと変わらない風情で、館に入れては逆にお嬢様の身に危険がありそうだ。例えそんなことはなくても、ひとりでは多勢に勝てるとは思えない…。

「実は先日のことなのだが…」

ためらうばあやに商人でもある後見人は、先日商用で寄ったカルコの町で見たことを話し始めた。
20名近くの盗賊をたった一人で退治した渡り戦士のことを…

「渡り戦士にしては 品行が良さげだった…
 カルコの町長も彼を買っていたな…
 なんでも家族が死に絶えた島の娘を拾って世話してやってるらしい」
「まあ…渡り戦士にしては随分と奇特な方ですわね」

サーラもばあやもそういう人ならばと、警備として傭うことに同意した。
そして後見人は使者を飛ばして、カルコの町から少し離れた村にいたイザークをつかまえたのだった。



「それで…いったいその輩はいつ現れるんだ」

朝食を手ずから運んできたサーラにイザークは冷ややかに問い質した。

「さあ…こればかりは…」

サーラも困って語尾を濁らせた。


ったく、冗談じゃない…
こんなつもりではなかったのだが…

イザークは浅慮な自分自身を罵りたくなった。

悪い話ではないと思った。町のチンピラなどたかがしれてる。今にも娘が攫われそうという話だったので、当日の夜か次の日にはもう帰れるものと思っていたのだ。それが、もう3日目…。

ノリコはどうしているだろうか… まったくわけがわからないまま、たった一人宿に残されて…。宿の女将はしっかりしているようだったので面倒は見てくれるだろうが…。
様子を見に行きたくても、その間にサーラが襲われてしまっては元も子もない。

「あの…」

知らないうちについたため息を気づかれてしまったらしい。

「なんだ…」
「お連れさんのことが気にかかるの…」
「なぜ…あんたがそんなことを知ってる?」
「紹介してくれた人が…
 あなたが拾った島の娘の面倒を見てると言っていたわ」

拾ったか…犬や猫ではあるまいし…

大陸の人間には、 東大陸の更に東に浮かんでいる遠い島の人間がまるで未開の地からやってきた野蛮人という偏見がある。聡明そうなこのサーラという娘が言葉の端にそれを滲ませていることに本人は気づいていまい…。島の人間が野蛮人なら、 化物だと知られた時、自分はどう思われるのだろう。

イザークは心のうちで苦く笑った。


「その娘さんもここに一緒に滞在したらどうかしら…」

イザークもそのことは考えていた。ノリコを呼び寄せ無為に過ごしている時間に少しでも言葉を教えてやれば、きっと喜ぶだろう。だが…

ノリコがいた異世界がどんな世界なのか…イザークは知らないが、無邪気そうな笑顔を見れば、平和な世界だったのではないかと思う。そんな彼女がこの世界に来た途端…花虫に襲われ、カルコの町では盗賊に襲われた。もうあの発作が起こることは当分ないだろうから彼女がここにいても守れる自信はあったが…あんな怖い思いを再びノリコにさせたくはなかった。

「断る…彼女をおれの仕事に関わらせたくない」
「…そう」

にべもないイザークの答えにサーラはそれ以上何も言えなかったが、代わりにあることをイザークに提案したのだった。



「なんだと…サーラが男と…」

「はい…渡り戦士風な男でしたが、ひどく仲睦まじげで…
 それとなく使用人に尋ねたところ、なんでももうすぐ婚約するとか…」
「許さねぇ…おれの申し込みを断っておいて…」

サーラを見張らせていた者からの報告を聞いて、金持ちの息子は腹立ち紛れに手にしていたカップを床に投げつけた。ガッシャーン…音を立てて床にお茶とカップの破片が飛び散るのを忌々しそうに睨んでいる。

チンピラを集めたのはいいが、それでどうしたものか…無理強いすることに少々戸惑っていたのだが…

「市場か…」

そうつぶやきながら、立ち上がって家を出ていった。


最初の計画では襲ってきたやつらを不意打ちにするはずだったので、見張りにはきづかれないようイザークはサーラの館の裏口からこっそり入った。けれど一向に彼らは何もしかけて来ない…。

イザークはサーラの館では、ノリコと同じように終日与えられた部屋に閉じこもっていた。居間でくつろいだらとか一緒に食堂でごはんを食べようと誘っても、それは自分の仕事ではないと言って断っていた。悪漢が襲ってきた時、そいつらを倒せばいいのだろうとだけ言って…。

そんなイザークにサーラは一緒に外へ出掛けないかと誘った。自分が見張られていることはわかっていたから…。

「あたしたちが仲良くしているところを見れば、きっと行動を起こすと思うの」

サーラの言うことに一理あると、イザークは重い腰を上げたのだった。


見張りの男はエラそうに「それとなく尋ねた」などと言っていたが、サーラがイザークと一緒に家から出ていけば、あれは誰かと訊いてくるのは明白だった。 ばあやに恋人だとか…婚約者などと適当に言うようにと言い残してサーラはイザークと出掛けて行った。案の定、見送っていたばあやに通りかかったふりをして見張りが尋ねた。

「いやぁ〜美男美女のカップルだね…誰だい?」
「うふふ…うちのお嬢様ともうすぐ婚約される方ですわ
 今日は市場でデートなんですよ」
「男は剣を持っていたが…」
「ええ…渡り剣士をされていたのだけど…
 偶然お嬢様と出会って恋に落ちてしまったんですの」

慌てて駆け出した見張りに呆れたように首を振りながら、ばあやは今言ったことが真実になればいいと思っていた。

両親もなくひとりで暮らしているサーラに早く婿を貰った方がいいといつも口を酸っぱくして言っているのだが、なまじっか頭がよくしっかり者のせいか、誰かに頼って生活するために結婚するなんていやだとはねつけられていた。その美貌で金持ちのどら息子以外からも縁談は持ち込まれていたが、全部断っていた。「美人なのを鼻にかけてる」「すっごい理想が高いらしい」などと陰口を叩かれても、本人は気にも留めずにいたが、ばあやはこのままサーラが独り身を通しそうで心配していたのだった。

そのサーラが、後見人の商人がイザークを初めて連れてきた時、一瞬口がきけずに黙り込んだ。現れた渡り戦士は、見たこともないほどの端正な容姿の持ち主だった。

「サ…サーラです。どうぞ宜しく」

ようやく少しつっかえて挨拶したサーラの頬が薄紅色に染まっていた。


「男の方が家の中にいると落ち着きませんね」
「警備だけに来るのだから、わきまえて頂きましょう」

女しかいない家だ。イザークが来る前は、自分たちの居住空間には緊急時以外は入り込まないようにさせるときっぱりと言っていたサーラだったが…

「やっぱりあの部屋は狭すぎるわ…居間の方でくつろいでもらった方がいいかしら」
「お食事も一緒に取ってもらいましょうよ」

などとそわそわと落ち着かなさそうに気遣い出した。そんなサーラをばあやはおやおやと目を細めて見ていた。

お嬢様は恋をされている…

小さい頃からサーラの傍にいたばあやは確信を持ってそう言えた。出来れば彼女の初恋を実らせてあげたかった。相手は町から町へと仕事を探して流れ歩く渡り戦士…この町で何かいい仕事を探してあげてお嬢様と結婚されたら一番いいのに…そんな事を考えていたのだった。

だが皮肉なことにその渡り戦士は、最初にサーラが決めていた通り必要なことがない限りどんなに誘っても…

「あんたたちと一緒におしゃべりしたり、飯を食うのはおれの仕事じゃない」

などと剣もほろほろに断るのだった。すると、驚いたことにサーラはイザークの食事は自分が運ぶと言い出した。

「お嬢様が使用人のような真似を…」

さすがにばあやは眉を顰めたが、サーラは聞く耳をもたなかった。そうするしか同じ家にいるにも関わらず、イザークの顔を見たり話すことができないのだから仕様がない。それでもイザークの素っ気ない態度は変わらなかったが…。

イザークが来て二日目のことだった。
サーラは服飾店へと仕事の打ち合わせに出掛けた。見張りが自分の後をつけているのに気づいたがいつものことなので放っておいた。その後ろからイザークが歩いているのを見張りは気づいてなかったが…。

お店がある町の中心は人で賑わっている。 仲良く腕を組んで楽しそうにおしゃべりをしている恋人達の姿にサーラの心が乱れる。いつもなら気に留めることなどないのに …自分もイザークとそんな風に歩けたらと素直に思える。なのに肝心の彼は気づかれないようにずっと後を歩いているだけ…ため息をついて思い悩むサーラの頭にひとつの考えが浮かんだ。

そして三日目の朝…

「キャー!ばあや」
「な…何ごとですか…」

イザークに朝食を運んだサーラが、部屋を飛び出してくるとばあやの首に抱きついた。

「出掛けるわ!!!」
「どちらに」
「そうねぇ…市場に行ってみようかしら…」

お店を見て、一緒にお茶をして… 頬を紅潮させたサーラは興奮気味に今日の予定を立てる。こんなサーラを見るのはばあやも初めてだった。
そして裁縫の授業が終わった後、二人は一緒に出掛けて行った。


「なんでぇ…あの生っ白い優男は…」

ノリコがイザークに気づいたのと同じ頃…やはり物陰から金持ちのどら息子が舌打ちしながら呟いた。

「あれで本当に渡り戦士なのか…」
「女の気を引く為じゃないっすか…やくざな男に憧れる女も多いですしね」
「フン…腰の剣は飾り物か…」

鼻でせせら笑うと、もう一度二人の姿を見る。

サーラが嬉しそうに微笑んでイザークの腕に自分の腕を絡めている。男の方は不機嫌そう顔をしているが…。

「ちっ…カッコつけやがって…見ていろよ…」

そう言い残してドラ息子はその場を去った。



「ノリコが外出を…」

夜も更ける頃ようやく宿に戻ってきたイザークに鍵を渡しながら、女将は今日ノリコが宿から外に出ていたことを告げた。

「すまないねぇ…あんたにあれ程言われてたのに…
 ちょっと目を離した隙に出ていっちゃったんだよ」
「いや…無理な頼みだった」

さすがに鍵をかけてノリコを閉じ込めることは躊躇ったイザークは、女将にノリコをなるべく部屋の外に出さないよう頼んでいた。だが女将だって仕事があるから四六時中ノリコに気をつけているわけにはいかない。イザークは女将を責める気はなかった。

「部屋にいないことに気づいた時は慌てたけど、すぐに帰ってきて安心したんだよ…でも…」
「でも?」
「なんだか元気がない…夕飯も食べなくって…ベッドに入ったまま泣いてるんだ… 」

なにか外であったんだろうかね…心配そうに言う女将の声がイザークの耳をすり抜けて行く。

ノリコがいたのか…あの場所に…

時間もちょうど合うとイザークは確信した。市場でサーラと歩いていた時、常に視線を感じていた。見張りか…ドラ息子本人がやってきたのか…どちらにしてもこちらの思う壷だったので内心しめたと思っていた。

いつでもかかって来い…

想いを寄せる女を暴力で奪おうとする者など唾棄すべき存在…イザークに容赦する気はなかった。

確か女と布を選んでいる、そんな時だった…
それまでとは別な…ちょうど自分が背中を向けていた方向からも視線を感じた。やつらが二手に分かれたのかと思ったが、それはそれまで感じていた邪気を帯びた視線ではなかった…。振り返って確かめたかったが、もし敵だったら気づかれてしまう。かろうじてイザークは自制すると女に腕を取られ歩き出した。


「迷惑をかけた…」

イザークはそれだけ言うと階段を駆け上って部屋へと向かった。

「やれやれ…あれ程いい男がね」
「なんだい…」

呆れたように首を振っている女将に、亭主がわけがわからず尋ねる。

「あーんなクールな顔してさ…ありゃ相当な過保護だよ」

女将はおかしそうに言った。
ずっと寂しそうにしていたあの島の娘も、きっと嬉しいだろうね…そんなことを考えながら…。



「ノリコ…」

イザークが部屋に入ってきた。毛布をかぶってベッドに伏せていたノリコがビクッとしてから身体を起こす。

「イザ…ク」

泣きはらした赤い目…擦れた声で自分の名を呼ぶノリコにイザークの胸が痛んだ。

「すまん…予定外に長引いて…」

通じることはないと知りながら、言い訳を言ってしまう…


あたしを預ける先を見つけて迎えに来てくれたのかな…

そんな思いが頭に渦巻くノリコは、これ以上泣いてはいけないと自分に言い聞かせる。そしたらまたこの人は困ってしまう。優しい人だから…けれど…

けれど…


もう二度と会えないかと思っていた…


「うわあーーん…」

こらえきれずにノリコはベッドから飛び降りると、イザークの胸にすがりついて泣き声をあげた

寂しかった…
つらかった…
こわかった…
悲しかった…
心細かった…
不安でたまらなかった…

「ああ〜〜〜ん」

それまでの思いが爆発したように泣いているノリコをイザークは抱え上げるとベッドに腰かけた。

「すまん…ノリコ…すまん…」

何度謝ってもノリコには伝わらない…イザークは片手をそっとノリコの背に当てた。

「…!」

背中にイザークの手の感触を感じて、ノリコははっと我に返る…
大きな手のひら…長い指がノリコの背中を、まるで赤ん坊をあやすかのようにゆっくりと撫でている。

ゆっくりと…優しく…彼の手のぬくもりが身体中に染み入って、心まで暖かくなってくる。

気がつくと涙は止まって…ノリコの不安がきれいになくなっていた。


イザークってすごい…

ノリコはあらためてそう思う。あれ程絶望的な気分だったのに、今は彼が傍にいるだけですごく嬉しい…そして幸いなことに、今ノリコは伝えたい気持ちを表す言葉を知っていた。

「ありがとう…イザーク」

やっと泣き止んだノリコが自分の腕の中でそう言ったのを聞いて、ふ…っとイザークの口元に微笑みが浮かんだ。

「上手く言えたな…」

意味はわからなくてもイザークの言葉は背中にある手と同じく暖く心に染み入る。薄れて行く意識の中でイザークが笑っているような気がしたが… ノリコはそれを確かめることは出来なかった。

「寝たか…」

もう慣れてしまったノリコの安心すると眠る癖…イザークは眠ったノリコの華奢な身体をしばらくの間、じっと抱きしめていた。




チチチ…

『あれ』

朝、鳥の鳴き声で目覚めたノリコは自分が服を着たまま寝ていることに気づいた。 しばらくぼぉーっとしてると徐々に昨夜のことが思い出されて、がばっと起き上がった。目に入った部屋の様子が見慣れない。

『どこ…ここ』

もしかして眠っている間にどこかに運ばれたの…不安に駆られてノリコは思わず叫んだ。

「イザーク!!…」
「なんだ」
「え…」

声のした方を向くと…衝立があった…

眠っている間にイザークがノリコを運んだのは事実だったが、そこは同じ宿の別な部屋 …ベッドが二つの部屋だった。

起き上がったイザークがもの憂げ髪をかきあげながら衝立をのけるとノリコを見た。

不機嫌そうな顔…少し突き放した態度…いつものイザークだった。でも…彼がそこにいる…それだけでノリコは嬉しくなってしまう。

昨夜もあたし…寝ちゃったんだ…安心して…
でもどうしてイザークが一緒の部屋で寝ていたのかよくわからない…
だって彼はこの町に家があるのでは…

尋ねる術を持たないノリコは、イザークと一緒に朝食を取った後、荷物を整理して宿を発つ準備を整える。ノリコは新しいかばんに自分のものを詰めている。買ってもらった時は単純に自分の荷物は自分で持ちたいと考えていたので嬉しかったが、今は二人の荷物を分ける…それが意味することにまた少し落ち込んできた。でも昨夜のイザークの手から感じた優しいぬくもりを思い出して、自分を奮い立たせる。

自分はイザークにとって、ただの厄介者でしかないことはわかっている。けれど彼はそんな自分を決してぞんざいに扱ったりはしない。だから彼が選んでくれた場所だったら、それは自分にとっても一番いい場所なんだとノリコは信じていた。だから大人しく彼に別れを告げよう…もう一度「ありがとう」と笑って言って…少なくとも人に感謝する言葉を覚えられたことにノリコは満足していた。

「え…」

文字を覚えるようにイザークが買ってくれた本を、ノリコがかばんに押し込もうとすると、イザークがスッと取りあげて自分の荷袋に入れた。

分厚くて重いそれをイザークは自分に持たせたくなかったんだろう…
それはわかるけど…

これからも教えてくれるの…

そんな都合の良い考えをノリコは慌てて頭から振り払った。



「イザーク…」

宿の支払いを終えた時、イザークを呼ぶ声にノリコも一緒に 振り返った。

あ…

あの人だった…イザークと並んで立てば、絵のようにきれいな黒髪の人…肩には昨日イザークが選んだショールがかかっていた。


「あなたったら…昨夜は報酬も受け取らずに行ってしまうんだもの…」

サーラはイザークに報酬の入った布袋を渡す。

「予定より長くなったから…少し多めに入れておいたわ」



ドンッドンッ…ドンッ

昨夜…乱暴にサーラの家のドアが叩かれた
怯える使用人を制して、サーラがドアを開けた。

「おっと…お嬢さん自らお迎えか…」

ごろつきのひとりが面白そうに言った。

「さぁ…大人しく来てもらおうか…」

そいつがサーラを捉えようとするのを遮るようにイザークが立ちはだかった。

「遅すぎるぞ…あんたたち」

不機嫌そうにイザークが言う。

「なんだてめぇ…やる気か」
「こっちはこの人数だぞ…」
「いいから、引っ込んでな」

ニヤニヤと笑いながら口々に言う輩にイザークの怒りが炸裂した。

「さっさとやって来ないか…あほうどもが」


「・・・」

あっという間にごろつきどもは地面に這いつくばっていた。呆然と立ちすくすサーラや館の使用人の前に、物陰で様子を窺っていたのを引っぱってきてロープでぐるぐる巻きにしたドラ息子を投げ捨てると、イザークはすぐにその場を去って行ってしまった。



渡された金を中身を確かめもせずに荷袋へしまうイザーク。

あれはこの世界のお金だ…
お金を貰ったってことは仕事だったんだ…
ということは、イザークはここに住んでいるわけではないんだな。

胸につかえていた心配事がやっと晴れてほっとしたノリコは、あの時の言葉を思い出して言ってみる。

「しの…と」
「し ご と…だ」

間髪入れずにイザークが訂正する。

そんな二人をサーラーはぼんやりと見つめていた。


昨日、市場からの帰り道だった。

「ねぇ…あたしのことどう思っているの?」

この日、初めてのイザークとの外出は、結局サーラだけがおしゃべりをして、時折イザークが「ああ」とか「ん」と短く答えるだけ…とうとうサーラは我慢の限界が来て訊いたのだった。

「あんたのこと…?」

イザークは初めて隣にいるのが女だということに気づいたかのような無関心さで答える。

「あんたは頭がいい…女にしておくにはもったいない 」
「ま…」

今まで言われ慣れたセリフだった…イザークの口から聞くとは思わなかった。

「町で一番きれいだ…裁縫の腕もいい…誇ってもいいくらいな…」
「え…ちょっと…それは」

なぜそんなことをイザークが知っているのか…
さすがにサーラがは不審に思ったが、イザークはあっさりと種明かしをする。

「そう…あんたのばあやが言っていた」
「…!」

どうやらばあやが、イザークにサーラのことを売り込んでいたらしい。サーラはそれを少し恨めしく思った。ばあやは自分のイザークへの気持ちを知って応援してくれているのだとはわかっていたが…。

「わたしはあなたのことが好きよ」

サーラは思い切って告白してみる。

「出来れば…あなたがこのままこの町で…
 あたしと一緒にいてくれたら…嬉しいのだけど」

もし彼が…少しでも自分を見てくれたら…それだけで良かった。けれどイザークの答えは相変わらず素っ気なく…

「悪いが、おれはこの仕事が終われば、この町を出ていく」
「・・・」



勇気を出して想いを告げたサーラに対する冷たい態度…ばあやはイザークに腹を立てていた。給与など人を遣って届けさせれば良いとばあやには止められたが、名残惜しく来てしまったサーラだった。

「あの…ここから30ニベル程はなれた町に、身寄りのない女の子たちを預かっている施設があるの。それをあなたに教えて差し上げたくって…」
「おれたちのことはほうっておいて貰おうか」

「あなた…いったいその口のききようはなんなの…お嬢様は親切に…」
「いいの…ばあや」

憤慨するばあやを遮るサーラには、もうイザークの心に自分が入れる隙間もないことがわかっていた。

「おれたちのこと…ね」

島の娘のことを話したつもりだったに…

それからサーラはノリコをまじまじと眺めると、何かひどく納得したように頷いた。

「あなたにこれをあげるわ」
「え…」

ショールをはずすとノリコの肩に掛けた。イザークとの思い出に取って置こうかと思っていたのだが…

潔いほどイザークから相手にされなかったサーラはむしろ清々しさを感じている。それは彼の思いやりなのかもしれないとサーラは思う。優しい言葉などかけられていたら期待してしまい、いつまでも引きずってしまいそうだ。だからこのショールも手放すほうがいい…そして、それが一番ふさわしい相手に渡したかった。

「やっぱりね…」

困ったように自分を見ているノリコを見て、サーラは確信した。店先に何枚もつるされているショールを指差しどれがいいかと訊いてみた。そんなものを選ぶのは自分の仕事じゃないなどと言って無視されるかと思っていたから、彼が選んだ一枚に果たして自分にこれが似合うのか不思議に思ったのだが、それでも嬉しくて買ったのだった。

どれが自分に似合うかと聞いたわけではなかったことに、サーラは気づいた。どれがいいかと尋ねられた彼が選んだのは、多分あそこにあった中で一番ノリコに似合うであろう一枚だった。ほとんど迷うことなくそれを取った彼の手を思い出す。身体に当ててみせた時、困惑の影が一瞬彼の瞳をよぎったような気がしたのは、気のせいではないだろう。


「随分長いこと待たせてしまったから…お詫びのしるし」

どうやらこれをくれるといっているらしい…でも、いいのだろうか…イザークの顔を不安気に見上げたノリコに、イザークは小さく頷いた。

もらってもいいんだ…

ショールをもらったことより、自分の疑問をイザークがすぐに理解し答えてくれたことが嬉しくて…ぱっと顔を輝かせたノリコは慌ててまたサーラを向くと…

「ありがとう」

そう言ってぺこりとお辞儀をした。異国なまりのつたない言葉に、サーラも微笑んでお返しをする。

「どういたしまして」

「ど…いなにま…まり…」

いつもの癖が出てノリコはすぐに繰り返そうとする。

「どういたしまして」

宿を出ながらイザークも条件反射のように訂正する。ノリコも慌てて後を追った。

「ど…どうい…なに…」
「いたし…」
「いたひ…」
「まして…」
「まに…まし…え」
「まして」


二人はそんなやり取りをしながら、遠ざかって行った。

「あんな言葉も出来ない子を…いったいどうするつもりなんでしょうね」

ばあやは眉を顰め非難するように言う。

「でも…ありがとうはちゃんと言えたわ」
「え…」

それは今までイザークが教え込んだ成果なのだ。そしてこれからも毎日少しずつ、ああしてあの娘は言葉を覚えていくのだろう。イザークの傍で…。

「あ〜あ、あたしも島の娘になって、彼に拾われたかったなぁ」

不思議とさっぱりとした気分で、サーラは大きくのびをした。

「お嬢様」

心配そうな顔をしているばあやに明るい笑顔を向ける。

「早く帰りましょう…生徒さんたちがやってくるわ」

短編

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