カルコの受難


「本当に…やるのか…?」
「うん…イザークはいやなの?」

イザークは答えずに肩をすくめた

「ねっ…」

いいでしょう…とノリコがニコっと笑ってせがめば
イザークはもう拒むことなどできやしない

「では…」

イザークはノリコの手を取るとコホンとひとつ咳払いをして…

「走れ…」


二人は走り出した
その手をしっかりと繋いで…




元凶を倒して一年近くが過ぎた
その間、ザーゴやグゼナ…その他の国々で
闇に奪われた政権を光の力で取り戻す手伝いをしてきた
そして今、東大陸に向かう途中で…
これで二度目になるノリコの家族へ日記を送るために
樹海の金の寝床にやってきたのだった


花虫もいなくなった樹海を見渡しながら
ノリコは懐かしい想い出に浸る


二人で走った…

ノリコはわけがわからずに…ただ恐ろしくて…
イザークは、目覚めを助けている自分を責めながら…


お互いにとても苦い経験だった…
せっかくイザークと出会えた時のことなのに…

だからね…イザーク…
ここで楽しい想い出を作りたいんだ

後で想い出して笑えるようなね…


そう言ってノリコが考え出したのが…
あの時の再現…


妙なことを考えるものだ…

イザークは首を傾けながらも嬉しそうなノリコの表情に
心が和んでいくのがわかる


ノリコにはいつだって笑っていてほしいから…
イザークはノリコの手を取ったのだった



ノリコの息が乱れ始めると、イザークは振り向いて微笑った

あの時には決して見せてくれなかった彼の優しい表情…
ノリコは目の奥にそれを焼き付ける


「きゃ…っ」

身体がすっと持ち上げられた

イザークはノリコを肩に抱えるとまた走り出しそのまま…
ダン…と地下の穴の中に着地した



「いかだを…作らないといけないのか…?」

イザークが少し困った顔をして
ノリコはぷっと吹き出した


「よかったぁ…ここに楽しい思い出が作れて…」

暗い洞穴なのに…そこだけ光が溢れているようで…

屈託なく笑うノリコを
イザークは眩しいものでも見るように目を細めた


「今日は…ここで野宿しようね…」


あの時は…あんな無茶苦茶な状況だったにもかかわらず…
あたしは安心して寝てしまったんだ
イザークのおかげで…

今夜も同じ…安心して眠れる…
イザークの腕の中で…


当時のことを思い出した所為なのか…
イザークはノリコをまるで壊れ物のように…
いつもよりずっと大事に抱いた

樹海の地下は真っ暗で何も見えない…
ノリコが感じられるのは
イザークの吐息…
包まれる彼の香り…
身体のあちこちに触れる感触…


樹海は今…
二人に取って…
優しい想い出の場所へと変わっていく




翌朝、水路のところはチモで飛んだ

本当はいかだに乗ってみたかったけど…
頼めばきっとイザークはいやとは言わなかったと思う
でも、我がままもほどほどにしないとね…

急な上り道…イザークが背負ってやろうかと訊いたけど
自分の足で上りたくて断った

旅から旅への日常であたしの足も大分鍛えられているし…
イザークの後ろについていけばそれでいいんだと安心できる

その想いを胸に刻みたくて…


暗い洞窟から外に出た瞬間は
やっぱり空の青さが目にしみてくる

空を見上げるノリコの後ろに立ったイザークが
身体に腕をまわして抱き寄せた

「イザーク…?」
「…」

イザークはノリコの身体を確かめるかのようにその手に力を込める


「あの時…おれは…この場所で…
 ノリコを殺さなければいけないと…自分に言い聞かせたんだ」

心の内側にいまだ潜んでいる闇を…
吐き出すようにイザークは言った


この人は…ずっとそれで苦しんできたんだ

イザークがあの時…そう思わなければならなかった気持ちを…
ノリコは痛いほど良く理解できる…


「でも…あたしはまだ生きているよ…」

ノリコはイザークの手を取ると、自分の胸にあてた
彼女の鼓動がイザークの手に伝わってくる

「イザークはあたしを生かしてくれた…
 だからあたしたちは今こうしていられるんだね」

ノリコは顔だけ振り向いてイザークを見上げると
ありがとうと言って笑った


「っ…」

イザークはノリコの身体をくるりとまわし
顎に手をかけ上を向かせると唇を塞いだ

その全てが欲しいと…
絶対に離したくないと…
生まれて初めてそう願った女の唇を
飽くことなく貪り続ける



「もう…っ!イザークったら」

やっと唇を離されたノリコは乱れた息を整えながら
恥ずかしげに頬を染めてイザークを睨んだ

「あの時は…こんなことしてくれなかったのに…」

目をそらしてつんとしながらつぶやくノリコを
イザークは愛おしげにみつめながら彼女の耳に口を寄せる

「あの時、こんなことをしていたら…おまえはどうしていた…?」


ぽっ…と赤くなったノリコはドキドキする気持ちをごまかすように
イザークの手を取るとすたすた歩き出した

もし…イザークにキスされてたら…
あたしはどうしていたんだろう…

考えられないよ…そんなこと…

でも…



「あのね…」

イザークの手を握ったまま一歩前を歩くノリコは
小さな声で囁いた

「…ん?」

「…あたし、何がなんだかわからなくて…
 イザークを呆れさせるようなことばっかりしてたと思うけど…」

そんなことはない…と言いかけたイザークだったが
当時を思い出すと、くっ…と笑う

「でもね…あの時、イザークについていこうと決心したこと…」
「…」
「あたしの人生で一番上出来だったって…
 自分を褒めちゃってもいいよね…」

イザークは何も言わずにノリコの手をぐっと強く握った



「今度は絶対落ちないからねっ!」

どんな危険な道だって、もう…恐くなんかない
イザークが傍にいてくれるなら…


イザークに手を取られながら崖沿いの細い道を歩いているノリコに
彼は悪戯な笑顔を向ける

「…再現するんだったな…」

え…


「きゃあああっ…」

ノリコの手を引き寄せその身体を抱くと
イザークは一気に崖を飛び降りた


「ここは…端折ってもよかったのに…」

もう… ジェットコースターに乗ってるみたい…

あ…それってなんだか…
青い顔でぐったりしていたノリコが顔を上げた


「遊園地デートか…」

それも悪くないな…

急に満足げな顔をして微笑むノリコを
イザークが不思議そうな顔で見た



飛び降りたその場所に…
衣類の行商人は倒れていなくて…
もちろん…盗賊も現れなかった


二人はチモは使わずに…仲良く寄り添いながら…
のんびりとカルコの町まで歩いていく


「あたしね…結構落ち込んでたのよ…あれでも…
 でも、言葉を覚えようと思った途端…急に元気が出てきてね…」

ぺらぺらと楽しそうにおしゃべりをするノリコを
イザークは黙って見つめている


おれの言った言葉を舌たらずに繰り返すノリコの姿を
今でも目の前にいるように思い出せる

ノリコは言葉を覚え
おれはもう闇に捕らわれていない…
二人の関係は大きく変わった…

ただ…変わらないのは…

ノリコの笑顔…


それだけは絶対に守り抜くとイザークは心に誓うのだった




夕闇が迫る頃…二人はカルコの町に着いた

子供たちは遊び疲れ…お腹を空かして家に帰る
お店を閉めながら商人が今日はあまり売れなかったと愚痴っている
街灯に火が灯され雨戸が下ろされる

以前と変わらぬ光景だったが…
人々の表情はずっと明るくなっていた



「食事をとったらあの宿に行くか…」

懐かしさにきょろきょろしているノリコを
イザークは可笑しそうに見た

「うん…おばさんやおじさん元気かな…」

すごく親切な人たちだった
特におばさんは…生活習慣も言葉もわからないあたしに
身振り手振りで教えてくれたんだよね…いろいろ…

イザークには言えないようなことも…

すごく助かったもの…
今ならちゃんとお礼が言える…

当時を思い出し…ノリコはそっと頬を染めた




「あれ…っ」

町人の一人が二人を指差した

「彼だ…あの盗賊をやっつけた渡り戦士…」
「本当…?」

あの夜…手伝いに宿にやってきた人たちらしい
イザークのことを覚えていたのだった


え…

気がつくとまわりに人だかりができている

「やぁー、あんたのおかげでどれだけ助かった」
「あれ以来…安心して眠れるよ」

口々に感謝の言葉を言いながら
無理矢理二人の腕を引いて酒場へと連れていった


「この前は…お礼を言う間もなくいなくなっちまうんだから…」

今夜は街のおごりだよ…

なんだかわけがわからないうちにノリコとイザークは
長いテーブルを挟んで向かい側に座らされた


「へぇーこの兄ちゃんが…人は見かけによらないな…」
「この子が連れていたっていう島の娘かい?」

二人を知らない人たちまで噂を聞いて集まってきたらしい…


「ほらっ…飲みなよ、あんたもさ」
「あ…いえ、あたしお酒は…」
「そんなこと言わずに…」

すすめられるままに出されたご馳走を食べていたノリコに
酒が注がれ…仕方なく少しだけすすった

お酒に弱くてそれだけでぽわんとしてしまったノリコの耳に
きゃーかっこいい…とかいう声が聞こえてくる


それはいつものことだった…

大きなテーブルの向こう側で
町人たちから話しかけられて困った顔をしているイザークが
なぜだか手の届かない所にいるような感覚に襲われる

いやだ…あたしったらもう酔っぱらったのかしら…

あ…酒場の女の人…
お酒をそそぎながらいやにイザークに身体をくっつけてる

イザークは全く感心なさそうにしているけど…

時々思うんだよね…
イザークってさ…すごくかっこいいし…
強くて…なんでも出来るのに…
あたしは…


『ノリコ…』

イザークの声が響いてノリコははっと顔を上げると
口の端を持ち上げて笑っているイザークと目が合った

『あまり飲むなよ…』
『…』


そうなの…
めったに飲むことはないんだけど…
あたし…普段は能天気なくせに…
酔っぱらうとなぜかペシミスティックになっちゃうのよね
泣き上戸っていうの…?
どうでもいいことで…悲しくなって
わんわん泣き出してイザークを困らせちゃったこともあるし…

気をつけなきゃ…と
ノリコは盃をテーブルに置いた


「いやぁーあんたたち」

独特な大声がして町長とお医者さんが現れた

「そーか…そーかくっついたのか」

周り中に響き渡るように言われて
ノリコは恥ずかしさに赤くなって顔を伏せる

イザークの隣に座っていた人を強引にのかせると
町長はそこに腰を下ろし早速お酒を飲み出した


「元気だったかい?」

お医者さんはノリコの隣に座って優しく話しかける

「はい…あの時はお世話になって…」
「ほう…随分言葉が上達したな…」
「あれから…もう二年以上経ったもの…」
「頑張って覚えたのだね」

こくん…とノリコが頷いた時
周囲の騒音をかき消すような町長の大声がまた聞こえてきた

「あんた…まだ渡り戦士なんぞやっとるのかぁ」
「…ああ」

言葉短く肯定したイザークに
いかんな…と町長は首を振った

「そりゃあ…あんたは強いかもしれんが…
 彼女のためにも…そんなやくざな商売はやめたらどうだ…」
「町長…また大きな声でずけずけと…」

困ったように言うお医者さんを町長は軽く無視する

「どうだ…ここで暮らさんか…仕事なら紹介してやるぞ…」
「いや…悪いが…」
「いやなのか…なにが気にくわん」

怒ったように町長にまくしたてられて
仕方なさそうにイザークが答えた

「お言葉はありがたいが…おれたちはこれから東大陸へ渡る」
「東大陸だと…?」


町長の眉がきっ…と上がり、急に説教口調で話し始めた

「あんたも知っていると思うが…」

少し間をおき…重々しく次の言葉を放つ

「破壊の化物と恐れられた天上鬼は光の側についた」

ノリコとイザークの表情が
びくっと緊張したのに気づかず町長は続ける

「そのおかげで…ザーゴを始め西大陸の国々に平和が戻ってきておる」
「…」
「だが…東はまだ政情が不安定だぞ…
 そんなところへあんたノリコを連れて行く気か」


それを立て直すために行くのに…

両手をきゅっと握りしめて
歯がゆい思いでノリコは町長の話を聞いていた


「ああーっ…そうか」

急になにかを考えついたらしい町長が叫んだ

国が正しく機能すれば
治安が保たれ…渡り戦士の仕事は激減する

「向こうへ行って荒稼ぎを狙っとるんだな…」
「これ…町長…あんた、酔っとるぞ」

お医者さんが宥めようとするが
ヒートアップした町長は止まらない

「危険を承知で…そんなところへ
 ノリコを連れて行くつもりなのか…」
「それは…」
「まあ…あんたにとったらノリコは
 拾って世話してやった島の娘かもしれんが…」
「いや…おれは、そんなふうには…」
「だからと言って、ぞんざいに扱っていいとは限らんからな」

「あ…あの」

我慢できなくてノリコが思わず口を挟んだ

「…ん?」
「イザークはそんなつもりじゃないのよ…
 それに…すごくあたしを大事にしてくれる…」

町長はしばらく黙ってそう言うノリコを眺めると…
不思議そうに訊ねた

「あんた…しゃべれるんか…」
「え…」

どうやら町長にとってノリコは
言葉が出来ない島の娘…のままだったらしい

「ほれ見ろ…あんた」

ノリコを指差しながら再び説教が始まった

「ノリコだって…言葉が出来るようになった
 この際…腰を落ち着けた生活するべきだろうが…」
「…そのうち…そうするつもりだ」
「なにが…そのうちだ…そんなことでは一向にらちがあかん
 わたしはな…あの時から 」

町長はもう一度ノリコを見るとしみじみと言った

「あんたを自分の娘のように思っとる…」
「へ…?」

ぽかんと口をあけたまま固まったノリコに構わず
ぐびぐびと盃を空けながら町長は続ける

「父親にとって…何が我慢できないかと言うと…
 娘が男のせいで苦労したり…不幸になったりすることだな…
 …だから、あんたには幸せになってもらいたいんだよ…」
「…」
「それでだ…」

町長はイザークへ顔を向けた


それから延々と小一時間ほど…
逃がすまいとしっかりと肩を捕まえたまま…
イザークの耳元で町長の説教はくどくどと続いていった


「あんたは確かにいい男かもしれんがな…」

かなり酒がまわってきた町長は
こめかみに怒りのマークを浮かび上がらせる

いい男にいまだ反感を持っているのだ

「いいか…男というものはな…顔じゃない
 女をいかに幸せにできるかということで値打ちがわかるわけでだ…」
「あたっ…あたし、イザークと一緒だったらそれだけで幸せなの」

そう言うノリコを一瞥すると町長はふ…とため息をついた

「相変わらず健気じゃないか…
 そう言えば…あん時もひたむきに病気のあんたをかばっとったな」
「かばうとかじゃなくて…」

必死に誤解を解こうとするノリコの姿に町長の表情が緩んだ

「なるほど…ここまで慕われたら…
 いくら好みじゃないとはいえ…情が移ったというわけか…」
「え…」


それまで町長の説教を話半分聞き流していたイザークは
飲んでいた酒にむせて咳き込みながらも慌てて町長を止めようとする

「…違う…あれは」

「まぁ…あんたみたいな男の好みはきっと…もう少し色っぽい…」
「町長さん…いったいどういうことなんですか…」

先ほどまでとはがらりとノリコの口調が変わったことに
傍ではイザークとお医者さんが青くなっているというのに
酔っぱらった町長は気づかない

「いやぁ…あん時…あんたたち赤の他人だったわけだし…
 同じ部屋で寝るなどとは…と彼に意見したんだが…
 好みじゃないから心配無用だ…などと言いおってな…」

ひゃっひゃっと町長は笑い出した

ぴきっ…
ノリコの頭の中で何かがキレて…
テーブルに置いてあった盃を掴むと…
ノリコはごくりと飲み干した

「よせっ…ノリコ」

ノリコを止めようとイザークは立ち上がってテーブルに身を乗り出すが…
すでに遅く…

ぽろぽろとノリコは泣き出した…


「いろんな人に…ぐすっ…不思…議がられ…たのよ」

うっ…と一瞬詰まったあと一気に吐き出すようにノリコ叫んだ

「あれだけ長い間二人っきりで旅して
 なんにもないっておかしいって…!」
「ノリコ…」
「おば…さんにも…訊…かれた…」

両手で涙を拭いながら…

「今…やっと、わかったよ…そういうことだったんだ…」

「酔ってるな…」
「やだっ…触らないで…」

机をまわってきたイザークが伸ばした手をノリコははねつけると
うわーん…と泣き出した

「落ち着け…」

それでもイザークは…首を振りながら嫌がるノリコを
無理矢理椅子から抱え上げ…軽く会釈をしてその場を後にした



「やっこさん…」

ノリコが泣き出した所為で…
急激に酔いが醒めた町長が驚いた顔で呟いた

「うろたえておったぞ…」


あんたのせいじゃないか…

お医者さんがやれやれと…口には出さずにひとりごちた





ど…どうしよう…

宿のベッドの上にぽつんと膝を抱えてノリコは座っている


町長さんの言葉に触発されたノリコは
散々泣きわめいた挙句…

イザークに抱えられて宿に着いた後も
せっかく懐かしがってくれているおばさんの話など聞こうともせずに…
イザークに渡されようとした鍵を横から奪った


「イザークはいつかみたいに…仮眠室で寝て!」

そう言い捨てると…一人で階段を上がって部屋に駆け込んだのだった

しばらく泣きながらベッドに横になっていたノリコだったが
隣にイザークがいないと眠ることも出来ない…
酔いが醒めてきた今…
自分がしてしまったことを激しく後悔していた



だって…だって…
イザークは、あたしと歳はそんなに変わらない…のに
すっごく素敵な大人の男の人で…

さっきの酒場にだって…色っぽいきれいな女の人たちが
さかんに流し目を送っていた…

イザークがそんなこと全く興味がないのは知っているけれど…

酔っぱらってたから…
いつも心の奥に隠していたいやな思いが出てきてしまったんだ


うっ…とまた涙が溢れそうになって
ノリコは顔を膝に埋めた


違う…

好みとか…そんな理由じゃない
イザークはただ…
あたしがいずれ自分の世界へ戻ってしまうかもしれないとそう思って
手を触れずにいてくれただけなのに…

あたしはとても大切にされていただけなのに…


ずっと一緒にいたい…

そう言ってあたしが彼にしがみついたあの日…
やっと彼はあたしを抱いてくれた

本当はずっとこうしたかったんだと…
微笑いながら言って…

本当に優しい人…
あんなに優しい人あたしは他に知らない…

なのにあたしったら…
酔っぱらったとは言え…
あんな態度とるなんて…


謝ろう…
謝ればきっと許してくれる

優しい人だから…


きっ…と顔を上げ涙を手でぬぐうと
ノリコはベッドから飛び降り
イザークの気配がする階下へと階段を駆け下りていった




「あんたもいろいろ大変だったねぇ」

ことん…と宿のおかみさんが手に持っていた盃を机に置いた


一人で二階へ行ってしまったノリコを呆然と見送ったイザークを見て
可笑しそうに笑いながら、まあいっぱいお飲みよ…と台所に連れてきたのだ
おかみさんもいける口らしい

イザークにしてみれば、散々飲まされた後だったが
ノリコの酔いが醒めるまで待とう…とつきあうことにした

亭主は出かけていて…もうすぐ帰るということだった


「最初あの娘を見た時…十三か四くらいかなと…とあたしゃ思ったんだよ」

まだ子供っぽくって…無邪気で…可愛らしくって
イザークがいないと不安そうにしてたっけ…

おかみさんはあの時のノリコを思い出す


「あんたは歳の割には落ち着いてたけどさ…やっぱり二十前の男だろう…
 言葉も出来ないし…生活習慣だってまるで知らない女の子の世話なんかさ…
 到底無理なんじゃないかって…どーするんだろうって…心配したんだよ…」

くすり…そこでおかみさんはまた笑った

「だけど…ちゃーんとわかっていたんだね」
「…?」


ノリコが階段を下りてくる気配を感じてほっとしていたイザークは
おかみさんが何を言っているのかわからずに怪訝そうに眉を寄せた


「イザ…」

台所の入り口でノリコがイザークに声をかけようとした時…

「彼女に月のモノが来たからいろいろ教えてやってくれ…って
 あんたが頼んだ時は…よくわかったもんだとびっくりしたね…」

「え…」

おかみさんの言葉にノリコは …動きを止めた
 

そう…
ここに飛ばされてすぐに始まりそうになって…
どうしようかと困っていたんだ…
そうしたらなぜだか知らないけど
おばさんが身振り手振りで教えてくれて…すごく助かった
イザークには言えないようなことだったから…

イザークには…言えないようなこと…だったはずだったのに…


「な…なんで…イザークが…」
「おや…」
「ノリコ…」

おかみさんは初めてノリコがそこにいるのに気がついて振り返った
イザークは立ち上がってノリコの元へ行こうとするが
ノリコが呆然としたまま動けないのを見て…足を止めた



「町で聞いてきたんだが…例の渡り戦士と島の娘が…
 ああ…やっぱりここにいたんだな…」

宿の亭主が外出先から帰って来て…
黙ったまま立ちつくしている二人を見た

「どうかしたんか…」

亭主のその問いがきっかけになって
我に返ったノリコの顔がかぁっーと赤くなった

「もう…や…やだ…イザークったら!」

ノリコはくるりと向き直るとばたばたと階段を駆け上がっていった
惚けたように突っ立ったままのイザークに
亭主は首を傾げ…おかみさんはただ頭を横に振った




「ノリコ…」

毛布をかぶったまま出てこないノリコに
ベッドの横に立ったイザークは声をかけた


部屋へ行ってみたらドアには鍵がかかっていなかった
おれを閉め出すほど怒っているわけではないのかと
イザークは胸を撫で下ろしたのだったが…

毛布をめくってみると恨めしそうな瞳が自分をみつめて
ため息をつきながらベッドの端に腰を下ろした

恨めしそうに睨みながらも…
ノリコは髪を梳くイザークの手は拒まない

拒めるわけがない…
だって…あたしは…


「…どうして…わかったの」

くぐもった声がして…イザークは手を止めると少し躊躇する
ノリコに嘘をついたりごまかしたり…する気はなかった


「おれの五感は…普通の人間より数倍鋭いんだ…」


イザークの言葉を聞きながら…
ノリコはその意味を頭の中で理解しようとする


そうなんだ…
ただ強い…ってだけじゃなくて…
イザークは人の気配とかも…敏感に感じるし…

五感…
視覚…聴覚…味覚…触覚…そして…

「…!」


「あの時…おまえは怪我もしていなければ…
 返り血も浴びていなかったから…」

泣き出して…安心して…眠ってしまったノリコを抱き上げた時…


再び真っ赤な顔になってノリコは傍らに座るイザークを見上げた

「…だったらイザーク…毎回…気づいていたの?」

最初の旅の時は…どちらかというと…野宿する方が多かった…
それなのにいつも…あの時は…宿にいた

偶然なのかな…って…漠然と思っていた


彼は…そんな形で…ずっと…
自分に気をつかってくれていたんだ…

そのことに初めて気づいたノリコだった


恥ずかしがっていることじゃない…

イザークの優しさにノリコは眩暈すら覚える


「イザーク…」

彼を責めた自分を悔やみながら
ノリコは愛しい人の名を感謝を込めて囁いた



だって…あたしは…


イザークが好きなんだもの…





「いやぁー…驚いたな…」

翌朝…二人のことが気になった町長とお医者さんが宿にやってきて
お茶を飲みながらノリコとイザークのことを話している

「あの剣士…以前はやけにクールな男だったんだがな…」
「ノリコのことをひどく冷たく突き放していて…
 それでも彼を慕っているノリコが気の毒だったものだが…」
「まさか…ああなるとはなぁ…」

お医者さんが感慨深げにそう呟くとお茶をズーとすすった

「ノリコが泣き出した時も…あん時はひどく冷静だったくせに…
 ゆうべは…おろっとしていて見ておられんかったわ」

ヒャッヒャッと笑いながら楽しそうに町長も語らっている

「ここでも…なにやらノリコが真っ赤になって逃げていった時の
 彼の顔の情けなさといったら…
 この男でもあんな顔するんだって逆に感心しちまったね」
「…なんでノリコは赤くなったんだね?」

昨夜の出来事を話す宿の亭主にお医者さんが訊ねるが
亭主もさぁてと首をひねっておかみさんを見た
おかみさんは笑って首を振る

「だめですよ…こればっかりは…言えませんからね」

あれから…あの二人、仲直りはできたのかしら…

自分の発言のせいでまた気まずくさせてしまったことに
おかみさんは多少後ろめたさを覚えている

「でも…あたしはあの頃の彼も…
 ノリコを大事にしていたと思いますけどね…」

ただそれが…態度に出なかっただけで…


「やっこさん…少しは素直になった…ということか」
「ああ…それはきっと…」


それはきっと…


『よかったァ…』

イザークが傷ついていないと知った時のノリコの笑顔を
お医者さんは思い出して納得するように頷く

どれだけ頑な心でもあれには降参するだろう…


「ノリコのおかげだな…」
「そうだねぇ…」

おかみさんもなんだか嬉しくなって相づちをうった


「ま…しかし、なんだなあれは…」

町長が少し真顔になってみんなの顔を見渡すとコホン…と咳払いをする

「あいつ…完全に尻に敷かれとるぞ…」

反論するものは誰もいなかった





「ゆうべはちょっと後悔しちゃったけど…」
「…ん?」
「想い出の再現とか言って…ここまで来て…」

イザークの腕の中で目を覚ましたノリコは
少し甘えるように…その筋肉質な胸に頬をすり寄せる

なによりも…ここが一番好きだから…


「でも…やっぱり…来て良かった」

イザークがあの頃考えていたこと…
知らないより…知った方がずっといい…

どんなことでも…
それは二人のことだから…

あたしは知りたい…


「…だからね…イザーク…」

そう言って自分の胸から顔を上げたノリコのその大きな瞳に…

ただ…愛しい…という想いしか浮かばなくて…
他にその気持ちを示す手段を知らなくて…

イザークはそっとそこにキスを落とした


「…イザークの好みの女性ってどんなの?」

教えてくれるまで絶対に離すまいと…
ノリコは彼の腕を必死と掴んだ

「…」


短編

Topにもどる


Copyright © 2008 彼方から 幸せ通信 All rights reserved.
by 彼方から 幸せ通信