イラスト:mママ様


雨に咲く花 (前)





「……!」

曲がりくねった道の先に急に広がった光景にノリコは言葉もなく立ちつくした。 

明け方まで降った雨の名残りで空気はしっとりと湿り気を帯びている。水はけが良い土地なのだろうか、道はそれほどぬかるんではなく歩きやすかった。


「急いでないのなら、連れて行ってあげたらいい」

一晩泊まっただけだったが、この剣士が連れの娘を呆れるほど大事にしているのを目の当たりにした女将が、宿代を払うイザークに耳打ちした。

「今がちょうど盛りだからね…特に雨上がりはきれいに咲き乱れるんだよ」


ところどころに石段があり、馬では無理だというので町から徒歩で来たそこには、群生した低木が今を盛りに見事な花を咲かしている。この場所でしか見られないという その花は、ノリコの世界にある花を彷彿させた。


「雨に咲く花…そう呼ばれているそうだ…」
「…」
「ノリコ…?」

聞こえているのかいないのか…無反応なまま立ちすくんでいるノリコ。イザークは不審気に眉を顰めると、ノリコの肩を掴んで自分の方へ向かせる。その目から涙が一筋すーっと頬を流れた。

「ご…ごめんなさい」

ノリコは片手で涙をぬぐうと肩に置かれた手をそっとはずす。

「ちょっと…歩いてみていい?」
「あ…ああ」

両手を所在なげに浮かしたまま、イザークは歩き出したノリコの背中を見つめていた。



『典子は本当に紫陽花が好きなんだな…』
『そっかな…』

おじいちゃんが育てた紫陽花をいつもじっと見つめていた幼い頃のノリコ。


『典子ったら…何してんの…』
『相変わらずぼけてるんじゃない…』

学校帰りに寄り道した公園で見事に咲き誇っていた紫陽花に立ちすくんだノリコを、遠慮なくからかう友人たち。

この花に魅入られてしまったかのように動けなくなる自分…。どうしてなのか、ノリコはわからなかった。


思い出と現実の狭間を漂うノリコは、紫陽花そっくりなその花のむせかえるような芳香に眩暈を覚え、身体が大きくふらついた。

「あ…」

いつの間に傍に来ていたのだろうか…イザークの逞しい腕がノリコを支えている。

「ありが…」

最後まで言わせずにイザークはノリコをかき抱いた。


ノリコが自分の世界に想いをはせていることは訊かなくてもわかった。けれど咲き乱れる花の間を縫うように歩くノリコの姿はどこか儚げで…そのまま消えていってしまいそうで…突然胸がしめつけられるような不安を覚えたイザークはノリコに向かって走り出していた。

『行くな…どこにも行かないでくれ…』

あの時のように、そう心の中で叫びながら…。

すぐ傍までたどり着いた途端大きく傾いたノリコの身体を、力のかぎり抱きしめたのだった。


イザークが震えている…

自分の態度がイザークを不安にさせてしまったのだとノリコは気づいた。
心配しないで…そう言おうとして顔を上げると唇がふさがれてしまった。

しばらくの間、二人はそうして抱き合っていた。

雨に咲く花の中で…



ようやく身体を離した二人は、どことなく気まずい思いのまま無言で町へと帰っていった。

あの花の中で何を見て何を考えたのか…そう問われたとしても、ただあの花によく似た花が自分の世界にあるのだというだけで、その他のところを上手く説明できるかノリコは自信がなかった。イザークはイザークであの時こみ上げてきた、ノリコが消えてしまうような不安を思い出すのが恐ろしくて…二人は結局そのことに触れないまま旅を続けた。

それがいけなかったのだろうか…後になってイザークは思ったものだ。


町に戻って預けてあった馬に乗って旅立った頃には、ノリコは普段のノリコに戻っていつものように笑顔でおしゃべりを始めたので、イザークは内心ほっとした。

それからもノリコは相変わらず屈託のない笑顔をイザークに向けるし、イザークも以前と比べれば話もすれば冗談なども言うようになっていた。

数日後に立ち寄った町で祭神の役を担わされた上、その後ケイモスが現れそれどころではなくなった所為もあって、イザークは一時あの出来事を忘れていた。けれどそれが小さな棘となって心の奥に刺さったまま、後日彼を再び苦しめる事になるとは、さすがのイザークも思ってもいなかった。



それはアイビスクの村での出来事だった。

最初は可笑しそうに家族の話をしていたノリコが、ふと真顔になって家族に思いを馳せた時、ノリコの姿が消えかけたのだ。錯覚だったのかもしれないが…イザークには確かめる術はなかった。ただ、あの花の中で感じ取ったノリコと同じ…彼女は確かに自分の世界と一瞬だったがリンクしたのだった。
イザークは、どれほどノリコと想いを合わせようと、ノリコの世界は決して彼女とは分かつことが出来ないのだと悟った。

いつか彼女は自分の世界へ帰っていく運命にあるのだと…


そして元凶との最後の戦いの時…

ノリコがその門を開けてくれた光の世界の中で、ノリコの世界を感じ取ったイザークは、その時が来たのだと確信した。
ノリコのこの世界での役目は終わった。
今の自分はノリコを家族の元へ返してやることが出来る。

運命という名の案内人がイザークに告げていた。

ノリコを元の世界へ返してやれと…


イザークは自分の中にあった光の力を心から呪ったものだった。



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