台風一過 前


非日常な出来事が確かな現実味を帯びて、自分の生活に静かに近づいてくる足音が聞こえるような気がする。

午前中は晴れていたのに、空は灰色の雲に覆われている。あの日もそうだったな…窓の外を見ながら千津美は先週末の出来事を思い出していた。
あの趣味の悪い部屋で、もし功が自分のわがままな願いをききいれてくれずに抱かれていたとしても…それでも千津美はまたあの状況になりたいかと訊かれたら、喜んではいと答えるだろう。姉が嫁いでいってからずっと一人ぼっちの夜を過ごしてきた千津美にとって、功と過ごした一夜は格別な出来事だった。

抱きしめられて…
ドキドキして…
嬉しくて…
安心して…

気がついたらぐっすりと眠ってしまっていた自分…


「なにボケッとしてるのよ…!」
「きゃあ…」

三浦に背中をドンと叩かれて、机の上からノートや筆入れなどがガラガラと音を立てて落ちていく。慌てて拾おうとして椅子からずべり落ちてしまった 。

「まったくもう…あんたってば一生ドジが治る気配がないんだわ」

毒舌を吐きながらも落としたものを親切に拾ってくれる三浦。

「昨日はどうだったの…?」

好奇心と心配を五分五分に織り交ぜて園部が尋ねる。

「え…あ…あの…」

答えに詰まった千津美の表情が暗くなったので、三浦も園部もやっぱりね…という顔で肩をすくめた。



「ど…どうしたの…?」

それは昨日のことだった。
いつものようにドジって転びかけ両手を泥だらけにした千津美が手を洗おうとトイレへ入ると、洗面所の前で長谷の友人の小松が泣きじゃくっていた。

「あなたには関係ないわ…」

心配して声をかけた千津美を、慰めていた長谷がきっと睨んだ。


「ふーん、小松さん泣いてたの?」
「この前、彼氏ができたって散々自慢してたのにね…」

手を洗って出て来た千津美が待っていた三浦と園部にそのことを話すと、あまり彼女に好意を持っていない二人は顔を見合わせた。数週間前たまたま学食で同じテーブルについた小松が、聞きもしないのに最近合コンで知り合った彼氏のことをペラペラと話し出した時のことを思い浮かべいているのだった。


イケメンで実家も金持ち、親のコネで大企業に就職が決まっているという彼から貰った指輪を自慢げに見せびらかしていたのを、げんなりとしながら聞いていたが…

「…それって藤臣くんと同じじゃない」

彼氏の大学名を聞いた園部がぽろっと言った。

「 誰、それ?」
「この子の彼氏だよ」
「えー志野原さんって彼氏がいたの?」
「うん、あの…高校生からつきあっているの…」
「ドジには勿体ない彼氏…」

ぷ…と小松は吹き出してから可笑しそうに言う。

「志野原さんにしたら、どんな男の人でも勿体ないんじゃない…」
「あなたね…いくら事実だとしても、その言い方失礼よ…」
「み…三浦さんってば」

そんなやり取りをした後、功も4年で就職は公務員と言えば、はっきりと馬鹿にしたような顔をして言ったものだった。

「ま、一流企業勤めの彼よりあなたにはお似合いね」

それを聞いた三浦は相当憤慨したが、千津美は必死に止めた。そんなイヤミを言われることはもう慣れていたから。

「志野原さん、さすがに打たれ強いのね…」

園部が妙な感心をしていたが…

平気なわけではない…と千津美は思う。そりゃ、傷ついて落ち込む…高校生の頃は功に迷惑をかけているとか、功に相応しくないとか悩んだことも数えきれない程ある。ドジでチンケで取り柄なし…自分はそう言われても仕方がないと思うけど…でも…

いつの頃からか、千津美は功が自分を揺るがない視線で見ていてくれることに気づいていた。こんなにドジな自分に呆れることも、怒ることもなく…静かに…ずっと見ていてくれる…だから自分も前を向いていこう…無理をするのではなく、出来ることを精一杯頑張ればそれでいいのだと…そう決めたのだった。



「志野原さん…」
「え…」

名前を呼ばれて千津美が振り返った。先ほど、自分を追い払った長谷が立っていた。

「さっきは、ごめんなさい…ちょっと、気が立っていて…」
「ううん…こっちこそ、余計なこと聞いたから…」

長谷がカッとなるとヒステリー気味になることは本人も自覚しているし、千津美も以前、被害に会ったので知っていた。

「実はお願いがあるの…」
「・・・」



小松が彼と連絡が取れなくなったそうだ。「今度電話するよ」と言って別れたのに電話はかかってこない。こちらからかければ、母親が出て息子はいないと言う。何度目かにはキレた母親が「あなたとは話したくないといっているのがわからないの」と怒鳴った。

「きっと親に反対されてるんだわ」

ハンカチを目に当てて小松は泣き崩れる 。

「あほか…大学4年にもなって親が反対したくらいで電話もかけてこないわけないわ。振られたってことじゃないの…」
「三浦さん…本人にそんなこと言っちゃダメよ」
「いや…早めにわからせた方が…」

そんな会話をこそこそと三浦達がしている。

小松は彼の自宅の住所を知らなかった。彼と話がしたいという小松の為に長谷は千津美に功の大学へ一緒に行ってくれないかと頼んだのだった。

「木曜日の午後は出席重視のゼミがあるから、絶対に大学にいるはずなの」
「志野原さん、あなたあの大学には行ったことがあるのでしょう」
「う…うん」

功の剣道の試合を見に行ったり、大学祭にも行ったことはあったが、案内しろと言われても自信は全くない。

「…んとに、あんたったら人がいいんだから」
「この前、あーんなに馬鹿にされたのにね…」
「で…でも…」

三浦と園部は呆れていたが、もし…理由もわからないままに、自分が功と連絡が取れなくなったら…そう考えると千津美は長谷の願いを断ることがどうしても出来なかった。


「な…なんで…あんたがここに…」

案ずるより産むが易し…小松の彼の学部が入っている校舎ですぐに彼を見つけることが出来た。

「だって…連絡くれるって言ったじゃない」

責める声をあげた小松を、人目を気にしたのか、彼は慌てて人気のない校舎裏へと連れて行った。

千津美はもう自分の役目は終わったと帰るつもりだったが…

「…?」

長谷がしっかりと腕を掴んで離してくれない。長谷を見れば相変わらず取り澄ましたような横顔だったが…。
ああ…そうか…完全アウェイのここで、小松と彼との対決につきあう覚悟はしても…一見気の強そうな長谷も不安だったのだと千津美は気づいた。こんな自分がいるだけでも、少しでも長谷が安心できるなら…千津美はその場所に留まって成り行きを見守ることにした。

「どうして連絡をくれなかったの…」
「あのな……おれ、あんたとつきあう気、もうないから…」
「ひどい…好きだって…愛してるって言ったじゃない…他の女なんかもう考えられないって…指輪もくれたわ…将来を誓ってくれたのに…」
「…」
「だから…あたし…初めてだったのよ…あなたが…」

そう言った途端号泣する小松を長谷が抱いて慰める。千津美はいたたまれない思いがする。

「ひどいわ…小松さんを騙したのね」
「騙した…おれが?」

長谷から睨みつけられた彼が、その口元に苦笑を浮かべた。

「おれはただ…こいつがおれに言って欲しいことを言ってただけだぜ」
「なんですって…」
「ねぇ、あたしのこと好き?…愛してるって言って…他の女の人と比べてどう?…将来を約束して…」

小松の口まねをする彼。

「有名なレストランで食事…初めての時は夜景のきれいなホテルがいい…テーマパークデートは付属のホテルで一泊しなくちゃいけない…おれはいちいちあんたの願いを聞いてやったんだぜ…」
「だって…それはあなたがあたしのことを大事に思ってくれたから…」
「おれだって最初はそう思ってたよ…でも、あんたは一度だってありがたいなんて思ってなかった…いっつも当たり前な顔をして…おれがうんざりしてきたことにも気づかないでさ…」
「そ…んなこと…知らないわ」
「2・3度抱いただけで両親に紹介しろとか…海外勤務があるならヨーロッパがいいとか…おれ、はっきり言って鳥肌が立ったぜ」
「・・・」
「だったら、いやなことはいやだってはっきり言えばいいじゃないの…逃げないで、男らしく」

小松に代わって長谷が抗議する。

「こいつの重さを考えたら、逃げたかったんだよ…」


言葉が溢れている…
千津美は先ほどから胸が苦しくってしかたがない…

二人のつきあいの中で交わされた自己満足と欺瞞に満ちた言葉…
今、相手をののしり、責任を押し付け合う言葉…

自分に向けられた悪意の籠った言葉なら受け止められる…その結果どんなに落ち込もうがそれは自分自身の問題だった…けれど今、誰にも受け止められない言葉が行き場を失って漂っている。

いやだ…気分が悪い…

思わず一歩後ろに下がった途端、バランスを失って身体が大きく揺らいだ。

「志野原…」

身体を支えてくれたのは、大きく暖かな手だった。



「…ありがとう…」

功が買って来てくれた飲み物を受け取ると一口飲んだ。冷たくて甘いジュースが先ほどの覚束ない不安な気持ちをきれいに晴らして、気分がだいぶ良くなってくる。

ジュースの所為だけではないかも…

木陰のベンチに座らされた千津美の前に、屈んで心配そうに自分を見上げる功がいる。

「で…でも…どうして藤臣くんがここにいたの…?」

小松の元カレはもう姿を消し、長谷と小松も隣に座って功から貰った飲み物を飲んでいた。

「図書館でレポートを書いていたら、おまえの姿が見えたんだ」
「…そっか……驚いた…?」
「まあな…」

あの夜の翌日に別れてからずっと千津美のことが頭から離れなかった。レポートを書きながらふと窓の外を見れば…本人が歩いている。一瞬幻を見たのかと思った功は慌てて図書館を飛び出し、後を追ったのだった。

「話が込み入ってるようなので立ち入る気はなかった…」

男女が言い争って、女の友人も時々口を挟んでいたが、千津美は少し離れたところで青い顔をして立っていた。

「だが…お前、気分が悪そうだったからな…」

なぜ千津美がそこにいなければいけないのか理解できなかった。こんな争いに彼女を巻き込みたくない。出来れば千津美の手を引いてその場から連れ去りたかったが、事情を知らない功はただ黙って千津美を見ていた。

案の定、少し後ずさって大きくふらついた彼女の身体を抱き止めた。ほっと息を吐いた功は、ぎゅっとそのまま抱きしめた。


「熱はないな…」

念の為に千津美の額に手を当ててみる功。

「ちょっと暑気あたりしただけだったら…休んだから大丈夫だよ」

小松の前では、二人の言い争う言葉を聞いているうちに気持ちが悪くなったとは言えない千津美だった。

「送ってやりたいが…今日中にどうしてもレポートを仕上げなければならないんだ…」
「ほ…ほんとにもう平気だってば…気にしないで…ほら…」

笑顔を見せると、元気そうにぴょこんとベンチから立ってみせる 。
先ほどから大人しく二人の会話を聞いていた長谷と小松も立ち上がって、3人は帰ることにした。


「ごめんね…藤臣くんの邪魔しちゃったね…」
「…いや、ちょうど一休みしようと思ってたところだった。」

戻る途中、千津美は申し訳なさそうに功に言う。

「明日は学校終わったら豪放寺くんのところでバイトだっけ」
「…ああ」

図書館の前で功が立ち止まった。

「さっきはありがとう…さようなら」

そう言って別れようとした千津美に、功が声をかける。

「志野原…」
「え…」
「明日…バイトの後に行ってもいいか」

一瞬だけ千津美の目が驚いたように見開かれたが、すぐに笑顔になった。

「う…うん、バイトの後じゃ、きっと藤臣くん…お腹へってるね…何か作って待ってるね…」

千津美の返事を聞いた功は、ポンと千津美の頭を軽く叩いてから背中を向けて図書館へ入っていった。


二人はほとんど外で待ち合わせする。たまに功の家に千津美が呼ばれることがあったが、そこには功の家族がいた。千津美のアパートまで功が送って行く事は何度もあったが、特別な用がない限り部屋の中には入らない。

功が千津美の部屋を訪れることなど今まで一度もなかった。

自分たちの関係が大きく変化していくのを千津美は感じる。でもそれは…決していやではなかった。


「…原さん」
「え…あぁぁ、ご…ごめんなさーい」

考え事をしていた千津美は長谷に名前を呼ばれて、我に返った。

「こっちこそ、今日は無理につきあわせてしまってごめんなさい。」
「そ…そんなこと気にしないで…わたしってば、ただ立ってるだけで何の役にも立たなかったし…」

おまけに倒れそうになって心配までかけて…相変わらずドジな自分…でも、そう言えば小松さんの彼氏…いつの間にかいなくなってたっけ…

自分の所為で小松と彼の話し合いが中断させてしまったのかと千津美は青くなる。

「こ…小松さん…け…結局…彼…とは… 」

しどろもどろに尋ねる千津美から小松はぷいっと顔をそらした。

「いいの、言いたいことは言ったし…もう無理だってわかったし…」
「そ…そうなんだ…」

なんとなく気まずく…千津美は言葉を濁す。


「あなた達の会話って…」
「え…」

小松がぽつんと言った。

小松はもう自分の間違いに気づいていた。
自分が信じていた恋人同士の会話…上っ面なお世辞や、甘えれば甘えるほど相手が喜んでくれるという思い込み…それがどれほど欺瞞に満ちたものだったか…

千津美と功の間にはそんなものはなかった…
お互いがお互いを思いやる言葉しか、そこにはなかった…


「バッカみたいに地味な会話だったわね…」

小松の目から再び涙があふれて…千津美は慌てる。

「こ…小松さん…ごめんなさい…な…何か気に触ったの…」
「違うの…違うのよ…」

長谷がそんな小松の肩を支えて言った。

「志野原さん…」
「は…はいっ」

緊張しているのか、青い顔で口元にこぶしを握りしめている千津美に長谷は微笑んだ。

「かっこいいのね…あなたの彼…」
「え…あ…はい」

思わず肯定してしまってから慌てる千津美。

「そっ…そうなの…わたしには似合わないって、昔っから言われてて…」
「そうかしら…結構お似合いだったけど…」
「え…」

それ以上長谷は何も言わず…駅までの道を歩いていった。
駅で千津美は二人とは反対方向だったので、そこで別れた。


「あなたに来てもらって良かったわ」

長谷から別れ際にそう言われた千津美は本当に嬉しそうに答えた。

「ありがとう…」



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Chizumi & Fujiomikun

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