二人の物語



この四月に功は社会人になった


「藤臣に採用面接突破は無理だろう…」

大方の予想を裏切って、功は一流企業にすんなりと就職が決まった

本人は一流企業でばりばり働くより
地方公務員にでもなって、暇な時間に子どもたちに剣道を教えるような
そんな生活がいいかなと思っていたのだが
試しに受けてみた入社試験にあっさりと受かってしまった


学生時代の剣道部での活躍が認められたのか
べらべらとマニュアル通りの回答をする他の学生たちの中で
寡黙な彼が目立ってしまったのか、それはわからない


「えっ…藤臣くん、すごーい」
千津美が本当に嬉しそうに言ってくれたので
功はそこへ就職することに決めた


千津美に本心を打ち明けていれば…と
後でどれだけ後悔するはめになるかは、その時はまだわかっていなかった


新入社員となった功は黙々と仕事をこなそうと努力はしたが
学生時代と違って真面目にやっていればそれで良いというものではなかった


新人達は上司や先輩達に気に入られるために必死にならなければならないらしい
お世辞やごますりは日常茶飯事で、休日でもゴルフの送迎だの洗車だのと呼び出される

もちろん功へも声がかかった
さすがに会長の古希のパーティーの裏方準備は仕事だと思って手伝ったが
それ以外のことは断った

そこまでして出世しようとするつもりなど功にはなかった


功の寡黙な性格は相変わらず周囲に受け入れられない

「あいつがいると、なんだか空気が重たいンんだよなぁ」
「ほんとうに、むっつりして何を考えているのかわからんし…」


上司からの風当たりは強く、同僚達からは煙たがられたが
そんなことは功は慣れていたので、あまり気にはしてなかった


飲み会もほとんど断っていた功だったが
新人歓迎会にだけは出席した

そこで功は酔っぱらった女子社員から皆の前で告白されてしまった

「藤臣さんが入社した時から、ずっと好きだったんです」

おおっ…と全員が好奇心をつのらせて盛り上がった
女の子達は、きゃーあたしだって…と騒ぐ
普段冷たい上司や同僚達までもが

「藤臣ぃ…女にここまで言われて断ったら男じゃないぞ」
「今日はもうお持ち帰りかな〜」

とはやしたてた


「おれにはもう好きな娘がいる」

功が表情も変えずにあっさりと言ったせいで、その場の空気が一気にしらけた


挨拶と必要最低限のことしか言わない功は、使えない奴のレッテルを貼られ
孤立していくだけでなく、何かと嫌がらせすら受けるようになっていた

功にとってもうんざりするような毎日だった


おれはここでなにをしているんだ…


何度そう思っただろうか…






「ちょっと、あなた…」

声をかけられて千津美が振り向いた
「はい…?」

「志野原千津美さんでしょ」

千津美が大学4年生の夏の始めの頃だった



話したいことがあると言われ、近くの喫茶店へ行った
千津美と同じ年頃かもしれないが、すごくきれいで
身につけているものもすべて高価そうなものばかりな垢抜けている女性(ひと)だった

買い物帰りでスーパーの袋を抱えていた千津美とは
ひどく対照的だった


千津美ひとりだったら、それほど買い物する必要はない
でも近頃、藤臣くんが仕事帰りにふらっと寄ることが多くなった
彼はなんだか悩んでいるようだった
相変わらず何も言ってくれないけど、千津美も余計なことは訊かない

せめて藤臣くんに美味しいものを食べさせてあげたい…
そんなことくらいしか、わたしには出来ないから…





そのひとは、藤臣くんが勤めている会社の会長の孫娘だった

「 サラリーマンてね…」
千津美をじろじろ見ながら彼女が言った

「どれだけ真面目に働こうが、実力があろうがね
 もっと別なスキルもいろいろ要求されるものなの」

「そうですか」

彼女の真意がわからないまま、千津美は相づちを打った

「でも、藤臣さんてそっちの面が欠けているらしくって…苦労しているのよね」

功が就職して以来それで悩んでいたのだと、千津美はその時初めて納得した

「それに…」
彼女は意味有りげに千津美を見た

「あたし…藤臣さんから聞いたんだけど…」

それは真っ赤な嘘で、彼女は人を雇って調べさせただけだった

「あなた、相当ドジなんですってね」
くすっと笑った

「あ…はい、そうなんです」
千津美はいつものようにそれを否定しない

「あなた…彼にいままでどれだけ負担をかけてきたか
 彼がそれをどれかけ迷惑に思っているか、わかっているの?」


かぁっと、千津美は赤くなった

藤臣くんにとって
わたしは 負担そのもので迷惑ばかりかけていたんだった

つきあい出した当初はそのことで随分悩んでいたけど
彼はいつも優しかったから…
なんだかいつのまにかそれでいいものだとばかり思い込んでいた

今あらためてそのことを思い出した


「ごめんなさい…本当はこんなこと、あなたに言いたくないんだけど…」
そのひとは辛そうに言った

「彼…あたしともう、そういう関係なの」

え…

「あたしたち、婚 約 するつもりなの」

彼女は婚約の二文字を強調した

「でも、彼…優しい人でしょ、どうしてもあなたには言えないって…」

そんなこと信じられない…

「あなたさえ、彼から離れてくれたら…
 あたしたち正式に発表できるのだけど」

うつむいて震えている千津美に優しく彼女が言った

「藤臣さんのためなのよ…
 彼の将来のため…あなたから、身をひいてくれないかしら」





千津美はどうやってアパートへ戻っていったか覚えていなくて
気がつくと、玄関に座りこんでわんわん泣いていた


初めて藤臣くんと会った時から今までのことが
走馬灯のように頭の中をくるくると廻って行った



最初っから、不釣り合いだと非難されていた
彼がわたしとつきあっているというだけで
いろいろな人から散々厭味を言われたり嫌がらせもうけた

そのたびに、めげてきたけれど
藤臣くんが気にするなと言ってくれたから
ずっと傍にいてくれたから
わたしはそれでいいんだと思ってしまってたんだ


藤臣くんの気持ちに疑いなど持てない…持てるわけがない
けれど就職してからずっと辛そうだった彼の姿が頭に浮かんでくる
あの彼女と一緒になったほうが、藤臣くんのためになる
会長の孫娘さんとわたしとでは全く比較にすらならない

それにわたしが離れれば
藤臣くんはもうわたしみたいなドジな子の面倒を見なくてすむ
負担が無くなる…



今まで散々迷惑をかけてきた藤臣くんのために
わたしができることは、それしかないんだね

千津美はそっと心の中で功に語りかけた…


一晩中泣き明かして千津美は決心した




「何を言っているんだ、おまえは… 」

功はそう言ったけど、千津美は昨日の決心をしっかりと心に抱きしめた


待ち合せした駅前で、会った途端千津美は功に別れを告げた
少しでも一緒にいれば、決心が鈍ってしまう

「ごめんなさい…でも、わたし他に好きな人ができてしまって…
 だからもう藤臣くんとは会わない…」

ごめんなさい…ともう一度叫んで千津美は、そこから走り出した

危うく転びそうになったけど
千津美を抱きとめてくれる人はもういなかった




志野原が、他に好きな男だと…
それを信じろというのか…


功は随分長いこと、雑踏の中に立ち尽くしていた





それまで功を疎んじていた上司が
いきなり態度を変えてニコニコしながら
会長の孫娘と食事に行けという

本来だったら断っていたが、千津美とのことで茫然自失状態だった功は
何も考えられずに、言われた時間に言われた場所へ向かった


都内でも指折りの高級ホテルのレストランだった

なんでも彼女は、会長の古希のパーティーの準備を手伝っていた功を
見初めたそうだ




彼女の言葉は、千津美と同じ言語なのか…?

功はただあきれて聞いていた


誕生パーティーに有名なシンガーが来たとか
知り合いの有名人、政治家…
嬉々として自慢げに名前を挙げていったかと思うと

会社のかなり上の役員のうわさ話をはじめた
彼女はその人物が年配で立派な人物であるにもかかわらず
見下したようにしゃべり、話からは悪意しか感じられなかった
そんなおしゃべりが延々と続く…

前菜がきた時点で、功はもうその場から立去りたくなった


千津美も黙って聞いているおれにこうしてよくおしゃべりをした
ドジした失敗談を落ち込んで話すこともあれば
あの人はきついことを言うけれど本当は優しいひとだとか
すごいきれいな女性(ひと)なのに
とても親切にしてもらったなどと嬉しそうに言ったり
彼女の話は、聞いていていやな気持ちなることなど一度もなかった

いや、小室の話をされた時は少し複雑だったな

その時のことを思い出してふっと笑った功は、はっとする

おれはまたあいつのことを考えている…




「藤臣さんたら…緊張しているの?」

一言も話さない功に彼女は笑って言った


「いいや」



最後まで我慢した功は、彼女を送ろうかと申し出たが
彼女はバッグから鍵を取り出すと、彼の目の前にかざした


「今夜はスイートを取っているのよ」





二人が別れたということは、友人たちにも伝わっていた


今まではどんなにささいなことでも
あたしたちに話していてくれた千津美が口を閉ざしている

ただ、もう藤臣くんとは会わない…というだけで

三浦と園部は歯痒かったが
千津美がそれ以上しゃべらないのでどうしようもなかった


豪法寺も小室も真相は何も知らなかった


「本当にこのままでいいのかしら…絶対、何かの間違いよ…」
「でも、もう二人とも二度と会わないって決めたみたい」

ねっ、と豪法寺を見た

「おれもその話を聞いて、藤臣の奴と連絡を取ったんだが
 あいつ、志野原とは別れたと言うだけで、おれと会おうともしない…」


「あいつのことは放っといた方がいい…」
小室がつぶやいた


今さら志野原と別れただと…
あいつだったから、おれは彼女をあきらめたんだ


二人が別れたと聞いて、おれは藤臣を職場の近くで待ち伏せた

「なぜだ…藤臣?」

おれを無視して、やつは無言で立去ろうとした

「待てよ…」
藤臣の腕をつかんで止めた

「おまえは絶対彼女を大事にするとおれは思ったから…」

「思ったから、なんだ」
藤臣がおれを見た

「なんだと…」
おれはやつの胸ぐらをつかんだ

「殴れよ…」
抗いもせずに藤臣が言った

なんてこった…
藤臣はもう以前の奴ではなかった
その目は完全に死んでいた

こいつはすでに打ちのめされている

おれが手を離すと、藤臣は何も言わずに立去って行った






「藤臣!いい加減にしてくれ…」
上司が功に泣きついていた

「会長直々のお達しなんだぞ…」

功はそんな上司をただもの憂げに見ただけだった

「大体おまえはこの前…
 お嬢様をほったらかして帰ったそうじゃないか」


あの状況をそう言うのだろうか…


「ずっとあなたのような男性(ひと)を探していたのよ」
彼女はそう言って笑った


「今の会長にはね、あたし以外の孫がいないの」

「?」

「あたしと結婚すれば、あの会社はあなたのものになるのよ」

なんだと…
結婚?
いったいどう考えたらそういうことになるんだ…


「興味ないわけないわよねぇ」

「しかし、あんたはおれのことなど知らんはずだ」

「関係ないわ…」
いともたやすく彼女は言い切った

「あなたは素敵だもの…一緒にいて自慢できるし
 あたしたち絵になるでしょ…大事なのはそこなのよ」

あんな娘なんか、笑わせる…
とはさすがに声には出さなかった

功はますますわけがわからなくなってきた
同じ空間にいながら、別世界の人間と話している気分だった

「お互いいろいろ過去は忘れて、これからの人生楽しみましょうよ」

鍵をおれの手に滑らしてきた


おれはその鍵をテーブルに投げつけると、そのままその場を去った
彼女がなにか叫んでいたようだったが、それ以上彼女の言葉を聞きたくなかった




孫娘には弱いと評判の会長から、おれに食事の誘いがあるそうだ…

功はもう、うんざりしていたので断った






千津美にとって功と別れてからの日々は
深い霧に包まれて何も先が見えず手探りで歩くような毎日だった

友人たちに色々聞かれた
心配してくれた豪放寺くんや小室さん、章さんまで連絡をくれた

でも何も答えられなかった

藤臣くんをきっと傷つけてしまった…
ばかな私は他に彼を納得させる理由を考えられずに
あんなことを言ってしまって

ごめんなさい、ごめんなさい…
あれから何度も藤臣くんに謝っていた、心の中で…

あのひとが言ったことなど少しも、私は信じていなかった
でも就職してから慣れない会社勤めで
ひどく辛そうだった藤臣くんをずっと見てきていた
彼女とつきあうことで、彼が楽になれるのならあたしは構わなかった…

たとえいまだに藤臣くんのことを思うと涙が出てきたとしても…




幸いなことに千津美の就職先はもう決まっていた
アルバイトで行っていた都内でも有数の繁華街のタウン誌編集部…
なぜだか知らないけれど、千津美はそこの街の人たちに気に入られていた

お給与と言っても、バイト代に毛の生えたくらいだが…
編集長は苦笑いをして言った

「あんたには、不思議なパワーがあるんだよな…」
「パワー?」

「ああ…」

編集長は窓から見える高い建物を指差した

「あんたも知ってる通り、ここも大手の商業ビルやスーパーが台頭してきて
 昔ながらの商店街なんか蹴散らしそうな勢いだったんだ」

くっと思い出し笑いをしながら彼は続けた

「今後どうするか話し合う最初の会合をここで開いた時
 ちょうどあんたがバイトできたんだよな」

近郊の他の駅前商店街は、結局争いに負けて
シャッター通りとなってしまったところが多い

話し合いは最初から諦めきった意見しか出なかった…
どれだけあいつらから賠償金をせしめられるか…
そこが話の要点になりかけていた

その場には沈鬱な空気しか漂っていなかったそんな時…


「きゃああっっっ」
みんなが一斉にそっちをみた

お茶を出そうとした千津美が足を滑らせ
床中に茶碗の欠片がばらまかれていた


「あんた…大丈夫か?」
「火傷してない?」
「ああ…指から血が出てるぞ」

千津美に気を使ってくれる人もいれば
茶碗の欠片を拾って、その場をきれいに拭いてくれる人もいて…
全員が千津美を心配して周りに集まってきた

みんなに迷惑をかけてしまって恐縮した彼女は
すいません…すいませんと両手に絆創膏を巻かれながらも何度も謝って
片付けを手伝おうとして、またドジって…
そんなことを繰り返しながらも懸命に頑張っている千津美の姿に
皆くすくす笑いながらも、なぜだか目からうろこが落ちたような気になった

努力する以前に諦めてしまっている自分たちが恥ずかしくなってきたのだった

それまでの空気が変わった
みんなの心がひとつになり、もう少し頑張ってみようということになった


それから月日が経ち
その商店街は独自に いろいろとイベントなど試みた結果
大手のスーパよりも商店街に足を運ぶ買い物客の方が多くなって
以前より活性化し存続している

「あんたはこの街の救い主なんだ」
「えっ、わ…わたしが…」

きつねにつままれたような顔をした千津美に
編集長がバンと背中を叩いた

「ここに決めてくれて嬉しいよ、皆も喜んでる」

千津美はほんのりと幸せな気分になった
あとで藤臣くんに話したら、喜んでくれるかな…

まだ彼と別れる以前の
千津美の生活が彼を中心に廻っていたころのことだった


でも今は、もう…
あんな風に幸せな気分になれることなど二度とないような気がする




功がこの時期に異例の移動命令で関連会社へとばされた
場所は埠頭の倉庫街だった




千津美が功と会わなくなって、半年以上が経っていた

「あんた…」

同じ大学のひとに声をかけられた


「ずっとあんたが気になってたんだけど…
  格好いい彼氏がいるって聞いてたんで諦めてたんだ」

その人は千津美に言った

「でも、もう別れたって聞いたから…」


映画でも観にいこうと誘われて
千津美は断ったのだが強引に連れて行かれた

その後アパートまでおくってきた


「おくってくれてありがとう」
そう部屋の前で彼に千津美はお礼を言った


「なんだよ、それ…」
その人が呆れたように言った

「…」
わけがわからず千津美はきょとんとする

「お茶くらい飲ませろてくれてもいいだろう」
彼は部屋へあがろうとした

「ま…待って」
千津美があわてて言ったが

「今さらなんだよ…」
「やめて!」




「何やってるのよ、あんた」

声のする方を振り向くと在坂が睨みつけて立っていた

「志野原さん、いやがってるじゃないの」

在坂が怒って言ったので
フン、仕様がないな…と言ってその人は渋々立去って行った



「あなたの新しい彼氏?」
「違います、今日初めて映画に誘われただけで…」

ふーんと、彼女は千津美を見た

「あのさ…志野原さん、率直に言わせてもらっていいかしら?」

「あ…はい」

「今の彼氏…別にそんなに悪くないのよ」

千津美は不思議そうな顔をした

「一人暮らししている女の子の部屋までおくるって、普通に期待しちゃうでしょ」

「な…なにを?」

はぁっ、と彼女がため息をついた

「堀江くんだってね、初めてあたしの部屋へ入った時は
 あたしのこと押し倒そうとしたわよ、がたがたに緊張してしてたけどね…」

「えっ」

「まあ一度目は許さなかったけど…」
思い出したのか彼女はふっと笑った


「でもさっきの彼だったら…堀江くんと違って
 あなたが嫌がってもやめなかったかもしれない」

千津美が青くなったまま下を向いた

「だから…あなたにその気がないんだったら
 つけいれられないように、もっと気をつけなさい」

在坂らしく、びしっと言う
それからタバコに火をつけると、うつむいている千津美を見ながら
ふーっと煙をはく


「藤臣さんはね…特別な人だったの」

功の名前を聞いて、千津美は動揺した



本当になんで?
在坂にはまだそれが信じられない

確かに最初は全然似合わない二人と思っていたけど
だんだんと彼らのことがわかってきた
あげくもうこの二人は絶対だと信じていた

それなのに、この夏にあっさりと別れてしまった…

もう半年以上経つ
その間、藤臣さんを見かけたことは一度もなかった

やっぱり別れたのは間違いないんだ



「藤臣さんのことはきっぱり忘れないと、あなた幸せになんかなれないわよ」

そういう在坂に、助けてもらった礼を言って千津美は部屋へ入った

幸せになんか、なれなくても構わない…
藤臣くんを忘れることなどできない



功が来なくなって、千津美はあまりまともな料理はしなくなった
冷蔵庫の中も、卵や飲み物があるくらいでがらんとしている
けれど引き出しの中に一杯入っているものがあった

千津美はそこから一箱…雑炊の素を取ると、卵と残りごはんで雑炊を作り
鍋から直接スプーンですくって食べた





都心にある本社のビルから、異例の配置換えで
埠頭の倉庫街にある管理会社が功の仕事場となった

管理会社と言っても、主に力仕事だった

毎日ただ身体を動かして働き続ける
くだらないミーティングも飲み会もここにはない
功には、今の方がずっと居心地がよく楽であった

一緒に仕事をしているのは、日雇いの外国人が多く
言葉が通じないことがかえって功にはありがたかった

たたき上げの倉庫の主任は、大卒で本社勤めの功が
いきなりここにやってきたのをうさんくさく思っていた

始めの頃は功を試すように、わざと大変な仕事をまわしたりしたが
そんなことは、あの本社でのねちねちとした嫌がらせに比べたら
功に取って苦でもなかった

真面目に黙々と働く功に主任はだんだんと好意を持つようになってきた

「おい藤臣…今日は飲みに行くぞ」

近頃は功を飲みに誘ったりする


彼と酒を飲むのは別にいやではなかった
むっつりと黙っているおれのことを気にもせず
おしゃべりしては、がはははと笑ったり
酔っぱらっては苦労話をして泣き出したり
本来は気のいい人間なようだ

外国人労働者にも分け隔てなく接して、飲みに連れて行ってはおごってやってる
相手が理解していようがいまいが冗談など言ってひとりで大笑いしながら
彼らの肩をばんばんたたいている
なるほど…おれが無口なのも気にならないわけだ

功はくすっと笑った

「おっ、ちゃんと笑えるじゃねえか…」
目ざとくみつけた主任が言った


おれはまだ笑えるのか…

最後に笑ったのはいつだったか覚えていない
少し赤くなった功は、ごまかすようにコップの酒を飲み干した



それでも千津美を失った、功の心の闇は消えることはなかった

適当に切り上げて帰る途中
酔い覚ましにコーヒーでも飲もうと、喫茶店のドアを開ける
いつかのようにそこからひょっこりと千津美が顔を出してくれるのでは…
そんな期待をしてしまう

彼女と会わなくなってもう半年近く経っていた
あいつは、新しい彼と上手くやっているのだろうか…

功にはもうわかっていた
千津美を忘れることなど絶対に出来ない…
だったらいつまでも未練がましく、あいつのことだけ考えていればいい


「ねえ、あなたひとり?」
ぼんやりとコーヒーを飲んでいる功に、話しかける女がいた





自宅からは公共交通機関だとかなり遠回りになり面倒くさいので
功は中古のバイクを買って、通勤に使っていた





功は変わってしまった…

章は弟を痛々しげに見る


就職してからの功は、なかなか職場になじめないのか悩んでいるようだった
相変わらずの無表情だったが章にはなんとなくわかった
そのうち少しずつ慣れていってくれるものと、当初はそう思っていた

多少辛いことがあったとしても
あいつは自分でなんとかできる男だ…
その辺のところは、結構弟を信頼していた


夏頃…功は何も言わなかったが、風の噂が章の耳に入ってきた


「おまえ…ちぃちゃんと別れたって本当なのか…」

問いただした章に、功はただ

「ああ」
それだけ言うと背を向けて行ってしまった

「おい…」

おまえたちが別れただと…
いったい何があったんだ


ちぃちゃんに訊いてみたが
「わたしが悪いんです…」
そう言うだけで、やはりなにも教えてくれはしなかった


一流企業に就職したはずの功が配置換えになって毎日作業着を着て出かけて行く
そのうちバイクを買って通勤し出した


両親も気にはしているようだったが
学生の頃からおれたち兄弟に不干渉を通していたせいか
そんな功をただ黙って見守っていた


近頃の功はおれが何を言おうが、関心どころか反応すらしない
まるで心が死んでしまったかのようだった
いや実際そうなのかもしれない…


先日、さすがにかあさんも心配しておれに相談してきた
功の帰る時間がうんと遅くなる日が多いらしい

「功だって、もう一人前の男だぜ…心配ないよ」
「ええ…だけど…」

かあさんは、何かを言いかけて言葉を濁した


かあさんが何を言いたかったのかわかったのは
たまたま遅く帰ってきた功と廊下ではちあわせた時だった

あいつから、むっとするような女の残香が匂ってきた

「功…おまえ」

功はそう言うおれをまったく無視して部屋へ入ろうとする

「待てよ…」
我慢が出来なくなって功の肩をつかんだ

「いい加減にしろよ…功
 おまえ自分が何をしているのか、わかっているのか」

功はおれの顔を見ようともしない

「そんな情けない奴だったのかよ…」

「ほっといてくれ」
ぼそっと言った

「ちぃちゃんのことがそんなに忘れ…」

その名を口にした途端、功が振り返っておれを睨んだ
その視線には殺気すらも漂っていて
ぞくっとしたおれはつかんでいた手を離してしまった
功は部屋へ入るとドアをばたんと閉めた

おまえはそれほどちぃちゃんのことを…


かあさんも功がなにをしているかに気づいていたんだ

「大丈夫だよ、功だって馬鹿じゃない…いつか自分で抜け出せる」

かあさんを慰めるつもりでそう言ったのだが
それを信じたいと、おれは願っていた





仕事帰りに駅前でバイクを止めてヘルメットをはずし
功は人の流れをぼんやりと見ていた
そこは千津美とよく待ち合わせした場所だった

功の目には、約束の時間に遅れそうになって
自分に向かって必死に駈けてくる千津美の姿が見えていた

だめだ…そんなに走っては…
案の定、千津美が転びそうになる
功は思わず走り出そうとして、バイクにまたがっている自分に気づいた
千津美の姿はもう消えていた
功は空を仰ぎ、額に手をあてるとため息をついた



そんな功に声をかける女がいる

それは初めてではなかった

女子大生、OL、店員…普通の女の子達がいともあっさりと
初対面の男と関係を持つことに、功は少し驚いている

功は、誘われるままに彼女達の相手をした
自分をとことん貶めれば、千津美のことを忘れることができなくとも
諦めることはできるのではないかと思った

だがそれがただの思い違いだと気づくのに、それほど時間はかからなかった




その人は、あんなことがあったにもかかわらず
翌日千津美を見るといきなり肩を抱いた

周りの友達がはやし立てる

「やっやめてください」
千津美はそう言おうとしたが、その前に

「おれたちもういい仲なんだよな」
などと、みんなに聞こえるように千津美に言った

「えっ…、あの…」
千津美はあせってしまって、言葉が出てこなかった


周りに誰もいなくなった時、その人はがらりと変わった調子で言った

「昨日は、よくも恥をかかせてくれたじゃないか
 おとしまえはつけてもらうからな」



困った千津美は、三浦と園部に相談してみた

「馬鹿ね…なんでちゃんと言わないの…」
「みんなにそんな目で見られちゃうよ…」

誰がそんなこと気にするのだろう…
他人がどう思おうが、千津美 はなんだかどうでもいいようなことに思われた

「わたし…ただあの人とはもう関わりたくないだけで…」

「豪放寺くんか小室さんに頼んで、話をつけてもらいなさいよ」


以前なら当然そこに出てくるひとの名前が出てこない
三人ともそのことに気づき、気まずい沈黙が流れた


「だ…大丈夫、わたしなんとか自分で話してみるわ」

もう誰にも迷惑はかけたくないから…


結局その日も、放課後その彼に無理矢理つきあわされ
喫茶店で一時間ほど過ごした


「なあ、あんた…」
「は…はい」

「あんた、いつもそうなの?」


喫茶店に行くまでの道のりで
道ばたに屈み込んで子どもに話しかけていた母子につまずいてしまった
何度も、何度も謝ったが、彼は離れた所で知らんぷりしていた

喫茶店でもお水のコップをたおして割り、砂糖を机にばらまいた
いつもの千津美だった

その度にごめんなさいと必死で謝る千津美を、彼は呆れて見ていた



「昨日も思ったけど…あんた、もっと注意できないのかな」

それは、いつも努力はしている…

「はっきり言って、恥ずかしいんだよね…あんたといると」
「だったら…もう…」


その人は千津美がもう会うのはやめたいと言ったのに

「おれを振ろうなんて、あんた何様のつもりだい…」
鼻の先で笑って無視したあげく、ドジについて散々文句を言われた


「ま…どうせ、今日も部屋に上げてもらえないんでしょ」
だったらわざわざ送る価値はないな…と彼は帰っていった


千津美はほっとしたが…

たった二日間で、あの人は呆れてしまった…

わたしはどれだけ藤臣くんに負担を…迷惑をかけてきたのだろうか
藤臣くんはこんなわたしにどれだけ我慢してくれていたんだろう

それなのに彼はいつもドジして落ち込んでいるわたしをいつも慰めてくれた

「気にするな」って言ってくれたり…
キスされた時はびっくりしたっけ…
背中を叩いてくれた時も嬉しかった

藤臣くんはいつもとても優しかった



友人達の前ではもう忘れたふりを装って、彼の話は一切しなかったが
千津美は気がつくといつも功のことを考えている
そうすると彼との出来事が次から次へと思い出されてきて泣きたくなる

家へ帰ったら思いっきり泣こう
一晩彼を思って泣き尽くしたら
明日はまた頑張れるかもしれない…

そう思いながら帰宅を急いだ千津美だったが
部屋へ帰る前から涙があふれてきて止まらなくなった

うっ…えっえっ…ぐすっ

どうしよう…誰かに会ったら恥ずかしい…

涙を拭いながら千津美は、少しでも早く部屋へたどり着こうと
慌ててアパートの階段を駆け上がった
けれど最上段で 足を滑らしてしまい、後ろ向きに下へ落ちていく

あ…だめだ、もう

ぼすっ…と落ちて行った先は懐かしい場所だった




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