二人の物語 2


仕事帰り、功はいつも千津美のアパートの近くにバイクを止めると
しばらく彼女の部屋の窓を見上げて立ち尽くすのが習慣になっていた

そのためにバイクを買ったとも言えた

女達と関係を持った後でさえ、彼はどうしてもそこへ向かってしまう
彼女を諦めることなど、とてもできなかった

部屋に明かりが灯っていれば、そこに千津美がいると
暗ければ、彼女はどこにいるのかと考えていた

彼女が好きになったというやつと一緒にいるのだろうか…

考えるだけで胸が張り裂けそうになる

他の女を抱くくらいなら、なぜそいつのところへ行って
力づくでも志野原を取り返さない?

だが答えはすでにわかっていた…

おれが臆病だからだ

そんな真似をしてあいつに軽蔑されるのがおれは恐かった
こんな情けないほど未練がましいおれを見たら、志野原はなんと思うだろうか




その日も功は千津美のアパートの傍に立っていた

外灯の明かりに照らされた千津美の姿が見えた時には
心臓が大きく脈打ったが、そっとその身を物陰に隠した


だが功の耳に聞こえてきたのは千津美の泣き声だった


えっえっ…ぐすん


志野原が泣いている…


手で一生懸命涙を拭っている彼女が、隠れている功の前を通り過ぎた
そんな彼女の姿にたまらず、気がつくと功は千津美のあとを追いかけていた


困っている千津美の姿が見ていられず
思わず飛び出し彼女を抱えて走っていたあの時のように…


階段を駆け上がろうとした功の胸に、千津美が舞い降りてきた


無意識に両腕が彼女の身体をぎゅっと抱きしめた




えっ…

驚いたように千津美の目が見開かれる


わたし…今、藤臣くんに抱かれているの?




おれの腕の中に、今…志野原がいる…





しばらく二人は声も出さずにそうしていた





ようやく功は静かに腕をほどき、千津美の背中を手で支えると
二人は並んで階段を上がって行った

それは以前、当たり前のように彼がしてくれていたことだったが
今の千津美には、ひどく懐かしく…そしてありがたかった


藤臣くんは何も言わないけれど
いつもこうしてドジなわたしを気遣ってくれていた
わたしはそれがとても嬉しかった…      


階段を上りきったところで、千津美が初めて功の顔を見た

「あ…あの、助けてくれてありがとう
 でも、なんでここに藤臣くんがいるの?」

そう訊かれて功は困った
まさか毎晩ここに来ていたなどとは言えない…


「なぜ泣いていた…」
千津美の問いには答えずに、功は逆に質問した

今度は千津美が返答に詰まった
まさか藤臣くんのことを想って泣いていたなんてとても言えない…

「つきあっている奴と喧嘩でもしたのか」
重ねて訊く功に

「えっ…やだ、つきあっている人なんかいないよぉ」
とうっかり答えてから、千津美ははっと口を押さえた


あわてて目をそらしうつむこうとした千津美の顔を
功は自分の方に向かせて覗き込んだ
そうすると嫌でも功と目を合わさなくてはならなくなる

「好きになった奴とはもう別れたのか…」


動揺した千津美は頭に浮かんだことをふと口に出す

「ふ…藤臣くんはもう婚約したの…?」

なんだと…

「 会長のお孫さん…きれいな人だよね…」


「なぜそんなことを知っている…?」

ああ…またうっかりしてしまった

「えっ、あ…その…」
千津美は、赤くなって無意味に手を振り回す

「あ…あの、噂で…」

噂も何も…そんな事実はなかった
結婚の話が出たのはたった一度、彼女の口からだけだった


「おまえ…彼女に会ったのか」

もう少しの嘘でも許さないというように
功は千津美の肩に手をおくと、彼女の目をしっかりとみつめている
千津美はどうすることも出来なくて、こくんと頷いた

功の頭の中で全てが急に明らかになっていった

くそっ…なんてことだ、志野原はおれの為にあんなことを…


「好きになった奴なんか、いなかったんだな」
「ご…ごめんなさい…わたし…」

「志野原…」

功は千津美の肩をぐいっと引き寄せた

「だ…だめよ、藤臣くんには婚約者が…」
「おれは婚約なんかしていない」

えっ…だって
ぽかんと考え込んだ千津美のふいをつくように、功が彼女を抱きしめた

「やだ…」

抗うように功を押し戻そうとしていた千津美の手が
そのうち静かに功の背中に廻った




「!」

突然気配がして、功は千津美から片腕を離すと
振り下ろされたそれをがっとつかんだ


「えっ…藤臣さん?」

それは箒の柄だった…
在坂が呆然と二人を見ていた



「そ…外で言い争っているような声が聞こえたから…
 昨日のこともあったし…」

在坂は必死で言い訳をする

「志野原さんがだめとかやだとか…言っているのが聞こえて
 そ…それに、なんだか無理矢理抱いていたような気がして」


「もういい、在坂…悪かったな」

功が少し恥ずかしそうに、在坂がしゃべるのを止めた


「だが、昨日のことってなんだ」

「それは…」

「在坂さんは、昨日無理矢理部屋へ上がろうとした人から
 わたしを助けてくれたの」

言いにくそうな彼女に代わって千津美が答えた

それを聞いた功は少し複雑な顔をしたが、在坂に言った

「志野原が世話になった…礼を言う」



「そんなこと、気にしないで下さい…あたしこそ、お邪魔しました」

在坂はいったいどうなっているのか、本当は訊きたかったのだが
功の片腕がしっかりと千津美の身体に廻されているのを見て、部屋へ戻って行った


『あたしを助けてくれたの…』
そう言って藤臣さんを見上げた志野原さんの顔

そして藤臣さんのセリフ…

『志野原が世話になった…』

なんだ…別れてなんかいない、あの二人いまだにらぶらぶじゃないの…


あてられてしまった在坂はふうっとため息をついた



残された二人は何もしゃべらずお互いをみつめ合っていた

何から話せばいいのかわからないほど
言いたいことや訊きたいことは山のようにあった



「あっ!」
突然千津美が叫んだ


「どうした」

「ご…ごめんなさい、あたしったら、こんなところで」

あがってと、慌てて千津美は部屋の鍵を開けた


「いいのか…」

「え…だって、藤臣くんだもの」

にこっと微笑まれて、功の心臓がまたどきんと脈打つ

以前はなんのこだわりもなく、彼女の部屋へあがっていった
けれどおれはもう、あの頃のおれじゃない…



「だ…めだ、志野原」

すまん、と言って功は千津美に背を向け、階段を駆け下りていった


「藤臣くん…」

バイクのエンジンがかかる音がして、そのまま遠ざかっていった


やっぱり…

千津美はしょんぼりして、ひとり部屋へ入って行った





「藤臣…いったい、 どうした?」
主任が功に訊いた

いつもは何も言われなくてもてきぱき働く功が、今日はなんだかぽぉっとしている

「あ…すみません」
赤くなって功が答えたのを見て

「ははーん、女でも出来たか…」

「違います」
そう言って顔を背けた功に主任が言った

「恥ずかしがることでもないだろ…
 おめぇみたいないい男に彼女のひとりくらいいても不思議じゃねえよ」

功は何も言わずに働き出した



千津美につきあってる奴など…
好きになった奴などいなかったとわかったと言うのに
それがひどく嬉しかったのに…
功はひどく塞いでいた



志野原が別れを告げた時に
いやその後だって…
おれにもっと勇気があれば
あいつにちゃんと問いただすことができたんだ
そうしたら、あいつはきっと嘘をつきとおすことなどできなかったはずだ

それなのに、あいつが他の誰かを好きになったと聞いた途端
おれは情けないほどのショックを受けて、馬鹿みたいに立ち尽くしたんだった
それからも、どうすることもできなかった…
ただ彼女を想い焦がれる以外は…

そしておれの心は闇に囚われてしまった
気がつけば、誰だか知りもしない女を抱いていた

『だって、藤臣くんだもの…』
おれにそう言って微笑んだあいつ…
何の疑いも持たず、以前のままのおれだと信じて

あいつが知ったら…
純粋無垢で、肉体だけを貪るような男女の関係などと無縁なあいつが
おれが何をしていたのかを知ったら…
もうあんな風におれに微笑んではくれなくなるのだろうな

おれはそれが恐い
あいつに軽蔑されるくらいなら、会わないでいる方がましかもしれない
 
  
だが…

『藤臣くん…』
久しぶりに聞いたおれの名を呼ぶあいつの声
ニコッと笑ったあいつの笑顔
この腕に抱いたあいつの身体の感触

昨夜、確かにそれは現実としておれのもとにあった
それは思い出すたび、おれの心をいやでも彼女のもとへ駆り立てる


黙っていればいいのかもしれない…
何も言わずにあいつにもう一度おれとつきあってほしいと言えばいい


だめだ…

例え彼女と再びつきあうことができたとしても
それはあまりにも卑怯すぎる…



また手が止まってぼんやりと考え込んでいる功をみて
主任がため息をついた





今日も例の彼にしつこく誘われたが、バイトがあるからとどうにか諦めてもらった
けれど今の千津美の頭を占めているのは、功のことだけだった


バイトからの帰り道、千津美はふっとため息をついた


やっぱり、藤臣くん怒っているんだ
そりゃそうだよね…

つきあっているのに他に好きな人がいるなんて言われたら誰だって傷つく
そしてそれが嘘だとわかったら、もっとひどく傷つく…

わたしは藤臣くんになんて酷いことをしてしまったんだろう…

けれど、藤臣くんなんで昨日あそこにいたのかしら?
答えてくれなかったけど、何か用でもあったかな




アパートの階段をあがると暗闇からいきなり人影があらわれ
千津美はどきっとした
もしかして…

「よぉ…待ってってやったんだぜ」
その人はにやにや笑いながら言った

「あっ…」
千津美は青くなって逃げようとするが、その腕をつかまれてしまった

「隣の彼女、今日は留守みたいだな…」

在坂さんの部屋は、暗かった


「鍵開けろよ」

千津美はがたがた震えてきて、声も出ない

「早くしろって言ってんだよ!」

最初は優しそうな人だと思ってたのに、今の彼は普通でない

「おまえ、いい加減に…」


全く動けなくなっている千津美に頭にきて、上げた片手ががっと掴まれた

「うわっ…」

そのまま強く引かれて投げ飛ばされた


「藤臣くん…!」

功が千津美の前に立ち 、その人を睨んでいる

「痛い目に会いたくなかったら、二度と彼女に近づくな…」

「なんだと…」

彼は反撃しようとた立ち上がりかけたが
功の視線にぎょっとして、後ずさりしてそのまま逃げて行ってしまった


「もう大丈夫だ」
功が振り返って千津美を見た

「今日も…来てくれたの?」
千津美は嬉しくて功に笑いかける




「毎晩来ていた…ずっと」

えっ、と千津美は信じられないような表情をした

「おまえをどうしても諦めきれずに…」
功は自嘲するように言った


それを聞いて、なんだか千津美は
とても久しぶりに幸せな気分になっている


「藤臣くん…」
千津美は功の服を掴んだ

「今日はあがってくれる?」
不安そうに訊ねる千津美に、功は黙ってうなずいた




「お茶でも入れるね…」

藤臣くんがここにいる…

けれど、夢見心地な千津美はまたも手を滑らせ
入れたお茶ごと茶碗を割ってしまった


あわてて駆けつけた功に

「だ…大丈夫よ…」
と言うと慌てて散らばった欠片を拾おうとする、その手を功に掴まれた

「火傷している…」

功は赤くなった千津美の手を水道の下に持っていって水を流した

変わりに欠片を拾い出した功に

「あ…いい、わたしがやる。本当に平気だから、もう慣れて…」
「手を冷やしていろ」

「でも…」
「おれの言うことをきけ」

「…」

以前と同じ藤臣くんだった
ぶっきらぼうな言葉の裏側に、優しさがあふれている

流水にあてられた手はもう痛くは無くなっていたけれど
涙がぽろぽろとこぼれ始めた


片付けを終わらせた功がそんな千津美に気づいて、目で問いかける


「わたし…いつも…ドジばかりで、藤臣くんには負担そのもので… 」

「志野原…」

「わたしったら迷惑ばかりかけていて」

うっと、顔を押さえて千津美が泣きじゃくり始めた



功はそんな千津美の身体を抱き上げると六畳間へと連れて行き
向き合って座る



「いいか…よく聞けよ」

うんと千津美がうなずいた


「おれは一度もおまえのことを、負担だの迷惑だなどと思ったことはない」
むしろおれは嬉しかったんだ…

「それから…おれはあの女とは婚約などしていない
 一度、食事をしただけだ」

「わたし…藤臣くんの気持ちを疑ったわけじゃないの…ただ…」

言葉を途中で切ると、千津美は手を口にあててうつむいた

「おまえがおれのために、何を考えたかはわかっている」

もう気にするなと功は千津美の方へ手を伸ばしかけて、ふとその手を止めた


「昨夜はすまなかった」

え…と千津美は功の顔を見た

「おまえが嫌がっているのに、つい…抱きしめてしまった」
「そ…そんな、藤臣くん…あやまらないで、嫌がっていたんじゃないんだから…」

そうか…、とつぶやいて功は目を閉じた


「最後に言うが…」

功はしばらく考えていたが、決心したように目を開けると言った


「志野原…おれはもうおまえにふさわしい男ではない」

「藤臣くん…?」

「あれから、 何人もの女と…関係を持った
 名前も知らない、顔も覚えていないようなそんな女達と」

えっ、と言って青くなった千津美が不安そうに功を見上げた

「おれはそんな男に成り下がったんだ」


散々考えて、覚悟をきめた功が言った

昨夜黙って走り去った自分を彼女はどう思っただろうか
このまま何も言わずに会わずにいることは
何も知らない彼女を不安のままに置き去りにすることではないのか

おれのためを思って、辛い選択をした彼女に
せめて正直に全てを話そうと、功は決断したのだった





「ごめんなさぁい…」

急に千津美が叫んだ


「!」

予想外の千津美の反応に、功は驚いた

「藤臣くんは好きでもない女の人を抱くような人じゃない
 わたしのせいだよね…、わたしがあんな事言ったから…」

「志野原…」

「わたし…藤臣くんをそこまで傷つけちゃったんだね」

ごめんなさいと何度も言って、両手の指を祈るように組むとうわーんと泣き出した


「違う、おれが…ただ情けないだけだ」

ぶんぶんと千津美が頭を横に振る

「藤臣くんは情けなくなんかないよ、世界で一番優しい人だもの」

「し…のはら…」



「わ…わたしね」

千津美が泣きじゃくりながら言う

「もう会えなくても…ずっと、藤臣くんだけでいい…と思ってたの」

おれだって…

「一生…もう、藤臣くんだけでいい…って」


その言葉は功にとって何よりも嬉しかった



志野原の言っていることは決して間違いではない
けれど、おれのやったことは彼女の責任などではない
志野原への想いを、おれは自分自身の手で汚してしまったのだ
だが彼女はおれを軽蔑するどころか、自分のせいだと泣きながら謝っている

おれを傷つけたと泣いて言っているが
彼女はおれ以上にもっと傷ついている

おれがいけないのだと思った
彼女の自信のなさは、おれのせいだ
一度くらい言ってやればよかったんだ

おまえが好きだと…

わかっているとは思うが、言葉にすればまた違うのだろう
それに今はもっと言ってやりたいことが増えた


おれにとって、おまえはかけがえのないただひとりの女だと…
おまえがいなければ、おれは生きていく気さえしないんだと…


でも相変わらずおれの口からは言葉が出てこない
代わりに泣いている志野原を、今度は躊躇もなく抱き寄せた

もう彼女を離したくなかった
志野原をおれの傍へ置いておくためなら命を賭けても構わないと思った




「志野原…」

功は千津美の涙で曇った目を手で拭ってやる

「藤臣くん…」

功はまっすぐと千津美の目を見た

「今の言葉…絶対に後悔しないだろうな」

意外としっかりと千津美は頷いた




功は千津美の身体をそっと横たわらせた

彼女の服を脱がしていって
そのままその手を千津美の身体を確かめるように這わせていく

千津美は恥ずかしくて固く目をつぶっている



藤臣くんが戻ってきてくれた

あんな嘘をついたわたしを責めもせずに
今…わたしを抱いてくれている



初めて抱く志野原のその華奢な身体は柔らかかった
その肌の感触を手でじっくりとあじわい 、唇でおれのしるしを刻んでいった

他の女を抱いた時には感じたことがない、激しい昂奮がおれを支配していた



「志野原…」

おれは彼女の身体の上に覆い被さるようにしてその名を呼んだ

それまで必死でつぶっていた目を彼女が開く

「ふじお…」
最後まで言わせずにに口づけた

それまでのようなキスではなく、むさぼるように彼女の唇を求めた

彼女の身体を両腕で強く抱きしめる
おれたちの身体は少しの隙間もなくぴったりと重なった





「あっ…や…」

身体を重ねられ、千津美は思わず叫びそうになるのを必死でこらえた



わたしは、藤臣くんとひとつに結ばれた…
目からぽろぽろとこぼれてくるのは、もう悲しい涙ではなかった








「えっ…功、帰ってないの?」

土曜日の朝、遅めに目覚めた章が母に言った


今までは、どんなに遅くなっても必ず帰ってきたのに…

かあさんも心配そうな顔をしていた


別に功の身の安全を心配しているわけではない
あいつだったら、その辺のチンピラが束になってかかってきても簡単になぎ倒すだろう

ただちぃちゃんと別れてからの、あいつの荒んだ生活が
とうとうそこまできたかと暗い気持ちになった
女のもとにずるずると居続けるような真似をしても
今の功なら不思議ではなかった


けれど、すぐにバイクの止まる音が聞こえて功が帰ってきた

廊下であいつを待ってみた
案の定、おれと目を合わすまいと顔を背けている…
だが、すれちがった功からはただ石けんの香りしかしなかった

泊まっただけでなく、シャワーまで浴びてきたらしい



着替えた功がすぐにまた降りてきた
ライダー用の細身の黒い皮のズボンとジャケットを着た奴は
このおれが思わずうなるようないい男っぷりだった

手には大きめのバッグと予備のヘルメットを持っていた


おれは口笛を吹きながらわざと茶化して言った
「デートか…?」

功は顔をそらしたまま、ああ…と言った


「おやすくないなっ…彼女、夕飯にでも連れてこいよ」
靴を履いてる功の肩を、つんつんと指でつつきながら言ってみた

功の無反応にもかかわらず、おれは相変わらずあいつをからかう
それをやめてしまったら、功とおれとの間が完全に切れてしまうような気がした
どうせまた無視されると思っていたのだが…


「明日なら…」
そう言って、あいつは出て行った
ということは、今日もまた泊まりなのか…

気のせいか…なんだか功の雰囲気が、昨日までとは違う


「かあさん、功に新しい彼女が出来たのかもしれない…」
「あら」

かあさんは意外そうに言った


「たぶん明日の夕飯に彼女連れてくると思う」






「藤臣さん…さっき帰っていったわよね」

出て行った功と入れ替わりに在坂がやって来た
今、台所の机でコーヒーを飲んでいた


千津美は、今日功がどこかへ連れて行ってくれると言ったので
在坂には背を向けて、熱心にお弁当を用意していた



昨夜、親しい友人達との飲み会だった在坂は
遅くなって堀江に送られて帰ってきた
彼はそのまま泊まっていった

「いけねっ、おれ今日朝イチでバイトだった」
慌てて飛び起きた堀江が、急いで服を着て部屋を飛び出したのと同時に
隣の千津美の部屋のドアが開いて、出てきた功と出くわした

「…」


一瞬の沈黙の後、堀江が言った
「お久しぶりです、藤臣先輩」

「あ…あ、元気そうだな」

なんだか二人ともひどくばつが悪い…

「あ、おれ忘れ物…」
堀江はくるっと向きを変えると在坂の部屋へと戻った

「じゃあ」
功はそういうと階段を降りていった


「どうしたの?」
まだ布団の中にいた在坂が戻ってきた堀江に訊ねた

「あの二人別れたんじゃなかったっけ?」




「昨夜は彼に抱かれたの?」
在坂が興味津々で訊く

「えっ、あの…」
赤くなった千津美は答えられない

「初めてだったのよね」

「あ…はい」
おにぎりを握りながら千津美は恥ずかし気に答えた


「藤臣さん…優しかったんでしょう」

「わ…わたし、わかりません…」


在坂はちょっと意外に思った

『はい、優しかったです』
千津美だったら、そんな答えが即座に帰ってくるものだと思い込んでいた




昨夜の藤臣くんはわたしの知っている彼とは少し違っている気がした

わたしの身体を押さえ込んだまま抱きしめて
まるで苛むかのように求め続けた
何度も…

あの行為を優しい、と表現するのかわたしにはわからない

でもそんなことはどうでもよかった




今朝目を覚ました時
功の腕が千津美の身体に巻き付いていて、彼女は身動きもできなかった


彼はもう起きていて、優しく彼女をみつめていた

「…」
千津美は今のこの状態に気づくと、昨夜のことも思い出して
かあーーっと赤くなり、どうしていいかわからない


「あ…あの…、え…っと」


功はふっと笑うと、千津美の額にキスをしてから腕をほどいて彼女を解放した

「おはよう」

それは以前の藤臣くんだった

少し落ち着いた千津美が

「ふ…藤臣くん、お腹空いていない…?
 昨夜、もしかして何も食べてなかったんでしょ
 な…なにか作るね…」

と言って半身を起こしたが
掛け布団がめくれ、功と千津美の身体が露になった途端

「きゃあっ」
と叫んで、そのまま枕に顔をぼふっと落とした
必死に手で掛け布団を探す

功が千津美に布団をかけてやった

「おれはあっちで着るから…」
と言って昨夜ぬぎ散らかした服を集めて、部屋を出て行こうとする

「藤臣くん」
千津美がそんな功を見ないように枕に顔を埋めたまま、 呼びかけた

「ん?」

「わ…わたしがごはん作ってる間、シャワー浴びてね」

タオルは洗面所の棚にあるからと言う千津美を
功は振り返って見ながら、やはりもう一度引き返そうかなどと考える




「おまえ…駝鳥みたいだぞ」
そう言うと、功はふすまをばしっと閉めた

「へっ?」
千津美は顔をあげると、功が去った方をキョトンと見た

なんだかふすまの向こうから、功の笑い声が聞こえたような気がした





結局、朝食は例によって雑炊になった

「ごめんなさーい」
「いや、うまい」

ちゃんと器には盛られていたし、梅干しが付け合わせに出てたが
千津美は、こんな物しかなくて…とひたすら恐縮する

「藤臣くんが来るって知ってたら、お買い物してたんだけど…」

たまたま買い物に行きそびれていたのか…
いや、違う…たぶん


ちらっと功は千津美を見た
千津美も食べながら、上目遣いに功を見た

目が合って、ふたりとも慌ててそらした

「…」

お互いに会わないでいた間のことを、いろいろ訊ねたかったが
何と言っていいのかわからず、しばらく黙って食べていた





「藤臣くん、その作業着…」
「志野原、昨夜無理矢理部屋へ上がろうとした奴…」

同時にしゃべり出して、また目を合わすと
今度は同時に笑い出した


まあ、いい…時間はたっぷりある


藤臣くんが目の前で笑っている…



久しぶりに訪れた平和な時間を、ふたりは存分に味わっていた




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Chizumi & Fujiomikun

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