二人の物語 3


功が戻ってきた

千津美は少しほっとする
もしかして昨夜のことは一夜の夢で
もう藤臣くんは戻ってこないかも…
そんな不安が、気持ちのどこかにあったから

「これ…ここに置いていいかな」
功が持ってきたかばんを千津美に差し出して訊いた
中には着替えが数着入っている

千津美は恥ずかしそうに頬を染めて、こくんと頷いた

それは、二人の新しい関係を象徴するように思えた


千津美が近くのスーパーで慌てて買い物して
作ったお弁当も出来上がっていた



「恐いか…」
バイクに乗るのは初めてだと言う千津美に功が訊いた

「恐くなんかないよ」

藤臣くんの後ろだもの…

「絶対手を離すなよ…」
 
…もう離さない…



功の背中にすがり目を閉じた千津美は
信じられないほどの幸福感に浸っていた


今…こんなにも藤臣くんの近くにいる

想うだけでいいと…そう自分に言い聞かせてきた

もう決して 会うことができなくても
彼との思い出だけで充分だと…

でも彼は戻ってきてくれた
相変わらず無口で、無表情で…

けれど一度の別れがわたしたちの間を変えてしまった
もう以前と同じようにはつきあえない

昨夜…わたしは藤臣くんの想いを
気持ちだけでなく
言葉としてではなく
身体で受け入れたのだった



志野原の手がおれの身体に廻されている
彼女の柔らかな身体を思い出す

無口で無愛想で、大抵の者が一緒にいるだけで疲れるというおれを
彼女は難なく受け入れてくれた
何も言わなくてもおれのことをわかってくれる
そんな彼女がずっと一緒にいてくれるものとおれは思い込んでいた

だが彼女は去っていってしまった

おれのためにあんな嘘をつき身を引いただけでなく
おれを傷つけたと苦しんで…
そんな彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる

彼女を大事にしたいというおれの思いが
逆に彼女を追い詰めてしまったのかもしれない

もし、おれがもっと以前に彼女への気持ちを
昨夜のような形で示していたら…

もう過ぎたことを言ってもはじまらない
これからのことだけを今は考えれば良い

だが…





途中何度か休んで、夕刻近くに海岸にたどり着いた

夕日がもう低い位置にあった



「ここは、太平洋側だけど入江になっていて夕日が海に沈むんだ」
功がそう言った

「藤臣くんは、前に来たことがあるの?」
千津美が訊ねる


「ずっと以前に家族で…」

初めて海に沈む夕日を見て功はきれいだなと思った
そして、それを今朝なぜだか思い出し
千津美にみせてやりたくなった


「靴は脱いだ方がいい」

そう言って、功は裸足になるとズボンの裾を端折った
千津美も真似してそうする

「いこうか」

差し出された手を、千津美は嬉しそうに掴んだ


風が冷たい…春にはまだ間がある季節だった
けれど握られた手は温かった


二人は 波打ち際に足を止め
沈んでいく夕日を黙ってみつめている


「志野原…」

ぽつりと功がつぶやくように言った


「ゆうべは、悪かった…」

千津美は並んで立っている功を見上げる

「少し…乱暴にしてしまった」

志野原が初めてだということはわかっていた
優しくしてやらなければ、とは思ったのだが…

彼女はその華奢な身体でおれを受け入れようと必死で耐えていたが
その気持ちに逆らうように無意識に身体が逃れようとしていた

おれはそんな彼女を無理矢理押さえ込んで思いを遂げたんだ


「あ…いいの、気にしないで」
志野原は頬を染めるとそう言った

彼女は、相変わらず
どんな目に会わされても、どんな事を言われても
他人を責める事を知らない


「おれ…恐いんだ」

彼女が再びおれの傍にいるというのに、いまだ不安がまとわりつく
彼女を抱いている時でさえ、本当にそれが志野原なのか
別れている間によく見た幻想ではないかという恐れがこみあげてきた
それを振り払いたくて狂おしいほどに彼女を求めてしまった

そして腕を離してしまったら彼女が消えてしまいそうで
一晩中その身体を抱きしめていた


「おまえがまたいなくなってしまうような気がして…」

そう言う功の横顔を、千津美は不思議そうに見た



ここに来る途中、サービスエリアで休憩している時だった
飲み物を買っている千津美の後ろで話し声がした

「見た?すっごくかっこいいひと…
 ライダースーツがあれだけ似合う人っていないよね!」
「ホント、背も高いし足とかめっちゃ長くて…
 でも一緒にいた女の子がちょっとねぇ」

振り返った千津美と目が合うと、あっと言って口を押さえた

二人で並んでベンチに座っている時も
うっそぉーとかなんでぇ、という声が聞こえてきた

もう慣れているはずなのに…
久しぶりだったせいか、また落ち込んできた

これまでに藤臣くんのことがきっと好きなんだろうな
と思ったひとたちのことが頭に浮かんできた

スケート場で会ったわたしに良く似た女の子
藤臣くんの大学の先輩の琴音さんももしかすると…
在坂さんの従姉の高校生

みんな、わたしよりきれいでしっかりしていて
こんなドジじゃない…

以前つきあっていたという八杉さんも
あの会長のお孫さんという人も
すっごい美人で頭もいい大人の女の人

わたしみたいなガキじゃない

そう言えば在坂さんも最初、私たちのことちぐはぐだって
彼に似合うのはもっと大人の女の人だ…って言ってたっけ

藤臣くんはとても素敵で、とてもよくもてる

なのに…

なんでわたしなんだろう…?



「どうした?」

口に手をあてたまま、志野原はおれの顔をじっとみている
あんまり情けないことを 言うおれに呆れたのか…

「あ…あの…」
目をそらすと赤くなって言う

「わたし…ドジばっかりだし、ガキっぽいし、きれいでもなくて
 なんの取り柄もないのに…」

「志野原…」

「藤臣くんは、なんでわたしのこと…」


功は千津美の頭に手をやると
ぼふっと自分の胸にその顔を押さえつけ彼女を黙らせた

そしてふっとため息をつく


またか…

彼女にはおれの気持ちは伝わっていると思う
それでもなぜか彼女は自信が持てないらしい
それはずっと以前からだった

何か言ってやらなければ、と思うが

もう二度と志野原が不安にならないために
もう二度と志野原がおれから離れないために

おれはいったいなんて言えばいい?

頭ではいろいろ考えられるが
言葉にするとなんだか薄っぺらくなるような気がする

ボキャブラリー欠如人間…か
にいさん、あんたは正しい


気持ちがうまく言えないのであれば…




わたしの頭を押さえ込んだまま藤臣くんは長いこと黙っていた

あんなこと言っちゃったせいで、怒ったんだろうか
せっかく藤臣くんが
わたしがいなくなるのが恐いなんて言ってくれたのに…
もっと喜んで応えなくちゃいけなかったのに…

相変わらずドジでバカな千津美…
なんだか落ち込んできた…


「志野原…」

やっと藤臣くんの声がした



「結婚しよう」






「ちょっと…」
かあさんがおれを呼んだ

「なんだい?」

「掃除しようと思ったんだけど、功のコンピュータがつけっぱなしで
 切り方とかよくわからないから…」

あいつよっぽど慌てて出て行ったんだな…

終了させようとマウスを動かすと
消えていた画面に 「○○○のお薦め温泉宿」
そんなサイトが浮かび上がった





功は千津美を旅館に連れていった
もう予約がしてあったらしく、そのまま部屋へ通された

「お部屋の露天風呂は源泉掛け流しで…」
くっくっと笑いながら仲居が説明している

お荷物を…と言ってかばんを受け取ろうとしたら、赤くなった千津美が
「け…結構です、自分で持てます」
と言ってひしっとかばんを抱え込んだ

部屋に入ってお茶を入れようとしたら
「わ…わたしが」
と言って急に立ち上がった千津美は
「きゃあ」
足をすべらし功に抱きとめられた

「志野原…座っていろ」

恥ずかしそうに身をすくめたまま千津美は座っていた


「ごめんなさい、藤臣くん…恥ずかしいよね…」
仲居が出て行った後、千津美は机に顔を伏せて功に謝る

「気にするな」
功は隣に座ると、千津美の頭を持ち上げてやった

「わたし…こういうとこ、初めてで…」


聞けば旅行など、学校の修学旅行以外は行った記憶がないらしい
もう今日何度目になるかわからない後悔がこみあげてきた

六年間もつきあっておいて
なぜ志野原をどこかへ連れて行ってやれなかったのだろう
おれは一体なにをしてきたんだ


「たまには、いいな…」

「で…でも、高いんでしょう、お風呂までついてて…」

「今日は…特別だから」

そう言って、功は千津美の肩を抱いた

千津美は目を閉じて、海岸での事を思い返した





「えっ…」

夕日はもう水平線に沈みかけている
夕焼けが空を真っ赤に染めていた


千津美は功の胸から顔を上げて信じられないような顔をした
功は相変わらず無表情に千津美を見ている


「いや…か?」

「いやじゃない…けっして」

だけど…
本当にわたしでいいの…


功は千津美をぎゅっと抱きしめると言った

「おれを安心させてくれ」

あ…

そのまま口づける
夕日が沈んで辺りが暗くなるまで、功は千津美を離そうとはしなかった





わたし…藤臣くんにプロポーズされたんだった

なんだかまだ信じられない…
落ち込んだわたしを慰めようとして言ってくれたんだろうか

違う…藤臣くんはそんなことで結婚などと言えるひとじゃない



「着替えよう」
と功が言った

お好きなのを選んで下さい、と言われ
戸惑ってなかなか決められない千津美の代わりに功が選んだ浴衣を
千津美は恥ずかしいので洗面所に入って着た

出ていった時にはもう功は着替えていた


剣道着は見慣れていたけど浴衣姿も似合っている
今日の黒の上下もすごく素敵だった
何を着たって、格好いいんだもの…

本当にわたしで…

いけない…
もうそのことでくよくよするのは止めようと決心したんだった

さっき気づいた…
わたしがそうやって落ち込むと藤臣くんが気にする
わたしがもっと自信を持てば、彼は安心できる
だからわたしは前をしっかりと見て…

ぐいっと身体を藤臣くんに引き寄せられた
「?」

「前 … 机」

もう少しで机に蹴つまずくところだった

どうして、いつもこうなんだろう…
結局落ち込んでしまったわたしの背中を藤臣くんが叩いてくれた


夕飯を食べに降りていく途中で彼がぼそっとつぶやいた

「おまえはそのままでいい」


その言葉がなぜかとてもうれしかった





何種類も並べられた料理を前に、志野原は驚いている
「わたし…全部無理かも、藤臣くん…食べていいからわたしの分も」
そう言っておれを見て笑う

浴衣姿の彼女は前にも見た事がある
彼女が家庭教師をしていた小学生を連れて縁日へ行った時だった
あの時だって、いつもとは違う彼女の姿に心が乱れた
本当は抱きしめたかったんだ

以前のおれは、そんな感情を当たり前のように封じ込めていた
それが彼女を大事にする事だと思っていた

今…おれはもう抑えはしない

彼女を大事に想う気持ちは変わらない…

変わらないが…


「ど…どうしたの、藤臣くん?」
志野原が言った

おれがじっと見ていたので照れたようだ

「浴衣…似合うな」

そう言うと、かぁーっと赤くなって、持っていた箸をぽろりと落とし
慌てて拾おうとして頭を机にぶつけた

「いたっ」
「大丈夫か…」

隣の机に座っていた中年夫婦がくすりと笑って
志野原は恥ずかしそうな顔をした

ふっと笑いがこみあげてくる

志野原は戻ってきた、間違いなくおれのもとへ
なぜだか今やっとそれを実感した



「お…美味しいね、これ」

藤臣くんがわたしを見て微笑っている
わたしは恥ずかしいのか嬉しいのかわからない

「ああ」

相変わらず言葉数は少ないけど
再会してからの藤臣くんは少しだけ以前と変わったような気がする






「風呂に入るか…」

食事を終えて部屋に戻ると、功はそう言った

「おまえ…大浴場はだめだろう」


今朝、掛け布団を彼女に掛けてやった時に
彼女の身体中におれの印が刻まれているのを見た

「あ…だから、お風呂付きのお部屋を頼んでくれたんだ」

志野原が嬉しそうにおれを見た
おれの所為なんだが、そんなことを責める彼女ではなかった



部屋に戻ったら布団が並べて敷かれていてなんだか恥ずかしかった

でも藤臣くんがわたしのために
お風呂付きのお部屋を取ってくれたのだとわかると嬉しかった

けれど…


「一緒に入ろう…」

そう言って、彼が帯を解き出した時には
顔を上げる事ができずにうつむいたまま座っていた


「おまえが入るまでは、見ないから…」

彼がお風呂に入った音がした


わたしは立ち上がると、ゆっくりと帯をほどいた

脱いだ浴衣を、ついでに藤臣くんの浴衣も、丁寧にたたむと
そっと浴場の扉を開け湯船につかった



藤臣くんは、背中を向けて外を見ていた
彼の広い肩とたくましい背中が見えた


「来ないかと思った…」
背を向けたまま藤臣くんが言った

「…」

わたしは何も答えられなかった




功は千津美に向き直ると手を差し出した
千津美がその手を握ると、そっと引き寄せる

ざぶんとお湯が溢れた

自分の膝に千津美を座らせた功が
彼女の身体を見て顔をしかめた

彼の刻印以外に、肩や両腕に青い痣がある
昨夜、彼女を押さえつけた時にできたのだろう

「おれは…随分ひどいことをしたんだな」

「えっ、あ…あの…」

功の膝にのせられて
しかも身体をじっと見られてうろたえている千津美は
最初彼が何を言っているのか理解できなかったが
痣の事を言っているのだと気づくと笑って言う

「こ…こんなの、転んだりぶつかったりしてできるのに比べたら…」

功が身体から顔へと視線を移し
至近距離で目が合って、千津美はドキンとした

「ほら…藤臣くんがまた一緒にいてくれるから…
 痣や傷の数も減るわ…」



おれに気を使わせまいと志野原は必死で話している
彼女を両腕で抱きしめ耳元で囁いた

「今夜は優しくするから」

志野原はおれに見られまいとおれの胸に顔を埋めた
けれど彼女が緊張したのが肌で伝わってきた
言葉でもなく表情でもなく
全身で彼女の感情を感じられるのが嬉しかった

もう二度と嘘などつかせない…

こんなにも誰かを愛おしいと思う事ができるのが不思議だった



千津美は藤臣くんの逞しい胸に顔を臥せて
初めて彼と会った頃の、高校生だった自分を思い出した

彼が恐くて怯えていた
でもすぐにそうじゃないと気がついてその笑顔に魅かれていた
目が合っただけでドキドキして…

あの頃のわたしが、今のわたしを見たらどう思うんだろう

六年以上の月日を一緒に過ごしてきた
けれど最初に彼を好きだと思った時から
気持ちは変わっていない

これから何度彼に抱かれたとしても
たとえ彼と結婚しても
気持ちはあの頃のまま変わらない

藤臣くんが好き…




功は千津美の顔を上げさせると口づけし
そのまま唇を彼女の首に這わせた

千津美の身体が緊張を通り越して硬直しているのを感じ取って
彼女の身体を抱えて立ち上がった



「ふ…藤臣くん」
二人の身体がいきなりあらわになって千津美が慌てる

功は何も言わずに千津美の身体をバスタオルで包んだ


丁寧に拭かれた身体を布団に横たわされた
観念したように千津美は功を見て、両腕を彼の首にまわした



もう、なにも恐くなかった




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