二人の物語 5



二人が一緒に暮らすようになってしばらくしてから
千津美は功の母に呼び出された

「わざわざ来てもらってごめんなさいね」
「あ…いいんです、もう卒論提出したから結構暇なんです」


なんの話だろう…
やっぱり一緒に暮らしているのがまずいとか、そういう話だろうか

すこし緊張している千津美は出してもらったコーヒーを
慎重に手に取って一口飲むと無事に受け皿に戻す

良かった、ドジしなかった…
千津美はほっと胸をなでおろした

そんな千津美を見て、功の母がくすっと笑った

あ…

藤臣くんもよくこんな風にわたしを見て笑うことがある
どちらかというと彼はお父さん似だけど、その笑顔はそっくりだった

「どんなことにも一生懸命なのね…」

「えーと、それはですね…気をつけないと、またドジってしまいそうで…」
千津美が照れて言った

「少しはしっかりして藤臣くんに
 あまり迷惑をかけないようにしたいとは思ってるんですけど…」

「あら、あなたはそのままでいいんじゃない?」

藤臣くんも同じようなこと言ってたっけ…



しばらく黙って千津美を見ていた功の母が言った

「功が急に警察官になると言い出したでしょ、あなたは知っていたの?」

千津美はドキッとした

「あ…はい、温泉に行った時に聞きました」
「それ以前は?」

黙って首を振った

「一度も、警察官になりたいとあなたに言ったことはないの?」
「それ以前は一度も…」
「そう…」

功から聞いた話を思い出して、千津美は少し困っていた

「功は小さい頃、父さんみたいな警察官になりたいってよく言っていたの
 少し大きくなってからは、口に出すことはなくなったのだけど…
 あの子のことだから、その夢は揺るがないものだと思っていたのよ」

「…」

「だから会社員になると聞いたときは驚いた…」

功の母は、ひと呼吸置いてから続けた

「でもあなたとああいうことになってしまって…
 この間はじめて 、あなたと別れた功が警察官試験を受けたと聞いたの」

それまで自分の手元を見るように落としていた視線をきっと上げて千津美を見た

「それでね、なんとなく気になって…
 千津美さん、あなた本当に功から何も聞いていないの?」

「えっ…わ…わたし、その…」

焦った千津美が手を動かし
ガチャンとコーヒカップを倒してしまった
こぼれたコーヒーが机から床へと滴り落ちるのを
千津美は手を口に当てたまま呆然として見ていた

「やっぱり…」
功の母は確信したように千津美を見た


隠すこともごまかすこともできないと観念した千津美は
机や床を拭きながら、功から聞いた子どもの時に見たと言う話を語った

「そう…見られていたの…」
功の母は自嘲するように言った

「章だったら、かあさんどうしたの…って聞いたんでしょうけど
 功は、黙って見ていたのね」

あの子らしいわね…


「あ、でも…諦めてしまったのはわたしのためだと…」

わたしが頼りなさすぎて…と話す千津美を功の母が見た

「功が…あなたのために諦めたと言ったの?」
「は…はい、だからわたし…それはだめだって…」

「…」


「あ…あの、なにか…」
功の母がじっとみているので落ち着かない

急に彼女は笑い出した

「?」

わけがわからずキョトンと千津美は彼女を見る

「なんだか、心配して損しちゃった感じ…」


小さい頃から、自分は悪くなくても決して言い訳をするような子ではなかった
だからわたしはずっと心配だった

彼女と別れた後に警察官試験を受けたと聞いた時それが何を意味するかを考えた
そしてまた彼女とつきあい出した功はいったいどうするのだろうとも…

いつも何も言わずに自分で決めて
その代償に自分の夢すらも平気で投げ出しかねない子だった

だから、気になって今日千津美さんに来てもらった

けれどまさかあの功が千津美さんに彼女のために夢を諦めたと言ったとは…

功は今、彼女と一緒に歩む道を間違いなくみつけたんだと
あの子はもうひとりで苦しむことはないと…確信できる


「そうかぁっ、千津美さんには何でも打ち明けちゃうのね、功は…」

「えっ…、いえ、そんな…」

千津美は焦って赤くなった


「じゃあ、あの子…やっと好きだって言ったのかしら…?」

え…、とぽかんとした千津美と目が合った


「まだなのね…」

あの子ったら…と功の母はため息をついた

以前つきあっていた頃、「あの子…言ったの?」
功の母は楽しそうにしょっちゅう訊いていた
章さんと同じ、少しからかい気味に…暖かく…


結婚しようと言われた…
わたしがまたいなくなるのが恐いとも言ってくれたけど
好きだと言われた記憶はまだなかった



藤臣くんのおかあさんが教えてくれた

彼女は藤臣くんのお父さんとは幼なじみで
小さい頃から彼が好きでたまらなかったと
(藤臣くん似の)お父さんは、すっごくかっこよくってもてたから
結婚できたときは舞い上がってしまってすごく期待したらしい

わたしも若かったから…とお母さんは照れて言った

仕事熱心なお父さんは、家に帰る事も稀なそんな毎日で
二人の子どもを抱えて、つい辛くなって泣いてしまったこともあった

「でもね…千津美さん」
「はい」
「ある時、我慢できなくなってあの人に打ち明けたの…」

そうしたら、すまんって謝ってくれて…
それ以降も相変わらず忙しかったけど、合間に電話してくれたり
時間がある時はできるだけ一緒にいてくれるようになったの

そういうあの人の気持ちが嬉しくて…

「前は自分の気持ちに振り回されて気づかなかった事がわかってきたのよ」

「でも、あななた達は大丈夫そうね」
そう言って、藤臣くんのおかあさんは明るく笑った





まだ春を待つころ…

二人目の子どもが産まれたばかりの姉の代わりに
大学の卒業式に功が仕事を休んでやってきた

着るのは久しぶりだと言うスーツ姿の彼に
千津美の大学の友達がきゃあきゃあと騒いだ

「あの人が6年間もつきあっていて
 志野原さんに指一本ふれていないっていう彼氏?」
「絶対、彼…本気じゃないわよ」

本当のことは恥ずかしく言い出せなかった千津美だった

式が終わって功の所へ行こうとすると
みんなは紹介しろと言って、ぞろぞろついてくる

「言いたいこと言っちゃてさ…」
功に挨拶しようと園部と一緒についてきた三浦が怒って言う



「志野原…」

功は千津美を見ると、おめでとうと言って
ポケットから小さな箱を出して渡した

「えっ、卒業プレゼント?…なにかな…」

千津美が開けてみると指輪が入っていた

「あ…」

みんなが見ている前で功はそれを千津美の指にはめた
プロポーズは以前にしていたが、それが二人の正式な婚約となった

「おめでとう、長かったね」
園部が嬉しそうに言った

「彼、超本気じゃないの」
三浦が本気じゃない発言をした女子を睨みつけて言った

「あ…ありがとう」
千津美は彼女達に礼を言ってから、功の顔を少しぼんやりとみつめた



「指輪はとても嬉しかったけれど
 わたしは藤臣くんが一緒にいてくれるだけでいいんだ…」

その晩、功の胸で千津美がそう言った

「ずっと形式なんだと思っていた…」
功は千津美の指輪をしている手を取った

「だけど今は…」
不思議と嬉しい…、と言って千津美の指にそっと口づけた


「淋しくなるな…」
「うん…」

4月になったら功は警察学校へ入る
全寮制で最初の一ヶ月は外出もできないようだ


そうか…これはわたしが少しでも淋しくないようにくれたんだな

千津美は嬉しくて功の胸に顔を寄せて言う
「ありがとう…藤臣くん」

「いや…」
功はすこし自嘲的に笑う

おれはこうして必死に彼女をつなぎ止めようとしているのかもしれん…




藤臣くんは以前と比べて少し変わった
恐い、嬉しい…淋しい…そんな感情を、 時折口に出してくれるようになった

わたしはそれが無性に嬉しかった





「えーっ、ファンクラブ…!?」
千津美は自分を指差して叫んだ

就職して二ヶ月近くが経った頃だった


都内でも有数な繁華街のタウン誌編集室が彼女の就職先だった

そこは駅ビルやデパート、大きなスーパもあるが
それらはどちらかというと脇役のような存在で
駅前商店街のパワーがすごく、テレビや雑誌にも何度も取り上げられた

子どもからお年寄りまでニーズに合わせたイベントは
いまや他の商店街が真似するほどの人気であった


「ど…どうして、そんな…わ、わたしなんか」

「は…まあ、適当に夕方集まる飲み会なんだけどね…」

会の名前が「志野原千津美ファンクラブ」となったそうだ

主に千津美が自分の店先でしたドジを肴に、酒を飲む集まりだった
彼女の話で笑いはしたが、決して彼女をバカにしているとかではなく
むしろ彼女は商店街のみんなから愛されていた

「みんなあんたが来るのを毎日楽しみにしているんだよ」

千津美は毎日商店街を中心に、いろいろなお店を訊ねて廻って
情報収集するのが主な仕事だった

大きな行事やバーゲンなんかは、訊かなくても向こうから情報提供される
だから、ちいさな出来事を拾い出せと言われている

お茶屋さんでいつも店番しているおばあさんが傘寿だとか
和菓子屋さんの前で迷子になって泣いていた子どもが
あんころ餅を食べて機嫌よくなった所に母親が探しにきたとか
そんな話を千津美は毎日一生懸命お店を訊ね回っているのだが
相変わらずあっちこっちで…

「わ…わたしなんか、いつもドジして迷惑ばかりかけているのに…」

千津美がそう言うと、はは…と編集長が笑った

「あんたが店先でドジってくれたら、その日の客入りがいいのだと…」

「はい…?」

今や千津美のドジは福の神レベルになったらしい…


「でね…」
編集長が言う

「今週は金曜日にあるんだけど、その飲み会…ちょっとでも顔出せないかな…」

「え…でも」


数週間前から功は週末の外出が許可されるようになっていた
金曜の夜に帰ってきて、日曜の夕方寮へともどっていく

だから金曜日は早めに帰って、彼のために夕飯の支度をしたかった


「婚約者も一緒に、どうかな…?」


まったく、この子に婚約者とな…

就職が決まってからも、不定期にだがバイトに来てくれていた
夏頃から妙に元気がないようだったが
こっちに気を使わせないように無理して笑っているような気がした

それがこの春、正社員としてやって来た時は以前のように明るくなっていた
そして彼女の指には婚約指輪があった

訊いてみれば、婚約者はこの春から警察学校の寮に入って
週末にしか会えないということだ

警察官か…彼女にはあまり合わないような気がした
この子にはもっとのんびりとした職業の相手がいいんじゃないかと…

無意識に、その知りもしない彼女の婚約者を拒んでいた



商店街には、八百屋と酒屋が道をはさんで向かい合っていた
そこの息子は同い年で 二人とも勉強は不得手だが
腕力には自信があるようなガキ大将だった
小中高と同じ学校に行って、今は親の店を手伝っている

小さい頃からどちらが強いかと喧嘩ばかりしていた
高校のときはどちらが番長かで相当揉めたようだ
その反面、結構気が合うらしくしょっちゅう一緒につるんでもいた

そしていつも何故か同じ女の子を好きになる
その子を巡って大喧嘩したあげく、二人とも玉砕するのが常だったが

その二人が今は千津美に熱を上げている
最初はそのことが原因で争っていたが
彼女に婚約者がいると聞いた途端タッグを組んだらしい…

飲み会に彼女とその婚約者を誘うように頼んできた
編集長は、なんとなく二人の思惑が透けて見えたが
自分も彼女に婚約者がいるのが何気に面白くなく思っていたので
引き受けたのだった




「千津美ちゃん、彼氏遅いねぇ」
漬物屋のおばさんが言った

「あ…あの、訓練が思ったより時間がかかって少し遅れると…」

「ふーん、あんた少し座ったら?」

千津美は、気がつくと空になったビール瓶を集めたり
お酒をついだりとちょこまか動き回っていた

「あ…はい」


会場はとある飲み屋の二階の座敷を貸し切りにしてあった
今日は千津美の婚約者が来ると聞いて、結構大勢集まってきている

みんな編集長と同様に、千津美の婚約者になぜかあまり良い感情を持っていない
できれば酒屋でも八百屋でもいいから千津美が嫁いで
ずっと彼女がここにいればいいと願っていた
自分たちの千津美が取られたような、そんな気がしている

酒屋と八百屋の息子達がなにやらよからぬ企みをしているらしいと気づいていたが
今日は見て見ぬ振りをしようと思っていた

「少し位飲めるんだろう…」

靴屋の親父さんにビールをつがれて
千津美は慣れない酒をほんのちょっとすすった

それだけで、もうふらっときてしまう

大丈夫かな…でも今日は藤臣くんが来てくれるから…

「今日、ほら…うちの店に来た時さっ」
靴屋の親父さんが話し出した

夏に向けて商品棚に並べようと
床に置いてあったサンダルの山に千津美は見事に蹴つまづいた
けど、その後そのサンダルが飛ぶように売れたと言って

「ありがとよっ」
ばんと千津美の背中を叩いた

その拍子にすすっていたビールをごくりと飲み干してしまった


「お…おい、大丈夫か」
赤くなって目がとろんとしてきた千津美に言う

「あ…はひ」
彼女は急に立ち上がろうとして、ばたんと倒れた

ちょうどその時、入り口の引き戸ががらっと開いてそこに功が立っていた

外出時の着用が義務づけられているスーツにネクタイ姿の功に
一瞬目が釘付けになり、その場がしんとなった


「兄ちゃん、ここ貸し切りだから…」

誰かがそう言ったが、それを無視して功は部屋に入ると
倒れている千津美のかたわらにひざまずいて彼女を抱き抱えた
そして説明を求めるように、みんなを見回した

「…」

功の迫力に押されて誰も何も言えなかった


「あへ…ふひおみくん…」
ろれつの回らない口で千津美が言った



「あんたが千津美ちゃんの婚約者かい?」
やっと誰かが意外そうに訊いた

「ああ…」
言葉短く功が答えた


あわない…
その場のだれもがそう思った

えらくかっこいいが重厚そうで凄みがあって

千津美ちゃんとはまったくあわない…


すうっと寝てしまった千津美を、功は部屋の隅に横たえると
来ていた上着を脱いでかけてやる

振り返るとみんなが彼を見ていた

「…」

「ま…まあ、こっちに来て一杯やんなよ…」
ようやく編集長が声をかけた

「あ…わたしは彼女が働いてる出版室の編集長なんだ」
自己紹介をした

功は黙って会釈をした

「…」

会話が続かず、なんだか困ってしまう

静かだった周りはまた徐々におしゃべりなどはじめてきたが
相変わらず黙っている功を、ちらちらと見ていた



「信じられねぇな…」
酒屋の息子がそう言って、またその場が静まった

「まったくよ…あんた、本気なのかい」
八百屋の息子が功に訊く

だが、何の感情も示さず無表情に功に見られて
なんだかバカにされている気分になった

「この野郎…でけぇツラしやがって」
「ちょっと外に出ろよ」

功は眠っている千津美を見た

まだ、当分は寝ていそうだな…
そうして功は立ち上がった




「あれっ」
目が覚めた千津美は一瞬、状況が理解できずに辺りを見回した

あ…そうだ、今日は商店街の飲み会で…
確か…さっき 藤臣くんを見たような…

気のせいだったのかしら…その場に彼の姿は見えなかった


「あ…あの」
「ああ…気がついたのかい」

「すいません、わたしなんだか迷惑をかけてしまったみたいで…」
「いや…こっちこそ、無理矢理飲ませてしまって…」

自分にかけられている上着が功のものだと気づいた千津美が

「藤臣くんは…」
と訊くと、なぜだかみんな目をそらした

わけがわからないまま起き上がって、編集長の隣に座った

功の上着を手に持ったまま
「わたしの婚約者…来ましたよね」
と訊ねた

「あ、ああ…」
仕様がないので編集長は答える

「どこに…?」

「千津美ちゃん!」
酔っぱらった肉屋のおじさんがいきなり叫んだ

「はい?」

「あの男…本気であんたとつきあってるのかい」

「え…」

やめろと、周りがとめるが構わず続ける

「確かに見た目はいい奴だが…
 あんた…遊ばれてるんじゃないかい?」

「い…いえ、そんな…」

答えにつまって千津美が困ったところに功が戻ってきた


「藤臣くん」
千津美が嬉しそうにその名を呼んだ

そんな彼女に微笑んだ功を、みんながじっとみていた

こいつでもこんな表情をするんだな…

「どこに行ってたの?」

「ああ…ちょっと…」

「?」

功はくすっと笑うと言った
「おまえのファンていうやつに挨拶してきた…」

「あいさつ…」
千津美は少し不安になった…

功はネクタイをゆるめて
ワイシャツのボタンを上から数個はずし袖をまくっていた
でもどこも傷ついていないし、汚れてもいない

き…気のせいだといいんだけど…



二人は仲良く並んで座った
無表情に飲む功の横で、千津美がニコニコとおしゃべりをしている


「ちょっとお醤油取って…」
誰かがそう言うと

「ここに…」
千津美がそばにあった醤油さしを取る
けれどそれはするりと千津美の手から落ちていった

「あ…」
その後の惨事が予想されたが、功の手がすっと動いて醤油さしをつかんだ

その絶妙さに、あっけにとられてみんながそれを見ていた

「あ…ありがとう…」

彼女は礼を言ったが、功は表情も変えず何も言わない…

千津美は気にするふうでもなく、醤油さしを渡そうと身体を乗り出した
けれどまだ酔いが残っているのか、いつものドジか
身体のバランスをくずして
食べ物や飲み物が並んでいる机に倒れ込みそうになった所を
功が腕を伸ばしてぐいっと引き戻した

少し落ち込んでうつむいてしまった千津美の背中を功がぽんぽんと叩くと
千津美はほんのりと頬を染めて、嬉しそうな表情をした

「…」

会話はなかったし、目も合わせてもいなかった
けれどなにか二人の間に通じるものが感じられた


「いつからつきあってるんだい?」
そんな二人にお茶屋のおばさんが訊ねる

「あ…高1の時から…」
「え…そんな前から?」
「はい…」

それを聞いた、周りのものはなんだか不思議そうに二人を見た

どう見てもちぐはぐなカップルで、たとえ彼が本気だとしても
あまり長続きしそうにないかと思っていたのだ
婚約を口実に人のいい千津美ちゃんがたぶらかされているんじゃないかと
考えている者までいた

「じゃあ、あんたがここに来る前からずっとつきあってきたんだね」

昨年の別れていた期間が引っかかって
千津美は、なんと答えていいのかわからない…


「ああ…」

代わりに、それまで黙っていた功が口を開いた

「ずっと…おれは志野原が好きだった」

「…」

みんなはすっかりあてられてしまい
目をそらしたり、口笛をふいてごまかしているのもいる


「どうしたんだい…?」
お茶屋のおばさんが千津美に訊いた

千津美は手を口に当てて、真っ赤になって固まっている

「えっ…いえ、あのっ… 」

「いやだ…あんた、そんなに長い事つきあっておいて
 今さら照れてるのかい」


だって…

藤臣くんを見る…


「まあ、もっと飲みな…」

最初よりは功を受け入れてきた商店街の人たちにお酒をつがれている
相変わらず無表情で…いつもの藤臣くんだった

だけど…
確かにさっき、あたしのこと好きだって彼は言った
当たり前のようにさりげなく…

千津美は手を口に当てたままじっと功の横顔を見ていた
視線に気づいた功が千津美を見た

その表情はあまり変わらなかったけれど
千津美のすべてを包み込むような穏やかな優しさがあふれていた


八百屋と酒屋の息子が戻ってきて、大人しく末席に座って酒を飲み始めた
衣服や顔が汚れて、まわりと目を合わせようともしないその様子から
大体の事情がみんなに知れた


先ほど、功を裏の路地に誘い出した二人は
あっというまに地面に転がされた


「志野原に手を出すなよ…」

それだけ言うと、功は居酒屋へと戻っていったのだった






もう夜でも蒸し暑く、シャワーを浴びた功は
パジャマのズボンだけはいた姿で
ちゃぶ台で学校の資料を読んでいた

「おまえは…?」
と訊ねる功に、これが終わったら…と言って
千津美は、朝干しておいた洗濯物をたたんでいた

ちらっと彼を見る

彼の厚い胸が好きだ
こうして見ているのも…
そこに抱かれるのも…

初めて見たときは、恥ずかしくて騒いでしまったけど…

功が、顔を上げたのであわてて視線をそらせた



千津美のアパートにはエアコンはない
でも今日は功がいるので夜でも窓を開け放している
いつもよりはいくらかましだった

功は以前は気づかなかった千津美の毎日の生活が
一緒に暮らし始めてから、少しずつだが見えてきている

おれがいない夜は、暑いのを我慢して窓を閉め切っているんだろうな
そんなことすら、今までのおれは知らなかった
いや知ろうとしなかったんだ


「志野原…」
「え…なに?」

そう言っておれを見る志野原がひどくいじらしかった
何の文句も愚痴も言わずに…ずっとひとりで暮らしてきて…


「あのマンションの話…どう思う?」

このアパートは、やはり狭すぎる

今は寮暮らしでここには必要最低限のものしか置いていないが
それでも功の着替えや生活用品などしまうスペースが無く
かばんに入れたまま床に置いてある

スーツは壁にそのままかけられている

学校を卒業するまでにまだ3ヶ月以上はあるが
それまでにはもっと広い所に引っ越ししておきたかった

今日そんな話をしていたら
本屋のおじさんが上のマンションの部屋が空いていると勧めてきた
安く貸してやるよ…とも

どうやら八百屋と酒屋の息子たちに見込みが無くなったのを敏感に感じて
別な方向から千津美を取り込もうとしているらしい


「あの場所だったら、悪くないと思うけど…」
「おまえの職場にも近いしな…」
功は微笑って言った

何となくだが、あの商店街の人々の千津美への気持ちが
今日、功に伝わってきていた

警察学校を卒業しても、警察官の仕事は不規則だ
おれが帰れない日でも、あそこに住むのであれば
周りが暖かく彼女を見守ってくれるような気がした


「明日、見に行ってみよう」

「うん…」

嬉しそうに答えた千津美に功が言う

「それ、もう終わったんだろ」

洗濯物はたたまれて後は片付けるだけになっていた


「布団はおれが敷いといてやる」

おまえはシャワーを浴びろと目で促した

赤くなった千津美が立ち上がろうとする前に
功が片腕でひょいと彼女の身体を抱えた

「あん…」

洗面所まで彼女を運ぶと

「早くしろよ」
と言ってドアを閉めた







こんにちは、志野原千津美です。

季節はもう秋です。藤臣くんは今月末には警察学校を卒業します。
わたしたちは、一ヶ月ほど前に商店街にあるマンションに引っ越してきたんです。




金曜の夕方、仕事帰りの千津美に魚屋から声がかかる

「今日、 彼氏が帰る日だろ?」

新鮮なさんまが入ったよ、彼氏に食わせてやりな…と言われ
千津美はそれを買った

酒屋の息子が千津美を呼び止めて
「新潟のうめぇ酒を入荷したんだ…兄貴に是非…」

「おっと、かぼちゃも甘くなってきたぜ…」
八百屋の息子も声をかけてくる

功はいつのまにかこの二人に「兄貴」と呼ばれて慕われている

「あ…でも、もう持てないから…」
「あとで、運んでやるよ…」

「おれが持つ」
いきなり後から声がして、千津美は振り返った

「ふ…藤臣くん、早いのね」
「卒業近いとあまりやる事がないんだ」


「兄貴…今日は八時から◯◯屋の二階ですよ!」
「ああ…」

功は週末ひらかれる『志野原千津美ファンクラブ』には
時間の許すかぎり参加していた
おれがファン1号だからな…、そう言って…



やっぱり藤臣くんは、少しだけど変わった気がします。


去年…わたしたちはいろいろあったけれど、藤臣くんは今考えればそれはそれでよかった… と言ってくれました。
あの別れを通して、長いつきあいの間、当たり前のように思っていたお互いの存在がどれほど大事かをあらためて認識する事ができたのだと…



「いこうか」

一升瓶とかぼちゃ、そしてさんまを片手で持った功が千津美に手を差し出した

「うん」

二人は手をつなぐと、並んで歩き出した



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