軌跡 2



ドアを開けて部屋に入った時、ノリコは少し赤くなり下をむいた

あまり広くないそこにはベッドが二つ置かれて
間には小さな机と椅子があった





今まで何度もこんな部屋でイザークと一夜を明かして来たのに

昨夜は野宿だったせいかあまり気にならなかったけど
イザークとこの狭い空間で過ごすのが、なぜだかとても気恥ずかしい


イザークは荷物をベッドの脇に置くと、窓際にたって外を見ている
それは、いつも彼が宿の部屋に入ると必ずすることだった

たぶん何か起こった時、どうすればいいのか考えているのだ

彼はいつだって気を休めることを知らない
眠っている間も剣をすぐ側に置いて、どんな小さな物音にもはっと目を覚ます
家を出てからずっとそうしていたのだろうか…

あたしは一度でいいから彼にのんびりとくつろいで欲しいと
ゆっくりと安心して眠って欲しいと心から願う



けれど、今…

天上鬼と目覚め…
どこからか追っ手はかならずかかる

あたしには優しくしてくれるけど
彼の中では常に恐れと緊張が渦巻いているのがわかる

あたしに何が出来るのだろう…
ただ彼の足手まといにならないよう気をつける以外に…





得体の知れない不安がつきまとう

天上鬼と目覚め…

とうとうその正体がばれてしまった

どこのだれにだかわからないが
あの女はおれたちのことを告げたに決まっている

ノリコを連れてこの先、いつまで逃げ続けなければいけない?

それでもいつかそいつらに囚われて
おれは天上鬼となってしまうのだろうか
その時、ノリコはどうなってしまうのだ


ゼーナが言っていたように
未来はおれたちの手で変えられるのかもしれない

だが、どうやって…
なにをどうしていいのか、おれにはわからん



窓の外から視線をはずし、振り返ってノリコを見た

怯えたような表情をしている
おれの不安はノリコに伝染する

不思議なことだが…
おれたちは、感情すらも共有しているようなそんな気がした





「疲れたな…腹が減っただろう」
優しく微笑ってイザークが言った

そんなイザークをノリコは、ただじっとみつめていた





夕飯を終えて、部屋の戻った

ノリコはベッドに座り日記を書いている
昨夜は野宿だったので、書けなかった分も書いているのだろう

長いこと真剣に考えながら書いていた
小さな文字を几帳面に綴っていたと思ったら
急に表情を崩してひどく嬉しそうな顔をした


おれは宿の主人が寝酒にとくれた杯の酒を少しずつ飲みながら
そんな彼女を見ていた


「楽しそうだな…」

あっとノリコはおれを見る
見られていたことに気づいて照れて笑った


「昨日のこと…書いていたの」

ああ…書くことはたくさんあるだろう

「今ね…」

ノリコは赤くなる

「あの…イザークに、好きだと言われた時のことを…」



「そうか」
と言って、イザークも恥ずかしげに目をそらした



唐突にノリコがしゃべりだした

「あのね、イザーク…
 あたし、昨日…イザークの為にお日様しようと思ったんだ」

「?」

「でもね、それは無理ってわかったの」

…くすっとノリコが笑った

「だってお日様してくれてるの、イザークなんだもの…」


さっき、あたしはイザークの緊張感にひきずられ
お日様どころではなかった
でもイザークが微笑んでくれて
不安だった思いが嘘のように消えて行った

「ああ、そうなんだってわかったの
 あたしが笑っていられるのはイザークのおかげ…です」





ありがとう…と言われ、おれは面食らった

なぜおれが礼を言われるんだ…?

よくわからんが、ノリコを見て笑ってみた
ほんの少し…口の端を上げて…

ノリコはそんなおれに…笑顔を返してくれた
おれがずっと焦がれていたあの笑顔を…

こんなにも単純で簡単なことだったんだ
おれが笑えば、ノリコも笑う…

そういうことか…

なぜだか可笑しくて笑いがこみあげて来た


くっくっ…と笑うおれを
ノリコが驚いたように見ている





イザークがこんなふうに笑うの…初めて見る
なんだか嬉しい


笑いながらイザークが言う

「ああ…そうだなノリコ、だが…」

「だが?」


いや、なんでもない…と言ってイザークは顔をそむけた
一体何が言いたかったんだろう…?





おまえが 好きだから
そんなおまえが傍にいてくれるから
おれはこうして笑うことができるんだ

ノリコほど素直ではないおれは
口から出かけた寸前、言葉を止めた

さらっと言って、ノリコを喜ばせることが出来たらいいのだが…

やっぱりおれはだめだな…





「あのさ…イザーク」

イザークが何か言い悩んでいるようなので
あたしは話題を変えてみた





「 あたしに好きだと言われて
 本当は…嬉しかったと言ってくれたでしょ」

ノリコは恥ずかしげに手元に視線をおとした

「も…もしかしてイザークはあたしのこと
 あの時から好きでいてくれたのかなぁとか思ってしまって…」


「ああ…」
 好きだった、おまえをずっと…


「そっかぁ…」
ノリコは嬉しそうに言った




「おまえには随分悲しい想いをさせたな」
ぽつりとイザークがつぶやく


「ち…ちがうの、そんなこと言いたいんじゃないの
 イザークだって…」

ノリコが顔を上げて慌てて言った


「受け入れてもらえなくてあたし悲しかったけど…
 イザークはもっと辛かったんだよね」


「ノリコ…」


「あたしたち…ずっと同じ思でいたのかなぁって
 そう考えたら、なんだか 嬉しくなっちゃって…」

嫌な思い出なはずなのに、変だよね…
はにかみながら、ノリコが言う



イザークが好きでたまらなかった
気持ちを受け入れてもらえなくて悲しかった



ノリコを離したくなかった
気持ちを受け入れてやれなくて辛かった





彼女の言うとおりだ
おれたちは感情すら共有しているのかと先ほど思った
不安な感情だったにもかかわらず、そのことが不思議とおれには嬉しかった


「あたし…今、すごく幸せなんだ…」

消え入りそうな声でノリコが言った





イザークはあたしの目をまっすぐ見ている

「え…えっと、もしかして…イザークも、なんて」


ああ、あたしは何を言っているんだろう
そんな事は、イザークの問題であって、あたしがどうのと…

恥ずかしくって顔が熱くなり
目をぎゅっとつぶって固まってしまった



イザークがあたしのベッドに腰掛けた気配がした
あたしは目を開けて彼を見る
彼はあたしの肩に手を置き、顔を近づけた

「そうだ、おまえが傍にいてくれる限り…」

おれは…しあわせなんだ…
そう言って、そっと口づけてくれた





自分ではなかなか認められなかったのだが
ノリコに言われてすっと受け入れることができた

気がつくと彼女に唇を重ねていた

昨日からそうしたくても出来なかったことを
いとも簡単にさせてしまうんだ…ノリコの言葉は


唇を離すと、真っ赤になったノリコの顔が目の前にあった

ノリコの背中に手をまわし、おれの胸に引き寄せる
彼女の膝から、日記帳とペンが転がり落ちた


そうだ…おれはしあわせなんだ


もう自分の気持ちを抑える必要などなく
おまえをこうして、この手に抱くことが出来る

そしておれがしあわせならば
おまえもそうして笑っていてくれるのか





別に初めてのキスじゃない

でも…考えてみればあたしたちはお互いを引き止める為に
気がついたらキスをしていた

なにもはっきりと覚えていないほど…無我夢中に…

今は…
彼の唇が優しく触れて来て、その感触をゆっくりと感じることができる

唇を離すとそのままイザークの胸にしっかりと抱かれた

この胸に抱かれて眠ったことはもう何度もあるのに
いまこうして抱きしめられて彼の胸に顔を埋めていると
ひどくドキドキしている


目を閉じて彼を感じてみた

彼の息づかいが聞こえる
大好きな彼の香りを嗅ぐ
彼の両腕が身体を包んでくれている

こんなにもしあわせで、本当にいいのかしら…





ノリコは目を閉じておれの胸にじっとその身体を委ねている
おれは彼女を離したくなくて
しばらくそのまましっかりと抱きしめていた

このまま…出来れば…





突然イザークは、ノリコの身体をぐいっと離した

「もう…遅い」
ノリコから目をそらしたまま彼が言った

イザークは立ち上がって、自分のベッドへ行き

「早く寝ろ」
そう言って、背を向けて横たわってしまった




 あたし…何かしたんだろうか?
 さっきまで、あんなに優しかったのに…

 イザーク…どうしたの…



ノリコは床に落ちた日記帳とペンを拾いかばんにしまった
そして不安気な面持ちでベッドに横になった





 おれってやつは…

イザークはひどく悩ましげな表情で壁をみつめていた







翌朝、起きたらいつものイザークだった
無表情で無口で…でもあたしを見る目が優しい…

あたしはほっとして旅立つ支度を始めた


イザークはあたしを宿において馬を調達しに行った
戻ってくると、今度はあたしを服を売るお店へと連れて行ってくれた


「本当にいいのに…イザーク」
遠慮するあたしに

「夏物はいらなくとも…
 これからの季節用に、薄手の長袖を買った方がいい」
真剣に言う

選べと言われても、いつものようにあたしは決められない

「相変わらずだな…」
フッとイザークは笑った

「いい加減、自分で…」

あたしはイザークの袖をつかんだ
「あ…あたし、イザークの選んでくれた服を着たいから…」

「…」


イザークはそれ以上何も言わずに、少し時間をかけて選んでいた
あたしはずっと彼の袖をつかんだまま、彼に寄り添って立っていた





女の服のことなど何もわからなかった
最初にあの行商人から買ってやった時は
適当に一枚選んだだけだったが
それは意外とノリコに似合った

それからは、彼女の服を選ぶたびに
彼女がそれを身につけた姿を想像しているおれがいた

一度だけ…
最後に夏服を買ってやった時、おれの頭をよぎったのは
その服をまとうことになる彼女の白い身体だった


「イザークどうかしたの?」
ノリコの声に我にかえった

おれは、昨夜から…どうかしている




「恋人かい…?」
お代を払おうとした時、お店のおばさんに訊かれた

「仲良すぎてさ…近寄れなかったよ…」
からかうように言う


ちょっと困ったな…
あたしはいいけど、イザークはそういうのだめな人だから


「そうだ…」

そう言って、イザークがあたしの肩を抱いてくれた
えっと驚いたけど、なんだか嬉しくなって彼の胸に頭をよせた

やれやれ、ごちそうさん…とおばさんが笑った



なんだか信じられない
彼は人前でそんなことをするような人じゃないって思っていたのに

確か恋人…て訊かれたんだ
そしたらイザークは、そうだって…

そ…そうよね
お互い好きだってわかったし、キスだってしたし…

恋人なんだ…あたしたち

そう考えたら顔がかあっと熱くなった…


くすっとイザークが笑った





ノリコが真っ赤になっている
何を考えているか、わかるような気がした

恋人か…

なんと呼ばれようがどうでもいいことなのだが
そうかと訊かれれば、そうだと答えるしかあるまい

それよりもノリコの肩を人前にもかかわらず
何の躊躇も無しに抱いた自分に驚いた

望むままに自然と手が動いた
それを止めようと邪魔するものは、もうおれの中になかった
それがただ嬉しかった


ノリコの肩を抱いたまま、店から出て歩き始めた
町中で人通りも多かったが、そんなことは全く気にならなかった
相変わらずノリコは赤い顔で恥ずかし気だったが
そんな姿すらたまらなく愛おしい

ああ何度でも実感してやる
おれは、しあわせなんだと

行く先の見えない未来も
正体のわからない追っ手も
今、この瞬間は忘れられるような気さえする




心なしか、イザークのいつも張りつめている気が緩んだように感じた
隣を歩く彼を見る
彼はひどく穏やかな顔をしていた

あたしはそんな彼の姿がとても嬉しかった
この先、何が起こるか想像もつかないけれど
今この人とこうして一緒にいることができて、本当にしあわせだと思った


イザークがあたしを見て目が合った

言葉はもう必要なかった…



荷物を纏めて馬に乗せ、あたしたちはまた旅立って行った




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