軌跡 5


水面が鏡のように静かに光っている泉があった
馬を近くの木に繋ぎ水を飲ませる

「あそこが水源だな」
泉の半分を囲むようにある岩の隙間から水が湧き出ている

「ここで待っていろ」
イザークはそう言うと、水源の近くの岩まで跳んで
手を伸ばすと持っていた容器に水源から直接水を汲んだ

すべるだろうになぁ、あの岩…
でもイザークなら心配することない

戻ってきたイザークが汲んだ水をカップに入れて渡してくれた

「冷たくて美味しい…」
ただの水がこんなにも美味しく感じる…


もう夏も終わる頃だったけど、日中の日差しはまだ強く
イザークはあたしに無理はさせまいとこうして時々休憩を取ってくれる
馬に乗ってるから大丈夫だよと言うあたしに微笑って

「別に急ぐ旅じゃない…」


そう…
誰に追われているのか、どこへ行くのか全くわからないまま
ただ逃げ回っているだけのあてどない旅…

本当なら絶望感にあふれていても不思議じゃない状況なのに
あたしはすごくしあわせだった


イザークが木陰に座りあたしに手を差し出した
それに導かれるようにあたしが彼の膝に座ると
彼の腕があたしの身体に廻される

彼の胸と腕に囲まれるその空間はあたしにとって一つの宇宙だ
身動きができないくらい狭いのに、あたしの求める全てがそこにある

イザークの鼓動や息づかいが…そして耳元で囁くような声が聞こえてくる
彼の香りが鼻をくすぐり、身体中でぬくもりを感じられる
時々唇が重ね合わされて、目を開けるとそこには…彼の微笑みがある



「お水、美味しかった…」
「ああ…かなり冷たいから地下深くから湧いてるんだろうな…」

何気ない会話をかわす
そんなことすらとても嬉しい

ほんの二週間程前までは、それすら叶わなかった

彼が怒っているとか、あたしを見てくれないとか
そんなことばかり気にして、彼の態度に一喜一憂していた
不安で、いたたまれなくて…それでも彼の傍にいたかった

今はその願いがかなって
こんなにも彼の近くにいることが許されている

「イザーク」
あたしは彼の名を口にしながら
彼の胸に顔を埋めた

ここからもう二度と離れたくなかった

あたしたちの気持ちは、もう永遠に変わることはない
だからと言って、あたしたちがずっと一緒にいられる保証などなかった

この先何が起こるのか…あたしたちは運命を変えられるのか
まだ何もわからない

だから…

今、彼の為にあたしができることがあれば…精一杯してあげたい




「何を考えている」
イザークがつぶやくように訊いた

「えーと、あたしイザークの為に何ができるんだろう…とかね」
「なぜそんなことを…」
「だって、イザークはいつもあたしの為にいろいろしてくれたり
 教えてくれたりするのに…」


「傍にいて欲しいと言ったおれの願いを叶えてくれている」
「で…でも、それはあたしだってそうお願いしたんだし…」
「ここにこうしていてくれれば、それでいい」

でも…とノリコが首を振った

「あたしったらイザークに迷惑ばかりかけてさ
 なんにもしてあげられないんだよね」

水を汲むことすらできずただ立って見ているだけ
いつもそう…なんでもイザークがしてくれる

「それに…イザークは今は優しい言葉を言ってくれたり
 こうして抱きしめてくれたり… 
 そういうことは苦手だったのに、あたしのために…」
 
「おまえのためにおれが無理してそうしているとでも言うのか」

「えーっと、そういう意味じゃないの…
 ただイザークはそうして変わっていってくれているのに
 あたしは相変わらず進歩ないなぁなんて」


「おまえはなにもわかってないんだな」
「え…」

「おれが変わったんじゃない…
 おまえがおれを変えたんだ」

「そ…そんな」
ノリコは赤くなって言う

「あたしなにもしてないもの
 いっつも変なことばっかり言って、イザークを呆れさせるくらいしか」





ふっとイザークは笑った

「では、おれをもっと呆れさせろ…」
「や…やだぁ、イザークったらふざけるんだから…もう!」

「ふざけてなどいない…」

真顔で言われて、なんだか恥ずかしくなってノリコは下を向いた

「でもやっぱり、イザーク変わったよ…
 ふざけてても、ふざけてなくても…
 前はそんなこと言ってくれなかったもの」

ふざけること自体、彼はしたことがなかった

「おまえの所為だ…」

責めるように言って
彼はあたしの顔を上に向かせて口づける

息もできないくらい深い口づけ…
それはほんの数日前に初めて交わしたばかりだというのに
今では当たり前のようにお互いの唇を求め合う

あたしたちの間も確実に変わってきていた

いつかあたしたち愛し合うことになるんだろうか

イザークが教えてくれた時から
そのことが頭に浮かんでばかりいる…

あたしったら…


イザークがまた笑った





唇を離して見ると、目の前に赤くなって固まっているノリコがいた

またあのことを考えているのか…
あれ以来ノリコはよくこんなふうに考えては恥ずかしそうに赤くなる

だが…そんなノリコの姿が可笑しくて、つい笑ってしまう
そして、そうやって笑うたびに
暗い運命から逃れられずに苦しんでいた孤独な日々が
おれから少しずつ遠ざかって行く



ノリコを抱きしめて耳元で囁いた

「もっとおれを笑わせてくれ…」



まだ夏の暑さが残る日だったが、泉の傍の空気は涼やかで
抱き合っているにはちょうど良かった



ずっとそうしているわけにもいかず、おれたちはまた出発した

馬の背に乗ったノリコの身体を引き寄せようと腕を廻すと
彼女がびくんと緊張した

「いくらなんでも考え過ぎだ…」
「そ…そうじゃなくて…」
「なんだ?」
「…」

うつむいたまま、ノリコは答えない

おれは彼女が答えてくれるまで気長に待つことにした

旅はまだ続く…





イザークには秘密は持つまいと、あたしは自分に誓った
例え真実がどんなに辛くても、彼に嘘をつくようなことはしないと…

でも、恥ずかしくてなかなか言い出せないこともある


彼は諦めたのか、それ以上は訊いてこなかった


その夜は次の町までまだ遠く、久しぶりの野宿だった
それは、あのセレナグゼナを出た最初に夜以来だった


彼はひとりの時は、ほとんど野宿だったと言っていた
以前の旅の時も、野宿のほうが多かったかもしれない
けれど今、再び彼と旅を始めてから
イザークはなるべくどこかへ泊まれるように算段をしてくれている

あたしのために…

だからなのか、今日の彼はあまり機嫌が良くない

不思議だけど今のあたしはイザークの機嫌が少しくらい悪くても
もうそれを気にして動揺したりはしない

誰だって機嫌のいい時もあれば、悪い時もあるもの
大事なのはなぜ悪いのか、その原因を知ること
あたしでどうにかできることであれば、そうしてあげること
あたしはそう思っている

けれどその原因はあたしだった…


「イザーク、あたし野宿も好きよ…」

ほら、と仰向けに寝て空を見る
雲さえなければ、こっちの世界は満天の星だ

「星がいっぱい…きれい…」
天の川のようなものもある


「やっと、しゃべったな…」
「え」

その時、あたしは気がついた

あたしは、ふと頭に浮かんだことにとらわれて
あれからずっと黙っていたんだ

イザークの気持ちなんかおかまい無しに…


「ごめんなさい…」

「別にあやまらなくていい…」

誰だって、考え込んだりしゃべりたくなかったりすることはある
そうイザークは言った

あたしがさっき考えていたこととなんだか似てる
嬉しくなって笑ってしまった

「…」





もう慣れたつもりだったが
ずっと何かを考え込んでいるかのような表情をしていたノリコが
いきなりニコッと笑ってうろたえてしまった
こいつが何を考えているのか…さっぱりわからん


だが少なくとも今のおれは
それを訊ねることくらいはできるようになっている

「なぜ笑う…?」

「だってね、あたしもさっきイザーク機嫌が悪いけど
 誰だっていい時と悪い時があるよね…とか考えていたのよ」

なんか似てるよね〜と明るくノリコは言った

「そ、そうか…」

今日はずっと黙り込んでいたので
急に明るくおしゃべりをし出したノリコに少し戸惑った





「イザーク…」

そう…あの日の夜もこんな星空だった

「ん?」




やっと話す気になったらしい…

おれは座ったまま隣に寝転んでいるノリコを見た
ノリコは空を見たまま言った

「グゼナの国境で襲われて怪我をしたあたしに
 応急手当をしてくれたの、イザークでしょ」

「!」

「イザークはもうあたしの身体…見てるんだよね」

「…ノリコ、おれは…」

「別に責めてるわけじゃないのよ、ただ…」

 ただ…イザークがどう思ったのかが気になった
 でもそんなことは聞けない…


なんでもないと、ノリコは首を振った後

「あたしだって、イザークの上半身ばっちり見ちゃってるものね…」
と照れながら言った

男と女では、そのことの意味が大きく違う
それでもそう言うノリコがいじらしかった

それなのにおれときたら、夕暮れの薄やみの中に浮かび上がった
ノリコの白い身体を思い浮かべてしまう



「…ん?」

イザークがなんだか遠い目をしている…
ということは…何かを思い出しているってことで
このシチュエーションで考えられることっていったら…



「だめーーっ!」
ノリコが叫んで起き上がり、おれははっと我にかえった

「だめ、イザーク…やめて…」
「お…おれは…」

お互い赤くなった顔を見合わせる

「なぜわかった…?」
「やっぱり…」

ノリコは目をつぶると首をすくめてうつむいたまま震えている
おれはそんなノリコにどうしていいのかわからずまたうろたえてしまう





学校で体育の時間、着替える時もよく思った
胸とか身体の線が他の子と比べると子どもっぽい体型だなって
その時はそんなことは別に構わなかったけど…

まさか…彼にあんな形で見られるなんて思っていなかった…

彼は怪我をしたあたしのために応急手当をしてくれたんだもの
それを責めることなどできやしない

でもやっぱり
恥ずかしくてたまらない…




「!」

いきなりイザークがあたしの肩をつかんだ
その勢いであたしはまたその場に寝転んでしまった
そんなあたしの上に覆い被さるようにしてイザークがあたしを見る

「きれいだった…」

え…

「だから…悪いとは思ったんだが…見とれてしまったんだ」

「…」

「忘れることができないくらいに…きれいだった」


「イ…イザークてば、あたしを慰めようと…」
「嘘じゃない」


え…

イザークの手があたしの服のボタンをはずし始めている


さっきは思わずだめと叫んでしまったけど
彼の望むことは全て受け入れようと決心したことを思い出して
あたしは黙ってイザークの手を見ていた


彼の手で服の前の部分が大きく開けられた
あたしの胸がむき出しになる

「…」

恥ずかしすぎる…

「きれいだ…ノリコ」
そう言って、彼はあたしの胸に口づける

そしてまるで赤ん坊のようにあたしの胸に吸い付くと
その後舌を遊ぶように這わせる

あたしはなんだかすごく焦ったけれど
イザークがそれを望んでいるのだと思ったら
目を閉じて彼を受け入れようと覚悟を決めた

彼があたしの服を肩からはずしそのまま腰まで引き下げて
あたしの上半身をあらわにした

彼の唇が音を立ててあたしの身体にキスを繰り返す
もう恥ずかしさはどこかへ飛んでいってしまった

身体をうつぶせにかえされた
交差した両手があたしの胸をつかんで
耳元から首筋に、そして背中に口づけていく





身をすくめて耐えている彼女に対して正直になろうと思った
正直な気持ちを打ち明けていくうちに
幻想のように浮かび上がる彼女の思い出をもう一度確かめたくなった

そうしても構わないんじゃないか…と思った



彼女の服をぬがして、その胸に…身体中に愛撫を繰り返した

彼女をうつぶせにし、耳元に口づけて
そのまま首筋を通って背中へと唇を這わせながら
両手で彼女の胸をつかんだ

ノリコの全てが欲しかった

帯をほどくと、上衣が彼女の身体から離れていった

彼女の下穿きのヒモをほどいた…






服の下にはいているスパッツみたいなそれのヒモをほどかれた

「…」

もう何も考えられない…
全てを彼に任せようと観念した


イザークの動きが急に止まった
それまであれほど激しくあたしを求めていたというのに…
彼の身体があたしから離れたのを感じた


ばさっ…と身体に毛布をかけられ、そのまま包み込まれた

え…

あたしは目を開けてイザークを見た

彼は少し赤くなった顔でため息をついて、片手で頭を抱える

「すまん…」


なぜあやまるの…?

聞きたかったけど、言葉が上手く出てこない…





ノリコを思うがままに抱くことなど
おれに取ったら赤子の手をひねるより簡単なことだ

出会った頃から、彼女は無防備だった
今も、彼女はなんの抵抗もせずにその身をおれに任せた

諦めきったような顔をして…


違う…

おれはこんなノリコを抱きたいんじゃない


寸前でおれは自分を止めた





身体中に彼の感触が残っていた
けれど…なぜ彼は急に止めたんだろう

それ以来、彼は黙ってたき火をいじったりしている


優しい人だから…
きっと、あたしのために、押さえたんだろうな…

それは確かなことに思えた


彼はそれを求めていた…

だったら…



「もう寝ようか…イザーク」

ああ…と彼は目をそらしたまま答えた



寝具を用意した

彼は火を消してそこに横たわった


「何をしている、ノリコ」
彼があたしに訊いた

「今、行くよ…」
かばんの中から取った日記帳をしっかりと胸に抱いた

この世界へ来てからの全てをそこに記してあった
そして今日…新しい記述が加わるんだ…

あたしは決心した…


身に纏っている全てを脱ぎ捨てて
あたしはイザークの傍らに身を横たえた





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