ノリコの日記 in New York 序


3月X日
イザークから突然ニューヨークに行く気はないかと訊かれて
びっくりしたけど…もちろん行きたいと答えた
例え火星に行こう…と言われたって、あたしは躊躇無くうんと言える
イザークと一緒だったら…どこだって構わないもの…







先ほどまで降っていた雨が上がり
穏やかな陽光が庭に差し込んできた

居間のソファに座ったイザークが
青さが戻ってきた空を窓越しに見上げている

放心しているような彼の姿は珍しくて…
飲み物を運んできたノリコの足が止まった


自分の世界を思い出しているのかなぁ…

ノリコの胸の奥がキリリと痛んだ

あたしの所為でもう帰れなくなったんだ…
やっぱり、寂しいよね…


「ノリコ…」

振り向いたイザークが優しく微笑んでくれる…
それすらも何故かひどく切なく思えた


「虹が出てるぞ…」
「え…ホント…?」

テーブルの上にお盆を置くとイザークの隣に座り一緒に空を見上げる
雨上がりの空に虹が見事な半円を描いていた

「きれいだね…」
「ああ…」


以前やっぱり彼と見上げた虹を思い出しながら
うっとりと眺めるノリコの心にイザークの声が響いてきた

『おまえと一緒に見られるのなら…どこの空かは関係ない…』


自分の憂いをイザークに気づかれていたんだと
ノリコは少し驚いて目を見開いた

くすりと笑ったイザークがノリコの肩をそっと抱き寄せると
二人は顔を近づける



「ウッホッホホン…!!」

盛大な父親の咳払いに
はっ…と我に返ったノリコはイザークから身体を離すと
運んできたコーヒーをいそいそと机の上に並べた


ひな祭りパーティから数日後の午後のことだった



イザークとベートに三月下旬…ニューヨークの国際会議警護の仕事がきた

各国要人の集う会議には勿論国の機関が警備に当たるが
以前イザークが自爆テロを防いだ場に居合わせて
その凄さを目の前で見せられた主催者の一人から直々の指名があったそうだ

なんでもこの会議を成功させたくない者が
暗殺だとか爆破などを計画しているという情報があったらしい

個人の警護ではないので昼間の会議中のみの仕事となるという
ちょうど春休み中のノリコと華も一緒に行っては…という話が持ち上がった


建前は華と一緒に卒業旅行…だったが…
ノリコは正直に全てを両親に話した

「イザークが全部出してくれるって言ったのだけど…
 飛行機代くらいは貯めていたバイト代でなんとかなるし…」
「向こうの滞在は…ホテルなんかはどうするんだ…」
「あ…あのね、イザークには会社が
 会場になっているホテルに部屋を用意していて…」

華はベートのアパートに寝泊まりするので
自分はイザークと一緒に…とノリコが言うのを聞きながら
父親は面白く無さそうにコーヒーをすすった


最初に簡単に自分の仕事の話をして(どうやら今回は極秘ではないらしい…)
ノリコの同行を許可してもらいたい…と言ったきり
後はノリコに任せて黙っているイザークを窺い見る


この男はいつのまにか娘の恋人から婚約者へと昇格していた
結婚を許した覚えはないのだが…

まあ…たとえ反対したところで
それが何の意味も持たないことは重々承知している

ノリコはもう彼の手の中にあるも同然で…

今は…一年待って欲しい…そう言ったわたしの言葉を
彼が尊重していてくれているだけなのだ

二人がすでにそういう関係だということは
最初から隠そうともしていなかった

今さら一緒に旅行するのを禁ずるのは野暮というものか…


それに…

近頃仕事が忙しくなったらしい彼は不在が多い
あれほど毎日べったり一緒にいたせいか
所在なさげにしているノリコの表情が寂しげに沈むこともある
それは…あの頃の彼女を彷彿させて我々としては甚だ不本意でもあった

今日は天気がいい…と嬉しそうにはしゃいだり…
おいしい…と言ってごはんを食べる…
そんな当たり前の日常がやっとノリコに戻ってきたというのに…

四月からノリコも保育の専門学校に通うので忙しくなり
一緒にいられる時間はもっと少なくなる

せっかくなのだから…許してやるべきなんだろうな…



「イザークさんがお仕事をしている間はどうするの…?」

治安があまり良くない街だと聞いている…と母親が心配顔で訊ねた

「え…と、華ちゃんはもう何度も行ったことがあるから」

観光に安全な場所くらい知っているから任せといて…と胸を叩いていた


「ベートさんは生粋のニューヨーカーで…
 華ちゃんも慣れているようだし…」

それになんと言っても…
最高のボディガードが夜だけだが…傍にくっついているわけだ…

「いい機会ですから…いいんじゃないですか」

母親がそう言って
父親も…渋々だが…首を縦に振ったのだった






3月X日
今日はいよいよニューヨークへ出発…昨夜はドキドキして眠れなかった
初めての外国旅行…っていうこともあるけど…
イザークと一週間も一緒にいられるのが嬉しくて…
イザークがつきあってくれたので一晩中おしゃべりしてしまった…少し反省…
華ちゃんが家の車で空港まで連れていってくれるというので
イザークは早めにうちにきて一緒に待つことになっている




二人の乗った車を見送った父親が首を傾げた

「気のせいかな…なんだかえらく空気が険悪だった気がしたのだが…」
「ええ…なんとなくイザークさん恐かったですね…」



広いトランクルームにスーツケースを積み込んだ後
ノリコはすでに華とベートが座っている後部座席に乗り込もうとした

「助手席の方が快適だよ…」

運転手がノリコに勧めたが
それをがん無視したイザークが助手席に座ったのだった



「まぁ…後部座席に三人座るのなら…
 小柄なノリコの方がいいですよね…」

「だが…助手席の方が快適なのだから…
 多少窮屈でもノリコを座らせてくれても良かったのではないか…」

「運転手さんもちょっと…ムッとしてましたね」

イザークらしくない…と、両親は不思議に思ったのだった




車の中では…ベートがひどく楽しそうに口笛を吹いている


華の家を出発する時、助手席に座るように言った華に
ベートが後部席に乗り込んで言ったのだった

「…ま…少しでも楽しみましょうよ…」
「?」



な…なんだ…こいつ…
相変わらず不機嫌そうな面して…
隣に座るくらいいいじゃないかよ…
ったく…どんだけ独占欲の塊なんだか…

むすっと膨れっ面の灰島が運転しながらチラッと隣のイザークに目をやると
腕を組んで座っているイザークは眉間にしわを寄せて横目で睨みつける


散ってる、散ってる…火花が…

くっくっと笑い出したベートをノリコと華が不思議そうに眺めた





「それにしてもねぇ…」

母親が出発前にイザークから渡されたかごを見ると
父親も可笑しそうに笑った

「あいつにペットを飼う趣味があったとはな…」


今までイザークが留守の時はノリコが面倒をみていたという
あまり見かけない二匹の生き物の世話を頼まれたのだった

食事は肉の破片を数個与えるだけで
かごのふたを開けておけば適当に家の中を散歩するから放っといてくれと
例の仏頂面でイザークが言った時は思わず吹き出しそうになったものだった





「なるほど…エコノミークラスね…」
「はは…参ったな…」

華とベートがそう言って苦笑したのは一回目の機内食の後…
ノリコが眠ってしまった時だった



イザークとベートにはビジネスクラスの航空券が用意されていたし
華も…その辺は全く問題なかったが…
航空券くらいは自分で…と言うノリコにとってはエコノミーが精一杯で…


「差額分をおまえが出してやれよ…」

ベートにそう言われたイザークが少し考えた後に首を振った

「いや…おれはノリコと一緒に座る」

代わりに華が自分の席へ…とイザークは言ったが
華がせっかくだから皆一緒に座ろうと提案して
結局…エコノミークラスに四人並んで座ることになった



「そっかぁ…空を飛ぶのは初めてなんだ…」

外国旅行どころか飛行機は初めてと言うノリコに
ベートが、恐くない…?などと訊いてきた


あの盗難未遂事件以来…もう三桁近い日々が過ぎたが…
英会話が得意な華に感化されたノリコは頑張って勉強していた

英語は中学生から勉強していたからある程度の知識もあった
全くゼロから始めた異世界語を短期間で習得した実績があるノリコの英会話は
ほぼネイティブに話せるイザークの助けもあって、随分と上達していた


空を飛ぶのは初めてじゃないんだけど…

翼竜でイザークと一緒に花の町へ行ったことを思い出しながら…
ノリコはニコっと笑う

「え…と、大丈夫…イザークのそばなら恐くないです」

華とベートは呆れたように首を振った

「イザークのそばなら恐くないね…」
「はいはい…勝手にやって下さい」

「あれ?」


照れて赤くなったノリコを見てベートがくすっと笑った

ホントに気持ちがすぐ表情に出るんだ…この子は…
感情の有無すらわからないイザークとはえらく違う…


「典子ったら…例え飛行機が落ちても
 イザークが助けてくれると思ってるみたいね」

ノリコを冷やかす華の言葉を聞きながら
ベートはあの夜感じたのと同じ奇妙な感覚にとらわれた


もしかするとノリコは…本当にそう思っているのかもしれない…

彼女に取ってイザークは絶対的な存在…
針の先ほどの不安感も抱くことなく信頼しているようだ



離陸後…しばらくして機体が水平飛行となった
機内では飲み物が配られている


ベートは隣に座っている華越しに二人を眺めた

ノリコは嬉しそうにぺらぺらとおしゃべりをしている
相変わらず短い相づちを打つだけのイザークだったが…


まったく見ちゃいられんな…
なににやにやしてるんだか…
おれには無愛想な顔しか見せないくせに…

会社の人間がこんな彼を見たら…


「…?」

突然口元を手で押さえて肩を震わしているベートに
華が不審気な視線を送った




昨夜は興奮して眠れなかった言って
遠足前の小学生みたいと華にからかわれたノリコは
最初の機内食を食べ終わった後…うとうとし始め…
イザークの肩にこてんと頭を乗せると…眠ってしまった


エコノミークラスの座席の肘掛けは上げられるのでしきりがなくなる
イザークは身体を斜めに向けて狭い座席間で持て余していた長い足を
ノリコの座っている方に伸ばし、両腕でしっかりと彼女の身体を抱き寄せた
そしてノリコを起こさないように注意を払いながら
彼女の髪や顔…背中を優しく撫で…時折そっと唇を押し当てる


だめだ…この人…周りが見えていないわ…
典子しか目に入っていないみたい…

あの夜のあれは…演技ではなかったとベートが言っていたが
華はようやくそれを信じる気になった


今ハイジャックされたとしても…
こいつ絶対にあのまま動かないだろう…

ベートは確信を持って断言できる…と思う

ま…ノリコが一緒だったら…
飛行機がどこに向かおうと興味無さそうだしな…



華とベートは苦笑いしながら…
二人と離れてビジネスに座っておけば良かった…と
今さらながら後悔をしていた


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by 彼方から 幸せ通信