ノリコの日記 in NewYork4

チク…タク…

部屋に掛けられている古い振り子時計の音が
静まり返った部屋の中にやけに大きく響いている





自分をイザークと呼べと言ったっきり…
彼はまた黙ってしまった


あたし達のことを教えて欲しい…
そう言った所為…なのかしら…

何か話せない理由でもあるのだろうか…


不機嫌そうな表情はあたしが記憶をなくした所為…?
どうしたらまた笑ってくれるのだろう…


婚約者だというイザークのことが気になって…
ちらっとノリコが窺うように見ると
自分を見ているイザークと目が合って思わず赤くなってしまった




「我慢をしているのか…」
「え…」

唐突にイザークがノリコに訊ねた




ホテルから戻った時のことだった


「気丈な子ね…」

イザークから渡されたスーツケースを引きずって
ホリーの部屋に消えたノリコを見てクロエが感心したようにそう言った

「記憶を失って…不安でしょうに…涙も見せずに頑張っているわ」

「…」

イザークは黙ってクロエの言葉を聞いていた



記憶を失ったからと言って
泣き虫な性格が変わったというわけではないだろう…


自分の所為で何度ノリコを泣かせたことか…
胸が裂かれそうな程後悔したイザークだった

だから…
もう二度と泣かせはしない…
そう決心したのだった…

決心したのだが…

泣きたいのをこらえているノリコは
泣いているノリコ以上に遣り切れない…



「辛いなら…泣けばいい…」

あの頃はどうしようもなかったんだ…

けれど…今なら…




あ…

ノリコは思わず声をあげそうになって
両手で口を押さえた


記憶を失ってしまったあたしに
誰もがとても優しくて…気をつかってくれた

だから…
心配させたくなくて…



「どうして…」

わかるの…
声が震え出して最後まで言えない


涙が一粒ノリコの頬をつたって落ちた


本当は…

辛かった…
心細かった…
不安でたまらなかった…

もう止められない…

急に堰を切ったように涙がぽろぽろとこぼれてきた…


「ごめんなさい…」

他に何と言っていいのかわからず…
ノリコは謝ることしか出来なかった



涙で視界がかすんでしまったノリコは
目の前に座っていたイザークが立ち上がって目の前から消えたのを…
ただぼんやりと感じていた


「!」

いきなり身体が抱き寄せられて
彼が自分の横に座ったのだとわかった


「安心しろ…ノリコ…」


彼の掠れた声が
息すら感じられるほど耳のすぐ側で聞こえてきた


「おれが…傍にいる…」




トクン…トクン…

彼の鼓動が聞こえる…


あ…
なんだか落ち着いてきた


ノリコは力を抜いてイザークの胸に身体を預けてみる


不思議だ…


ずっとあった不安定な感覚…
足元に地面が無い感じ…
それがいつのまにか消えていることにノリコは気づいた


涙はもう…止まっていた…


暖かい…
ここはとても優しく…
あたしを包み込んでくれる

イザーク…

きっとあたしはこうしてあなたに甘えてきたんだね…



不安から解放されたノリコと同様に
イザークも不思議な安堵感を感じていた



おれの腕の中でノリコは泣くのを止めてすがりりついてきた

…今なら…

今のおれなら…
彼女をこうして 抱きしめてやることが出来る…

だから…
泣きたい時は泣けばいい…ノリコ

おれがおまえの傍にいる…






「あら…もうこんな時間…」

華が時計を見ると慌ててそう言った

「そろそろ失礼しますか…」

ベートが腰を上げた

「典子に帰るって言ってくるわ…」

居間へ入った二人の足が止まった



ノリコはイザークの腕の中で安らかな寝息を立てていた


「思い出したのか…?」

そう訊ねたベートに
穏やかな表情のイザークは静かに首を横に振った…


「何も…」






ニューヨーク3日目

あたしは昨日全ての記憶をなくしてしまった

きっとまた思い出せる…
みんなはそう言ってくれた

それが本当かどうかわからないけれど…
あたしは不思議とそんなにもう落ち込んでいない

傍にいる…
あの人がそう言ってくれたから

ゆうべはいつのまにか眠ってしまっていたみたい…
目覚めたあたしは、あの人の姿を探していた





朝食の席でもイザークは相変わらず無口だった
それでもノリコは彼がそこにいることが嬉しくて…
時々こっそりとイザークの横顔を見た



あたしはこの人のことが好きだったんだ…

どんな風に知り合って…つきあい出したのだろう
告白したのは…あたしからかしら
こんな素敵な人なんだもの…
きっと他にも彼を好きな女性は一杯いたに違いない
いったいあたしのどこを好きになってくれたのだろう


この人は…
あたしが何を思って…
何に泣くのか…知っている

ずるい…
あたしだって知りたい

あなたはその無表情の下に
どんな感情を隠しているの…

あたしたちは一緒の時間をどんなふうに過ごして
どんな話をしていたの…


けれど彼は何も教えてくれない…

なぜ…




朝食後…イザークは行ってくる…と短い挨拶だけ残して
チャールズと一緒に仕事へと出かけた



午前中、ホリーがノリコを病院に連れて行き
検査の結果、脳には異常が無いということがわかった

記憶は…戻るのを待つしかない…
気の毒そうにそう言う医者の言葉をぼんやりとノリコは聞いていた



家に戻ると華が来ていた
何もせずにいるのも却ってよくないと
ホリーも一緒に街へと出かけて行った



「イザークったら…なんにも話してないの…?」


観光名所をいくつかまわった後、休憩で入ったカフェで華から
ゆうべイザークからどんな話を聞いたのかを訊かれたノリコが
何も…と答えて、華は驚いて思わず聞き返したのだった


「いったいイザーク…どういうつもりなのかしら…」


首を傾げる華の横で、ホリーが怪訝そうに眉を寄せた


「ねぇ…彼って、あんな顔して…」

一瞬言葉を途切らしてから…ノリコの顔を覗き込んだ


「過保護なの…?」


ノリコは顔を赤らめると手元のカップを見つめながら
今朝イザークがお茶を渡してくれた時のことを思い出していた


朝食の席でイザークは相変わらず無口だったのだけれど…

後からやって来たノリコが座ると
机の上に置かれているパンにバターを塗ってくれて
お皿に卵やベーコンを盛ってノリコに差し出した

ノリコがお礼を言う間もなく
イザークは立ち上がるとキッチンに消えた

机の上にはコーヒーポットが置かれていたが
コーヒーが苦手なノリコの為に お茶を入れてきてくれたのだった

そして…リンゴの皮をむこうと手にしたナイフを取り上げられた

当たり前のようにその一連の動作は行われて…

「…」

カークやチャールズ…クロエも…
器用にリンゴの皮をむくイザークの手元を
ぽかんと見ていたのだった



「態度とギャップがありすぎるのよね…」

無愛想で横柄そうなイザークを思い浮かべているのか
上目遣いでホリーがこりこりとおでこを掻いた


「あ…あたし…知らないもの…忘れちゃってるから…」

困ったように言うノリコにくすっと華が笑った

「だから言ったじゃない…
 イザークはノリコを大切にしているって…」




ゆうべのことだった



「寝間着を貸してくれないか…」

寝てしまったノリコをベッドに横たえたイザークは
部屋まで案内したホリーにそう頼んだ


「あたしが着替えさせるわ…」
「…おれの方が慣れている」

でも…と抗議しながらホリーはイザークに寝間着を渡した時…
すでにブラウスを脱がせられたノリコの胸元に散っている紅い印を
なんだか見てはいけないような気がして目をそらせてしまった


「…おれの方が慣れている…か」

手早く着替えさせてしまったイザークが
最後にノリコの額にキスを落として部屋を出て行く後ろ姿を…
そう呟きながらホリーは見送ったのだった





ホテルの大広間では
今日特別に呼ばれた著名な学者の講演会が開かれていた

入り口近くの壁にイザークは腕を組んでもたれかかっている



ノリコに全てを話すべきなのだろうか…


昨日からずっと考えているが結論は出ていない

記憶を失ったノリコはもう一つの世界の話など
信じることが出来るだろうか…
それに…よくわからないまま誰かに話してしまったら…

やはりこの世界での作り話をすればいいのかもしれないが…


ノリコに嘘をつきたくはなかった



「…あと15分だな…」

時計を見ながらベートがふぁーと欠伸をする


この講演会で今日の会議はお開きになる

「時間通りに終わるかな…」

自分の何気ないつぶやきに応えたイザークを
ベートはついしげしげと見てしまう


こいつ…近頃本当に言葉数が増えたな…
以前はおれが何を言おうが、ほとんど無視していたくせに…


「ノリコが気になるんだな…」
「当たり前だろ…」

いやに素直じゃないか…

「心配しなくていいよ…
 講師のセンセーも聴いてる人たちも…
 この後は皆予定が詰まってるはずだから…」

会議の出席者も各国の要人たちで…
それぞれが晩餐会などに招待されているらしい

…などとベートがしゃべり始めた時…
ビクっとイザークの表情が一瞬…緊張した

「?」

問いかけるように見るベートを手で押し止めて
イザークはドアを開けると部屋の外へ出て行った





ホリーの家の近くにちょっとした自然公園があった


「少し…歩くか…」

帰ってきたイザークがそう言ってノリコは連れ出された


春の若々しい緑をまとっている樹々に囲まれた遊歩道を
イザークが歩いている

その後ろ姿を見つめながら…
ノリコはひどく懐かしい思いにかられている自分に気づいていた


あたし…
こうして彼の後ろ姿を見ながら歩いたことがあるのかしら…


思い出せそうで思い出せない…
歯痒い苛立ちが胸をかすかによぎるが…


大丈夫…

ノリコは自分に言い聞かせる

そのうちきっと思い出せる…



「…!」

ガラガラーッという音がして
スケートボードに乗った数人の少年たちが急に現れた

道がカーブしている所為でノリコの姿が見えなかったらしい…
勢い余った少年の一人が避けきれずにノリコの正面に突っ込んでくる


あ…ぶつかる


立ちすくんでしまったノリコの身体がふわりと持ち上げられて
その少年は不思議そうな顔をしながら先へと進んで行った


イザークの顔が目の前にあった


ビクン…

イザークに抱えられている身体に電流が走ったかのように震え
ノリコは思わず身体を固く強張らせる


「あ…りがとう」

地面に下ろされたノリコはほっとしたように息を吐いた


どうしたんだろう…
胸がどきどきする…

身体が熱い…




「遅かったのね…」

クロエは疲れた顔をして戻ってきたチャールズが脱いだ上着を受け取った

「…ああ、少しごたごたして、後始末に時間がかかった…」
「ごたごた…?」



完璧な警備だと思っていたが…
それは自惚れだったらしい…


今日の会議の終了間際…
会場の入り口付近に武器を持った男たちが走ってきて
そこにいた客数名を人質に会場ヘ入ろうとする

どうやらホテルの従業員の中に仲間がいて手引きしたらしい

警備していた警官たちが拳銃を抜いて男たちを取り囲んでいる

会場内には各国の要人たちがいる…
なんとか時間を稼いで…その間に…どうにか逃がせられないか…

人質の頭に銃をあて…そこをどけ…とわめく犯人たちを前に
チャールズは必死に頭の中でぐるぐると思考を巡らしていた時…

バンッ…とドアが開いてイザークが出てきた



「人質の命が惜しけれ…」
「うるさい」

リーダーらしい男がもう何度も吐いているセリフを言いかけたが
イザークがひど不機嫌そうに怒鳴って遮った

「あんたたちには悪いが…」

ぎろっ…とイザークが睨んでリーダーは及び腰になった

「おれの機嫌は最悪だ…」

「は…?」

「手加減などできんからな…」


あっと言う間にチャールズの目の前に犯人たちが転がっていた
人質になった客たちはへたへたと地面に座り込んで呆然としている
野次馬がしーんと静まり返って遠巻きに見ていた


ふーん…とベートが顎をこすりながら
倒れている男たちを気の毒そうに見ている

「…八つ当たりか…」


「…あと十分程で会議が終わる…その前に片付けておけ」

そう言って会場へ 戻って行ったイザークの背中を見たきり
彼には会っていなかった



最寄りの警察署で事情を訊かれたのは例によってベートだった
イザークの生年月日、日本の住所、ID番号までよどみなくスラスラと述べたが…

「ニューヨークの滞在先は…?」

担当の警察官から訊ねられたベートからちらっと見られて
チャールズが代わりに答えた

「おれの家だ…」
「…」




「…イザークは…?」

その場に二人の姿が見えないことに気づいたチャールズが訊ねた

「もうずっと前に帰って来て…
 ノリコを連れて散歩に行ったわ…」

にっこりと笑うクロエにホリーが不満そうに顔をしかめた

「クロエってば…あたしがちょっと目を離してる隙に…」
「あら…いけなかったの…?」
「だって…あの人…昨日みたいに…
 ノリコを無理矢理どこかに連れてってしまうかもしれないじゃない…」
「でも…イザークはノリコに優しいし…」

今朝の朝食の時のことを思い出しているのだろう…

「クロエは…すぐ人のこと信用しちゃうんだから…」

ぷんぷん怒り出したホリーにクロエが今度から気をつけるからと宥めているのを
チャールズは面白そうに眺めていたが…

どうしてもまたイザークのことを考えてしまう


イザーク・キア・タージ…

常に彼に纏わり付いていた非現実性…
ノリコを婚約者だと言った時でさえ…
作り話のように感じたものだった

今日も相変わらずな仕事ぶりだった

この目で見ながら…とても現実に起こったとは思われない…
本来ならばそう感じたのであろうが…

いつもの不機嫌そうな表情…

だが…
以前ならば…絶対にそこにあるはずのないものがあった

怒り…という感情が…

それがおれに彼は現実に生きている人間だと…
初めて認識させたんだ


『ノリコが記憶なくして…
 あいつ相当怒ってるんだな…』

ぼこぼこにやられた男たちを見て
ベートは笑いながら言ったものだった



「ねーっ、チャールズもそう思うでしょ…」

楽しそうなホリーの声が聞こえた

「え…」
「聞いてなかったのね…」

ぽかんとしたチャールズをホリーがじとっと睨んだ

「いや…すまん」
「あのね…チャールズ」
「…ん?」
「あの無愛想男にさ…パイをぶつけてみたらさ…
 どんな顔するか…面白いと思わない?」

わくわくしながら今にもパイを焼き始めそうなホリーに
チャールズはがっくりと肩を落とした


「やめろ…あの男を怒らせるな…」




遊歩道の先には池があってそこが行き止まりだった
夫婦らしい…水鳥が仲良く泳いでいる


彼は何も言ってくれない…
だったら…


立ち止まったイザークの後ろ姿を見ながら
ノリコは自分からなにか話かけてみようかと思った


「あ…あの」

イザークが振り返ってノリコを見た

声をかけてみたのはいいけれど…
その先が続かない…

落とした視線の先に自分の左手があった



「…これ…」
「?」

左手の指輪をノリコはイザークに見せた


「あたし…プロポーズされたこと覚えていないのに…」
 
それでも…この指輪をしていていいの…

不安そうに問いかけるノリコの瞳をイザークはじっと見つめていた



「返せ…」
「え…」

イザークが手を差し出した

「プロポーズを覚えていないのに指輪をしているのが不本意なら…
 おれに返してくれ」


怒らせてしまったのだろうか…


震えながら指輪をはずしたノリコがそれをイザークに渡すと
イザークがノリコの手をつかんだ

え…

ノリコが驚いておずおずと顔を上げる…
真顔で自分を見ているイザークに心がざわめいた


「…覚えていないだろうが…」


どうして…こんなに胸がドキドキするの…


「ずっと傍にいる…
 そうおれに約束してくれたのは…おまえだ…ノリコ」


…そうなんだ…
そんな大事なことを覚えていない自分が無性に悲しかった


「たとえ二度とおまえの記憶が戻らなくても…
 その約束は守ってもらう…」


え…


ノリコの手をつかんだままイザークはその場にひざまずいた



「おれは一生… ノリコを離すつもりはない」


なに…


「おれと結婚してほしい…」



夕闇が辺りを覆い始めている
風が木の葉を揺らす音以外なにも聞こえない中で
ノリコは自分の鼓動がはっきりと聞こえるような気がした


ひざまずいたまま…イザークはノリコを見上げている


あたしはこの人のことを…
何も知らない
何も覚えていない…

でも…

今のあたしにわかっているたった一つの真実があった


「うん…」

ノリコはイザークに答えた

「あたし…イザークと結婚する」



あたしは…もう…イザークに恋をしている




ノリコの左手の薬指に再び指輪がはめられ…
イザークはそっと…そこに口づけた
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その後の彼方から
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by 彼方から 幸せ通信