ノリコの日記in New York 7


「ねぇ…荷物を家に置いたら
 イーストリバーの方までサイクリングにでも行かない…?」


ランチを終えて公園を後にしながら
ホリーはうーんと背伸びをする
気持ちのいい春の昼下がり…
家でじっとしているのはもったいない


「楽しそうだけど…あたし、これからお茶によばれているの」

政治家の父を持つ華の家族は外国の人とも交流があって
今日はニューヨークにいる知人の家族から招待をされていたのだ


じゃぁ…と華が手を振りながら背を向けて歩き出した時…
黒い大きな車が車道を通り過ぎて少し行ったところで停まった



「…間違いない…昨日の娘だ」
「…奴はいねぇな…」

後部席の二人がこそこそと話している

ニューヨークの裏の世界を牛耳る大物を父に持つ兄弟だが
父親の権威をかさに子分たちを率いてやりたい放題している
出来の悪い息子たちで…以前に一度
イザークから散々痛い目にあわされていた



「やべぇ…見るな…!」

昨日ノリコと出かけたイザークを
偶然見かけた二人は瞬即で物陰に隠れた

イザークが自分に向けられる視線すらも敏感に感じ取ってしまうことを
この二人はイヤというほど思い知らされている

「あいつ…どっかに行ったと聞いてたが…戻ってきたのか」
「…仕事じゃねぇの?…あの娘っ子の警護してるんだろ…」
「とにかく…早くこの場を離れよう」

イザークから出来るだけ遠ざかりたくて
二人は走って逃げたのだった



そのノリコをまた …通りすがりで見かけてしまった


「あの男を雇えるくらいだから…すげぇ金持ちの娘だろうな…」
「そうは見えんが…」
「ちょっくら攫ってみるか…」
「…だが奴が…」
「心配ない…近くにはいねぇよ…仕事は昨日だけだったんだ」

弟が、げはは…と歯を見せて下卑た笑いをする
兄の方はほんの少しだけ思慮分別があるようで躊躇していたが…

「上手く身代金が手に入ったら…例のあれがチャラになるぜ」

父親から手を出すなと固く言い含められていたにもかかわらず
こっそり遊んだつもりの賭博で借金がかさんでいた
ことがことだけに父親から金をもらうことが出来ず
困っていたところだったのだ


「そうだな…」

暴力沙汰はあまり好きでない兄だったが渋々同意して
前部に座っていた子分に尊大な態度で命じる

「あの東洋人の娘を攫って来い」



急に後ろから手が伸びてきて妙な匂いのする布に口元を塞がれたノリコは
あっと思う間もなく意識を無くして倒れかけた所を抱えられた


「ちょっとぉ…なにすんのさ!」

ホリーが叫んで男に掴み掛かる

「うるさい…!おまえには用はない…」

手で払われようとしたが…
ホリーは素早くかわすと男を足で蹴り上げた

「うわっ…このアマ…」

蹴られた男が怒ってやり返そうとするが
ノリコを抱いたままでは上手く動けないため
もう一人の男ががっちりとホリーの肩をつかんだ
きゃーきゃー…とホリーが騒ぎ出したので車の窓から兄が叫んだ

「その娘…うるさい、黙らせろ…」

やはり薬をかがされてホリーも意識を失ってしまった



「え…?」

何か後ろが騒がしいと振り返った華は
ホリーとノリコが何者かに抱きかかえられて乗せられた車が
急発進して小さくなるのを見て青くなったが…
手はすでにバッグの中の携帯を探していた





「よお…」

パトカーでホテルの前を通りかかったカークが
マイクとビリーを見かけて車を停め降りてきた

「相変わらず…おまえらここの警備か…」
「カークはいーよなぁ…さっさと逃げてさ」
「ホント…ずるいわよ、自分だけ」

車にもたれかかったカークが、にかぁーっと機嫌良く笑う

「課長が頭痛になる程、しつこく文句言ってやったんだぜ
 努力のたまものだ…」

ふん…とマイクとビリーが面白く無さそうに鼻を鳴らした

ちょうどその時…



「イザーク…待て…っ! 」
「…ん?」

叫び声が聞こえて何ごとかとそっちを見ると
ホテルからものすごい勢いで飛び出してきたイザークを
血相変えたベートが追いかけている


「なんだ…?」

カークに気づいたイザークは駆け寄ってくるとカークを押しのけ
パトカーの運転席のドアをバンっと開けて中へ身体を滑り込ませた

「おい…こらっ…何を…」

少し遅れてやってきたベートも慌てて助手席に乗り込んだ

わけがわからないながらも…
カークが取り敢えず後部席へと飛び込んだと同時に
ものすごいエンジン音を響かせてパトカーは急発進し
あっという間に視界から消え去った



「今のは…いったい…」
「なんだったのかしら…」

ぽつんとその場に残されたマイクとビリーは呆然としながら
このことを報告するべきか…などと考えていた



「落ち着け…イザーク…やみくもに探しても…」
「ノリコの居場所ならわかる」
「え…?」
「おい…どーいうことか説明しろよ!」


「鳴らせ…」

後部席から顔を突き出したカークに
イザークのひどく冷ややかな声が聞こえた

「は…?」
「サイレンを鳴らすんだ」
「ば…馬鹿なこと言うなって…ただでさえ一般人に運転…どひゃぁー」

高速で交差点に入る寸前…
イザークがブレーキを大きく踏み込みながらステアリングを切ったので
投げ出されそうになったカークは必死に前の座席のヘッドレストを抱きかかえた


「ノリコとホリーが攫われた…」

両腕をダッシュボードに突っ張って身体を支えているベートが
振り向いてカークに説明する

「な…なんだと…!」
「だから頼む…」
「…」

ほんの数呼吸分考えたカークが何かを吹っ切るように顔をぶるっと振ると
ダッシュボードの正面を指差した

「そこの…スイッチ…」

ベートがボタンを押そうとした時…車体が斜めに傾いて

「うわーっ」

慌てて再びダッシュボードに両手をつく

目の前の車の列に業を煮やしたイザークが
歩道に車体の片輪を乗り上げて走り出した

歩行者たちは皆…急いで建物の方へ身を寄せたが…
小さな子供が何が起こったかわからないようで
ぽつんと歩道の真ん中に突っ立っている


「停まれぇっ!…イザーク…」
「ああぁぁ…」

ベートは青くなって怒鳴り
とても見ていられないとカークは前部座席に顔を埋めた時…

ヒュオオーーッッ

どこからともなく風が吹いて
子供の身体がヒョィっと建物側に寄せられた


「え…」

目の前で起こったことが信じられずにベートは目をこする
車はそのまま子供の前を猛スピードで通り過ぎて行った

やっとベートがスイッチを押すと辺りにサイレン音が響きわたり
車が路肩に寄りはじめたのでイザークはパトカーを車道に戻した


「わ…わけを…説明…くっっ…」
「ハナが…知らせ…うわっ…ノリ…ホリー…連れ去ら……っと」

それでも邪魔な車を避けるためにイザークは鮮やかなハンドル捌きで
ものすごい蛇行を繰り返していた為…上手く話せないし聞こえない

サイレンを無視しているのか気づいていないのか…
旧型のミニがトコトコと走っているのを
イザークは反対車線に大きくはみ出して追い越そうとするが
前方からは大型トラックが向かってきていた


「うわぁぁぁぁ…」
「どわわわぁーーっっ」

フロントグラスごしにこちらに突進してくるトラックが見えて
十数年ぶりにベートは祈りの言葉を口にし始め
カークは大きな口をあけて叫んだまま石化したように固まってしまった


「あれっ…」

突然逆走しているパトカーが目の前に現れて焦ったトラックの運転手だったが
ハンドルがひとりでにくるくるとまわり出したのを呆気にとられてみつめた
トラックは大きく横にそれて歩道に乗り上げようとする瞬間
ものすごい急ブレーキが自動的にかかって停まった


「…いったい…何が起こったんだ…?」

野球帽が顔にずり…っと落ちてきたのを直す気力も無く
トラックの運転手がぽつりと呟いた


斜めに停車したトラックの車体と
老婦人がゆっくりと運転しているミニの隙間を
パトカーはするりとすり抜けて走り去っていった


「…」

通行人も…路肩に停まったままの車も凍りついたように動かず
都会の昼下がりの喧噪が嘘のように静まり返っている



『イザーク…』

あれほど呼びかけても返事が無かったノリコの声が聞こえた

『無事か…ノリコ…』
『大丈夫だよ…何か変なもの嗅がされて寝ちゃってたの』

相変わらず猛スピードでパトカーを飛ばしながら
イザークは安心してふぅ…っと息を吐いた

『知らない部屋に押し込まれてて…
 ホリーが今、なんとか抜け出そうとしているんだけど…』
『…すぐに行く…無茶はするな』
『うん…待ってるよ…イザーク』

通信は途切れ、イザークは更にアクセルを踏み込んだ




古いけれど高価そうな内装の部屋のペルシャ絨毯の上に
気がついたら転がっていたノリコとホリーだった


「んー…っ、取手までもう少しなのに…」

少し高いところにある窓から抜け出せないかと
ホリーが椅子の上にさらに装飾品として棚にあった
どこかエキゾティックなモザイクの木箱を置いて
その上につま先立ちで手を伸ばしていた

「ホリー…気をつけて…」
「何かもっと重ねられないかしら」

部屋の中をぐるりとホリーは見渡した
ホリーの足元で箱がずれないようにノリコは手で押さえている

「あのね…イザークたちがもうすぐ来てくれるから…」
「なんで、そんなこと…わかるのよ…」
「え…と、きっと華ちゃんが気づいて…連絡してくれたかも…」
「ノリコったら…まったく楽観的なんだから
 あたしたちがどこにいるかなんて…わかるわけないでしょ」

ぐ…っとノリコは言葉に詰まる

「早くしないと…あたしたち、きっと遠い異国に売られてしまうわ…」
「そ…そうなの?」
「そうよ…小説では攫われた美女はみんなそうなるもの」
「び…美女…?」

ちょうどその時…ガチャガチャと鍵を開ける音がして
ノリコとホリーは同時にドアの方に振り向いた


「あー…おまえら」
「なにやってる!」

例の兄弟たちが入ってきて二人を見ると
慌てて駆け寄ってきた

「きゃぁ…!」
「ホリー!」

バランスを崩したホリーがノリコと兄弟の上に崩れ落ちていった




キキキキィッッッーーー

タイヤから煙が立ちそうなほどの勢いでパトカーが停まった

ベートもカークも前につんのめりながらも
まだ無事でいることに心の中で感謝の祈りをあげていた



古い建物は、今時のものとは違いひどく堅牢な造りで
物々しいほど頑丈な木の扉は固く閉ざされている

車から飛び出したイザークがその扉に両腕を当てた

「…お…おれが…鍵を開けよう」

まだ震える足を叱咤しながら車から降りたベートの言葉が終わらないうちに…


ドォーーン…ばりっ…

轟音とともに扉がぶっ壊された



「何ごとだ…」

暴れるホリーに猿ぐつわをしてから
ひもでぐるぐる巻きにしていた兄弟が驚いて顔を上げた
傍らではノリコがホリーが落ちてきた衝撃で気を失って倒れている


「うぎゃぁ…!」
「げっ…」

子分たちの叫び声が聞こえて青くなった兄は
弟にドアの鍵をかけるように言った





何かが破壊される音がする…


そういやあたし…また攫われたんだった

いやだ…あたしったらこんな非常事に…
懐かしい…なんて思ったりして…


いきなり知らない世界に飛ばされたあたしは
襲われたり…攫われたり…散々な目に会ったけど
そんな時はいつも… 助けてくれる人がいた

だからあたしは恐くない…

いつだって…来てくれるから…



ばりりりっ…

部屋のドアは簡単に破られた

「ノリコっ…!」

イザークはまっすぐに床に倒れているノリコの所に駆け寄ると
床に膝をつきその体を抱き起こした



…いつだって…来てくれる…人がいるから…


「イザーク…」

目を開けたノリコは愛しい人の名前を呼んだ



ドアが壊され…現れたイザークの姿に縮み上がった兄弟の前に
ベートが腰に手を当てて仁王立ちになった

「君たち…あんだけ痛い目に会っていながら…
 懲りずにまだこんなことをしてるのか…」

ひいぃぃ…と涙目の兄弟は抱き合いながら床にくずれ落ちていく

「よりによって…ノリコを攫うなんて…」




「ごめんなさい…!」

イザークの胸に縋るように抱かれていたノリコが
急にぱっと身体を離すと青くなって謝った

「ごめんなさい…イザーク」
「何を謝っている…?」
「ごめんなさい…ごめん…」

ぽろぽろと涙がこぼれてノリコは両手で目を拭い始める

「あたしったら…いやだもう…信じられない…」
「ノリコ…?」
「イザークのこと…忘れちゃって…
 知らない人だ…とか思って…」

気が昂ったノリコは矢継ぎ早に言葉を繰り出して行く

「あなたは誰…なんて …イザーク…傷ついたよね
 あ…あたし…なんて謝ったらいいのかわからない…」
「ノリコ…落ち着け…」

イザークはノリコの頬を両手で挟むと
涙で潤んだ瞳を覗き込んだ

「…思い出したのか…?」

こくんとノリコは小さく頷くとまた繰り返し謝り始める

「…ごめんなさい…イザーク…本当にごめ…んんっ」

唇を塞がれて…ノリコはそれ以上何も言えなくなった



「いったい誰だってぇんだよ…あの娘…」

イザークの姿を目にした途端…
また酷い目にあわされると観念したのだが…

自分たちのことはまったく眼中になく…
床に膝をつきノリコを抱きしめ
口づけているイザークを…惚けたように兄弟は見ていた


「ノリコは…イザークのフィアン…」

そう言いかけたベートが、ふ…と言葉を止めてにこっと微笑った


「彼女は…イザークを三度ひざまずかせた女性だよ…」
「…」



「違う…」

「え…」

イザークの声がして、ベートは振り返ると
泣きじゃくるノリコをその腕にぎゅっと抱きしめたままイザークが言った


「四度だ…」

「…」






「遅かったのね…」

疲れた顔をしてホリー、カークとベートが戻ってきた


「ごたごたしてな…後始末に時間がかかったんだよ…」

「あら…?」

確か…昨日も同じやり取りが…

クロエはチャールズと目を合わせると
チャールズは口の端を持ち上げてにやりと笑った

あの男に関わるということが…
どんなことか…薄々わかってきたチャールズだった



イザークがノリコを連れてさっさと帰ってしまったので
警察の事情聴取はベートとホリーが応じた
ベートにとってはもう慣れっこのことで
手早く終わらせられると思ったのだが…


「それがさ…ホリーの奴…
 何が起こったか…ぶち上げる…ぶち上げる…
 担当の奴…しまいにゃ、頭か抱えてたぜ…」

夕食を取りながら…カークが可笑しそうに話している


そのカーク自身…
そうしないとかなりヤバいことになるとわかっていたので
パトカーを運転していたのは自分だということにしたのだが
…かなりの市民から苦情が来たらしく
上司のお小言やら始末書やらで今まで忙しかったのだった



「…ノリコとイザークは…?」
「それがね…」

ホリーが今さらながら二人がその場にいないことに気づいた

「夕方、戻ってきたのだけれど…なんだかノリコが汚れていて…」
「そりゃそうよ…車のトランクとか…部屋の床とか…
 土やほこりだらけの汚いところに転がされてたんだもの」

ホリーは帰った途端…速攻でシャワーを浴びていた

「そう…だから二人でお風呂に入ったの…」
「へ…」
「そうしたらノリコ…具合が悪くなったらしくて…
 イザークが抱きかかえて部屋に連れていったわよ」

「…」
「…」

結局… お呼ばれはキャンセルしてずっとここで待っていた華とベートが
居心地が悪そうに…黙って視線をそらした


「クロエ…お願いだからそんなこと…嬉しそうに言わないで…」
「あら…どうして…?
 ノリコの記憶が戻ったのよ…喜ばしいじゃないの…」
「…」

クロエはひどく無邪気そうな笑顔を向けるが…


『ノリコはいつも…動けなくなる…』

イザークの言葉を思い出したホリーはため息をついた




「なぁ…」

手を顎にあてて不可解そうな顔のカークがベートに訊ねた

「どうしてあいつはノリコの居場所がわかったんだ…?」
「ああ…おれもそれが気になって訊いてみたのだが…」



「ノリコの指輪にはGPSを着けてある…」

警察がまだ到着する前だった
カークがホリーの猿ぐつわやヒモをはずしてやっている時に
イザークは答えたのだった


「何が起こるかわからんからな…」

しれっとイザークはそう言うと、ノリコを抱えてその場を後にした



「あの男…どんだけノリコを束縛したら気がすむの…」

怒りでかぁっと赤くなったホリーが眉をきっと吊り上げた

「…でも…そのおかげで、今回助かったわけだし…」

まあまあとベートが宥めるが…

「それとは… 話は別よ…!」

ホリーは聞く耳を持たず…かっかとしていたが
ふ…と考え込むと…今度は何か企んでいるようにひそめた声で
華とベートに語りかけた

「ちょっと…」

「…?」

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by 彼方から 幸せ通信