ノリコの日記in New York 8


目を覚ますと…

下宿屋の狭いシングルベッドに
ノリコはイザークに抱かれて横たわっていた


「…イザーク」

彼の名を呼ぶノリコの小さな声が聞こえた

腕の中に閉じ込めていたノリコに視線をやると
彼女の大きな瞳が自分を見つめている

イザークは静かに微笑むと
そっとノリコの髪にキスを落とした



記憶が戻ってからずっと…
イザークを忘れてしまった自分にひどくショックを受けたノリコは
泣きじゃくり… ただ謝って…自分を責め続けた


家に戻っても…ごめんなさいと言いながら泣いているノリコを
イザークはバスルームへと連れて行った

髪や身体の汚れをイザークがきれいに洗い流してくれた後
バスタブにイザークに抱かれたまま身を沈めたノリコはやっと落ち着いて…
泣き疲れたのか…安心したのか…眠ってしまった


ノリコが目を覚ました時…傍にいてやりたくて…
イザークはホリーの部屋でなく…自分の部屋にノリコを連れて行った
ベッドに横たわらせ自分も傍らに横になると
その腕でしっかりと彼女を抱きしめたのだった



目覚めたばかりのノリコは…
イザークがそこにいることがとても嬉しくて…にっこりと笑ったが…
…段々と… 今日の出来事を思い出して…ノリコの表情がこわばっていく

ごめんなさい…と今にも言い出しそうな口元を…
イザークは指で押さえた


「腹は減っていないか…」

え…

「何かないか…訊いてこよう…」

起き上がって離れて行こうとするイザークのシャツの裾を
ノリコは必死でつかんで止めた

行かないで…

声にならないノリコの叫びが聞こえて…振り返ると
また泣き出しそうなノリコの顔が見えて
イザークはベッドの端に腰を下ろした

半身起こしたノリコをイザークはそっと抱き寄せる

「おれはどこにも行かん」
「ごめ…んなさ…い」

まだ謝るのか…そんなイザークの呟きがため息とともに聞こえて
ノリコはイザークの胸から顔を離すと彼を見上げた

「違うの…せっかくイザークが気遣ってくれたのに…
 でも…今は少しでも離れたくないの…」

いいよね…とイザークを見上げたノリコの瞳にはもう…
自分を責めるような迷いはなかった
ただ…ひたすら…清々しいほど潔くイザークを慕っている

そんなノリコを微笑んで見つめながら…
心のどこかで…戸惑っている自分がいることに
イザークは気づいている…


結局…二人は寄り添って一緒に食堂へと降りて行った





「パイねぇ…」

スナイパーの銃弾すらかわす男だぞ…

ベートがぽりぽりと額を指で掻いた
チャールズやカークもなにやら複雑そうな顔であらぬ方向を見ている


「だめなの…?」

ホリーが不服そうにベートを見る

「一度くらいあの無表情男の慌てた顔が見たいのよ
 どうしたら彼を動揺させられるかしら…」


「ノリコね…」
「ノリコだな」

ベートと華が同時に言った

「彼を動揺させるって言ったらノリコに何かあった時だと思うけど…」
「だが…動揺したからと言って慌てるとは限らないけどね」
「そうだな…今日も無茶苦茶な運転だったわりには落ち着いてたもんなぁ…」

カークが思い出すだけでも寒気がするように身体を震わせた

「そう言えばノリコが記憶をなくしたってわかった時だって
 逆に表情は冷ややかになったわね」

やっぱだめね…と、悔しそうにホリーは親指を噛む


「いや…そうとは限らないかも…」

最初の日の出来事を思い出したベートがそのことを話すと
ホリーと一緒に華までがびっくりする

「イザークが赤くなったの?」
「ああ…」

思い出したチャールズがくすっと笑った


それに…とベートが続ける

記憶を無くしたノリコから連絡が途絶えた時も…
イザークの集中力はみごとに消え失せていた

なんでも…外出中は30分ごと
ノリコはイザークに無事を連絡することになっていたらしい
ホリーはそれを聞いて…またぶち切れていたが…



「ノリコの身になにか起こったら…かえって集中するけど
 彼女のことが気になると注意が散漫になることもある…」

そういうことね…とホリーは腕を組んで考える

「要するに…何かノリコのことで彼の注意をそらせばいいのね
 その隙にパイをぶつけるのよ…」

そんなことが出来るの…と華が疑い深くホリーを見る
うーんとしばらく考え込んでいたホリーが頭を上げた

「もし…ノリコが誰か他の人を好きになったりしたら…」
「あり得ないわ…!」

あまりにも即座に華がきっぱりと否定したので
ホリーは少しむっとして華を睨んだ

「もうっ…ハナったら… 最後まで聞いて…
 本当に好きになるんじゃなくてさ
 イザークがそう誤解するように仕向けるんだってば…」
「そんなことができるの…?」
「ええ…例えばね…カークがノリコに訊ねるのよ…」

二人の口調を真似てホリーは話した

『ノリコ…子猫は好きかい…?』
『ええ…大好きよ、カーク』

「このノリコのセリフだけをイザークが聞いたら
 きっと誤解して慌てるんじゃないかしら…」

自分の考えが気に入ったホリーはすでに成功を確信してにっこりと笑った
華は呆れたように首を振って言う

「そんな都合良く…」
あほ!

華の言葉を遮ってカークが怒鳴った

「な…なによ…」
「そんなこと…おれ絶対にしねぇからな…」
「なんで…だめなの?」
「だめに決まってんだろ!」
「彼…動揺すると思うんだけどなぁ …」
「動揺した挙句…きわめて冷静におれをぶちのめして終りだ」
「やだ…カークったら…大人しく殴られるって言うの?」
「…おまえな…」

そういやホリーは縛めが解かれた途端…
興奮してぶち上げまくりながらパトカーに乗せられたから
気づいてなかったんだ…あの館の様子を…

 
カークは今さらながら
得体の知れないイザークの強さに肌が粟立つ


伊達にガキの頃から喧嘩に明け暮れてたわけじゃない
相手の実力を計れるくらいの修行は積んでいるつもりだ
だからホテルの前で胸ぐらをつかまれた時にもうわかっていた

あいつにはかなわない

今日だって…


車が急ブレーキをかけて止まった途端…安堵から力が抜けたカークは
へたへたと後部座席の床に膝をついてしばらく動けなくなってしまった
その為…少し遅れて館の中へ入って行ったのだが…

ぶっ壊されたドア…
玄関ホールや階段にぼこぼこにやられて転がっている子分たち…

まるで嵐が通り過ぎた後のような惨状を目の当たりにして
言葉もなくカークは立ち尽くしたのだった



せっかくの名案を即座に却下されたホリーは
はたと行き詰まってしまった


「でも…多分…」

突然…クロエが明るく言った

「もしノリコが…」



「もしノリコが…?」

食堂の入り口にドアの枠に片手を当てたイザークが立っていて
皆一瞬息をのんだ


「なんの話だ…」
「あら…」
「も…もしノリコが…記憶を取り戻さなかったら…どうしたのかなぁ…って」

困って口を押さえたクロエに代わって
ホリーがにこっと(焦って)微笑んだ


「ご心配をおかけしてすみませんでした…」

イザークの傍らでノリコはぺこんとお辞儀をした



「典子…落ち着いたのね…」

華が気遣うように言った


二人が攫われたことをベートに知らせた後…
ベートに言われるまま…ここでずっと待っていた華だった

ノリコとイザークは思ったより早く戻ってきたけれど…
狂ったように泣きじゃくるノリコを腕に抱えたイザークが
バスルームに消えたのを見送って以来二人を見かけていなかった

「うん…ごめんね、華ちゃん…いろいろ心配かけて」
「いいのよ…それより、無事で良かった…」

華はイザークのシャツの裾を
しっかりと握りしめているノリコを見て微笑んだ


その後の夕食はノリコの記憶が戻ったことを喜び合いながら
楽しく進んでいった

ホリーやクロエが是非そうして欲しいと言うので
日本に帰るまで二人はこの館に滞在することにした
もちろんそう言ったのは…せっかく仲良くなれたノリコと
離れがたい気持ちからだったが…

ちらりとホリーは相変わらず会話にも加わらずに
無表情で食事をしているイザークを盗み見ると
きりっと眉を上げたのだった





「あたしが記憶を失って…イザークは…傷ついた…?」

イザークの広い肩にこつんと頭をのせたノリコが訊ねた

少しだけ欠けた月が庭を明るく照らしている

食事が終わった時
ノリコが何か話したそうにしているのに気づいたイザークが
ノリコの手を引いて庭に出ると二人は並んでベンチに座った

「そうだな…だが…」

ノリコの長いまつげが不安そうに震えている

「…覚悟はあったんだ…」
「覚悟…?」

ああ…と言いながら…
イザークは膝の上にある手をぎゅっと握りしめる

自分の心の中だけにしまっておけばいい思いを
誰かに話すのはいまだ抵抗がある

「…おまえと再び会える前に…」

イザークが語り出した話にノリコはじっと耳を傾けた


そうなんだ…

自分の世界へ戻ったあたしが
あの世界のことを…
イザークのことも…
全て忘れたかもしれないと…
イザークはそう覚悟していたんだ


イザークのことを忘れたりするはずがない…

三日前のあたしだったら…きっと無邪気にそう答えていた
そんなことを考えた彼を責めていたかもしれない…


「イザークはエラいなぁ…」

そう言ったノリコを不思議そうな顔でイザークは見た

「だって…ちゃーんといろんなこと考えているんだもの…」
「…そんなことはない」
「そうだよ…あたしなんかさ不安を感じたらすぐ
 恐い…ってイザークに甘えて…
 いっつも…感情に押されて行動してばかりで…」
「おれはそうは思わんが…」
「え…」

絡めた両手の指に落としていた視線をノリコはイザークに上げる
目に入るのは彼の優しい微笑み…

「ノリコが言う感情とは…
 無意識に考えた上での結果なんだろうな」
「…」
「おれもそんなノリコの『感情』に随分助けられた」
「イザーク…そ…そんなことないってば…」

ぽっと赤くなったノリコが手を振って必死で否定をする姿に
イザークの口元がくっと上がった
は…っとしたノリコが眉を上げ…責めるように言う

「イザークったらまたからかってるの…?」
「いや…」
「うそ…!」
「うそではない…」

「でも…」

ノリコが再び視線を下ろし、しゅんと肩を落とす

「…イザークは何も言ってくれないもの…」
「…?」

ノリコが何を言いたいのかがわからずイザークは首を傾げた

「イザークだって…不安に思うことあるよね」
「なぜ…そんなことを訊く?」

ノリコは華が教えてくれたと言った

「眠ったあたしを抱きしめて…
 切なそうだったって…ホントなの…?」
「…」
「イザーク…?」
「…まあな」

そう言いながらイザークは顔をそらした

「どうして…?」
「それは…」

言葉を濁すイザークの腕をひしっとノリコが掴んだ

「やっぱり…あたしじゃ…だめなんだね?」
「え…」

イザークはそらした視線を再びノリコに戻した

「…いつかも『消えないよ』なんて約束して
 消えちゃったもんね…二度も…」
「あれは…おまえの所為じゃない…」
「だから…頼りなくって…
 あたしには不安とかは打ち明けてくれないの」
「ち…違う…」


あれ…?

夢中でしゃべっていたノリコだったが…
そこではじめて、イザークがなにげに照れていることに気づいた

「イザーク…?」


「おれは…」

じーっとノリコに見つめられたイザークは
少し赤くなった顔で仕方なさそうに言った

「おれはおまえが慕ってくれることに…いまだ慣れないんだ…」
「え…」

イザークは、ぽかんと口をあけたままのノリコの頭に手を当てると
半ば強引に…ぽすっと自分の胸に押し当てた


顔を見られたくないんだな…

イザークの胸に顔を埋めさせられたノリコは
そう思うとなんだか可笑しくなってきたのだが…



「おれは…幼い頃…」

低く囁くような彼の声が耳元で聞こえてくる

「誰かに…愛されたいと…ずっと願っていた」


ずきん…

イザークの言葉にノリコは胸が締め付けられるような痛みを感じた


「だが…家を出た頃には…もう諦めていたんだ」

自分の運命から逃れたくて…
人と関わるのが恐ろしくて…
ずっと孤独のままに生きていこうと思っていた

「ノリコと出会って…初めて願いが叶ったが…」

それでも不安が常につきまとった

ノリコがいなくなったら…
ノリコが消えてしまったら…


「またあたしが消えちゃうって心配しているの…?」
「いや…」

表情は見えなかったけど…
イザークが微笑った気配がして、ノリコはほっとした

「今のおれは…おまえがどこにいこうが探し出す自信がある」
「…だったら何が…?」


愛することはできる…
何のためらいも無くおれはノリコを愛している…

なのに…

「おれは…誰かから愛されるということを
 潔く受け入れることができないんだ」

おれの全てを受け入れ…
慕ってくれるノリコという存在が眩しすぎて
つい目をそらそうとする情けない己の心…

ノリコがこの腕の中にいるというのに…
ふと心の奥深くから染み出てくる懐疑心 …

こんなおれが…
本当に愛されていいのだろうか…


「イザーク…」

切なそうなノリコの声…
おれの話に心を痛めてるんだろうな…


そんなことはないよ…と
おれは彼女に否定してもらいたいのかもしれん…

そう思って…ため息をつきそうになったイザークの耳に
ノリコの声が続けて聞こえてくる


「あのね…」

ノリコは胸の中で…
可愛らしくさえずる小鳥のようで…
ただ愛しくて…
イザークは頭を押さえていた手をずらすと
両腕でその華奢な身体を包み込んだ


「あたしには…なんの力もないけど…」

そう言って…
顔を上げたノリコの瞳は穏やかに澄んでいた


ああ…違う…

ノリコはおれを決して否定しない…
ただ受け入れるんだ
どんなおれでも…


イザークは自分の浅慮に自嘲することしかできなかった


でもね…と言って無邪気に笑うノリコ…
イザークは彼女を抱く腕にぎゅっと力を込めた


「イザークが好き…っていう気持ちだけは自信があるんだ」
「…」


イザークが好き…

その気持ちだけで…
あの世界でどんな困難も乗り越えられてきたんだもの


「…おまえは強いな…」

イザークもノリコに応えて穏やかな笑顔を返した


白霧の森を抜けた後で力の制御が効かなくなって変身したおれを
占者の館で記憶すら失いかけたおれを
もう少しで元凶に天上鬼にされかけたおれを

救ったのはノリコだった


その想いがどれだけの力を持っているか…
イザークにはわかっている


「ラチェフに捕らわれた時もね…
 イザークを想ったらひとりシンクロできたんだよ」

ノリコに取っては…それは、イザークのおかげなのだ…

「光の世界をみつけられたのは…みんなのおかげ…
 でも…最後はイザークが好きっていう想いのおかげ…」

にこっ…とノリコは最高の笑顔をイザークに贈った



「だから…あたし…もっとイザークのこと好きになる」
「ノリコ…」

戸惑ったようなイザークを気にもせずにノリコは続ける

「記憶を無くした時だって…すぐに…
 あんなにもイザークのことが好きになっていたんだもの…」

微笑んではいるが…ノリコの声は震えていた

「イザークが…慣れないなんて言えなくなるくらい…
 もうそれが当たり前に思えて…いい加減いやになるくらい…」

ノリコの瞳からは…もう涙がぽろぽろと溢れ出している

「もっと…もっと…あたしはイザークのことを好きになる…」

あたしにできることは…それしかないから…


「ノリコ…」

それ以上…何も言わせないとイザークはノリコの口を塞いだ


月明かりの中…長いこと二人の陰は重なったまま離れなかった






ニューヨーク8日目
日本へ帰る日だというのに…朝からひどいどしゃ降り…
でも天気予報では、あたしたちが飛び立つお昼頃には晴れるらしい
ニューヨークでの一週間…
あたしは記憶をなくしちゃって大変だったけど…
その結果…イザークとの思いが今まで以上に強く結ばれた
そういう意味で…すごく大切な旅だったのだと思う





「…既視感あふれる光景だな…」

ベートがぼそっとつぶやいた


今日旅立つみんなをホリーが空港まで送ると言うので
華とベートはホリーの館にやってきた

車庫にある大きなアメリカサイズのSUV車に
荷物を詰め込んでいざ出発という時…


「ノリコは助手席に座って」

ホリーはノリコと離れがたい気持ちでそう言ったのだが…

何も言わずに…ぐいっとノリコを後部のドアの方へ押しやると
イザークは助手席のドアを開けた


「ちょっと…あたしはノリコと座りたいって言ってんのよ…」
「あんた…免許取ってどのくらいだ…」

イザークの問いに一瞬ひるんだホリーだったが…

「さ…3ヶ月よ…」

それがどーしたの…と開き直るホリーに
ふん…とイザークが鼻をならしながら重ねて訊く

「高速道路を走ったことは…?」
「遠出する時は、いつもカークが運転するもの!」

どしゃ降りの雨で視界すら霞む外をイザークは横目で見ると…
一度開けた助手席のドアを閉め…ホリーに言う

「鍵を貸せ…おれが運転しよう…」


「や…やめろ…それだけは…!」

初めてイザークの運転する車に乗ったのが…四日前のあれで…
その時のトラウマがあるベートが思わずそう叫んだ

「…」


結局…ベートが運転して…イザークは助手席
ノリコをはさんで、華とホリーが後部席に座った


「ふん…」

最初は面白く無さそうにしていたホリーだったが

「ま…いいわ…あれが見れたのだから…」

そう機嫌を直して…ノリコたちとおしゃべりを始めたのだった




ゆうべ…最後の夜…
みんなで中庭でバーベキューをした

男たちは庭で肉を焼く準備をして…
女性陣はサラダなどの副菜造りをキッチンでしていた


「イザークってさ…」
「え…」

ホリーが急にイザークの話題を始めた
そして…声を潜めると…

「あっちの方…すごいの」
「し…知らないよ…そ…そんなことあたし…」

いきなりそう問われたノリコは…焦って絞り出すように答えた

すごいとか…すごくないとか…
どうやって判断しろっていうのぉ…

真っ赤になって固まってしまったノリコに構わずホリーが続ける


「まだノリコが記憶が戻っていないにも関わらず…
 イザークったらあなたを抱いたでしょ…」

はっきりとそう言われてノリコは返事もできない

「きっと、彼…嬉しかったのね…」

え…とノリコは顔を上げた

「たまたま廊下ですれ違ったあたしに…教えてくれたもの…」
「な…なにを…?」
「…ノリコはいつも動けなくなるとか…」

それはこの前も聞いたけど…

「その…他にも…でもあんなことは…」

あたしからは…とても言えないとホリーは顔をそらした…
(実はそれ以上のことは、イザークは何も言っていない)


ノリコの頭の中に困惑と言う名の小さな嵐が発生した


「べ…ベートも言ってたけど」

華も言い出したが…彼女にしては珍しく…ひどく言い辛そうだ

「ベートさんが…なにを?」

ノリコはひどく焦りながら華に訊ねる

「あ…あの…あなたたちが…その…」
「あの夜のことね…」

言葉を濁す華をホリーがフォローした

「その…次の日だけど…すごくイザークの機嫌が良くて…
 どうしたのか…訊いてみて…」
「訊いてみて…?」

問い返すノリコに華が顔を覆って答えた…

「ごめんなさい…これ以上は…」

とても言えない…(何も知らないから…)と華は顔をそらす


え…

頭の中の嵐は疑惑という名に変わって台風並みに吹き荒れてくる


そんなノリコに追い討ちをかけるように

「あたしに…あそこまで言うくらいだから…
 いくら普段無口でも…男同士だったら…結構いろいろ話すんじゃないの?」

わけしり顔でホリーがしれっと言った

「愛しいノリコちゃんが記憶を失っても…自分に抱かれたってさ
 やっぱ…いろいろ自慢したくなるわよねぇ…」

え…

「ベートだってさ…聞かされたこと…
 きっと…とても華に言えるような内容じゃなかったのね」


やだ…イザークったら…

嵐が憤怒という史上最大のハリケーンにまで達した頃…



「ノリコ…」

打ち合わせ通りイザークたちがキッチンへやってきた


「イ…イザーク…」
「?」

真っ赤になったノリコから恨んだ目で見られて
狼狽えたように…イザークは足を止めた

「ひ…ひどい…イザーク」

涙目で震えているノリコに
イザークがおろっとなったのを見て…

「ほれ…ノリコ…」

机の上に置いてあったお皿をホリーはノリコに手渡した


「イザークのばかぁ…っ」

パイが顔を直撃して…
イザークはぽかんと無防備な姿をさらけ出したのだった

イザークと一緒にやってきたベートやカーク、チャールズも一緒に…
大笑いした後…全員で二人に謝った



クロエが言ったのだった…

「ノリコが悲しんだり…怒ったりすれば、イザークも慌てると思うわ…」

ノリコを悲しませることは…とてもできなかったので…
怒らせることにしたのだった


わけを知ったノリコも…イザークに平謝りしたのだが…
ノリコは悪くない…と言おうとしたイザークはその言葉を飲み込んで…

「おとしまえは後でつけるからな…」

そう言うと…バスルームへと立ち去ったのだった



ゆうべ…イザークにつけられたおとしまえの余韻が
気だるく残っている身体を後部座席に押し込めながら…
ノリコは助手席に座っているイザークの横顔を眺める

これから…もっと…好きになるんだから…

ちらりとイザークが後ろに目をやると
口の端を持ち上げて笑った





朝からの雨がやっと上がって…お日様が顔をのぞかせている

空港のラウンジの天井までガラス窓に覆われているところに
ノリコとイザークが寄り添うように立って外を見つめていた


「ねぇ…」

少し離れた所に座っている華がベートに話しかける

「あの二人…ノリコの記憶が戻ってから…」

ああ…と、華が最後まで言わないうちにベートが相づちを打った

「以前は…少しは人目を気にしていたんですけどね…」



「きれいだね…」

雨上がりの空にくっきりと虹が浮かんでいた

「どこの空だって構わない…これからも一緒に見ようね」


イザークは無言で…
そう言って微笑むノリコを両手で抱きしめている



コホンコホン…と咳払いが聞こえて二人はそちらを見た

「お邪魔して悪いんだけれど…そろそろ搭乗が始まるよ…」

それだけ伝えると…ベートはきびすを返して華の方へ戻った

帰りのチケットは…華とベートはイザークたちとは離れて
ビジネスクラスにしてあった



「行くぞ…ノリコ」

ノリコの手を握ってイザークは搭乗口へと向かう

「うん…イザーク」

ついていくよ…ずっと…

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by 彼方から 幸せ通信