再会…そして6



窓に反射するヘッドライトの光で、家の前に車が停まったことがわかった
机の上の置き時計に目をやると、長針は11の所を指している

ぎりぎりだな…

けれどノリコが家に入ってくる気配はなかなかしなかった



名残惜しむように何度も唇を重ね合わせている二つの影…
やっと身体を離した男が、促すように玄関の扉へ視線を向ける
頷いて家の中へと入って行こうとした娘が
最後に一度切なげに振り返ってからその姿が扉の向こうに消えた


「お客さん…」

車内へ戻ってきたイザークに
タクシーの運転手が呆れたように話しかけた

「まるで…今生の別れのようでしたよ…」

それを無視して元の場所へ戻るようにイザークは指示するが
懲りずに続けて言った

「…明日会おうって、さっき約束してましたよね…」

バックミラー越しにイザークから睨まれて
運転手は肩をすくめると、それ以上何も言わず車のエンジンをかけた



玄関の扉が閉まって、ただいまと言うノリコの声とともに時計が11時を告げた

はぁ…っと、父親がため息をついてがっくりと肩を落とした



「典子…お風呂は…」
「いい…今日はもう…」

目を合わせようとせず
少し足元が頼りなげに階段を上がって行くノリコの後ろ姿を見送りながら
母親はくすっと笑った

そう言えば…イザークと再会したという夜も
ノリコはなかなか目を合わせようとしてくれなかった
なにか、恥ずかしいことや後ろめたいことがあると
素直な性質のノリコは上手くごまかす事ができずにそうしてしまうのが
小さい頃からの彼女の癖だったのを思い出す

でもあの事件の後…いつもどこか遠くしか見ていなくて
目を合わせることすら少なくなった日常のうちに忘れていたのだ


「恥ずかしいことや、後ろめたいことね…」
何かしらね…ノリコ…



イザークは自宅がある建物からかなり離れた場所で車を降りると歩き出した
自分の部屋が見張られているのはわかっている
タクシーの運転手からノリコのことが知られるのは避けたかった





「ねぇ…イザーク…怒ってるの?」

今日の午後…

駅に向かって歩き始めたのはいいけど
イザークが不機嫌になってしまったような気がして
ノリコは、恐る恐る訊ねてみた

「…いや」
彼がそう言って微笑ってくれたので
一安心しておしゃべりを始める

お天気のこと
教授の面白い癖
友人達との会話(でも結婚についてのところは省いた)

そして…

「あのね…」
「…ん?」
「あたし…イザークと入ってみたいカフェがあるんだ」

そう言って照れた顔でイザークを見上げた

「そうか…」

いつものイザークの…いつもの短い相づち…
それすらも嬉しくて…ノリコは話し続ける

「それに…暗くなったらね…」
「ノリコ」

イザークは急にノリコの話を遮ると立ち止まった
不思議そうに自分をみつめるノリコと
自嘲気味な笑みを口の端に浮かべながらも視線を合わせる

「カフェは…次の機会でいいか…」
「イザーク…?」
「必ず…行くから」

イザークの…その声の響きに覚えがあった
あれは…彼に初めて抱かれた時…
抑えた口調の後ろに秘められている彼のもう一つの顔…

「う…うん」

イザークが 望んでいることを理解したノリコが
握った手を口元にあてて恥ずかしげに頷く
その手をつかむとイザークは再び歩き出した




玄関の鍵を閉めた途端…
抱きしめられ、唇を奪われ…抱き上げられた
うねるような奔流に意識が飲み込まれて…
そこで靴を脱いだのか…それすらも定かじゃない
口づけたまま、ふたりしてベッドに倒れ込んだのは覚えている

でも…その後は…
記憶が波間を浮かんだり沈んだりしていって…

ただ…愛している…と何度も繰り返された囁きだけは
耳の奥深くにしっかりと刻み込まれていった



開いた目に映ったのは一週間前と同じ…無機質な部屋
まだ夕方で明るいせいか、 一層その印象が強くなった

壁は白、家具は黒…
フローリングの床だけがかろうじて木の温かさを醸し出して
そこに脱ぎ捨てられた服がこの部屋の秩序をいい感じに乱している



愛しい人がすぐ傍らにいた


ノリコはその腕を枕に、彼にすがりついている自分に気がつく…

「…やだ…あたしったら」
赤くなった顔でちらっと上目遣いで彼を見ると
身体をこちら側に向けているイザークと目が合った

彼はずっとそうしてあたしを見ていたのだろうか…
…少し…眉をひそめている…

「イザーク…どうしたの…?」
イザークの様子が気になったノリコが不安そうに訊ねた


「随分…痩せたんだな」
イザークはノリコの浮き出た鎖骨を指でなぞった

夕日が、自分の肋骨まで透けて見えそうな身体を
イザークの目に晒していることに気づいて
ノリコは慌ててシーツをたぐり寄せた

三年間…食欲などあったためしがなく
かろうじて細い食をつないでいた結果だった

イザークの表情が痛々しそうに翳っているのが悲しくて…


「いやだよね…
 こんな貧弱な身体…」

そう言った途端…なんだか情けなくて…涙までこぼれきた
彼とは反対の方向に寝返ったノリコを
ぐいっと、頭の下にあった腕が彼の胸まで引き戻す

「ノリコ…今日は変だ…どうした」

言われなくても気づいていた…
幸せなはずなのに、なぜだかわからない不安がまとわりついて…


イザークが ノリコの顔を彼の方へ向かせると
視線をしっかり合わせる

「…」




「朝からね…何度もむこうの世界のことを思い出していたの…」


イザークはただ黙ってノリコを見つめたまま、答えを待っていた
そんな時の彼の沈黙はひどくノリコを動揺させて
気がつくと言葉が溢れ出している


「イザークが天上鬼であたしは目覚めだった…
 最初はショックだったけど…
 その運命であたしたちは結ばれていたでしょ」

お互いが特別な存在だった

「でも…ここではあたしは何の取り柄もない普通の女の子で…
 イザークは相変わらず強くてカッコいいのに…」

ひどく不釣り合い…

「…こんなこと言って…イザークは怒るだろうけど…」

イザークがあたしの手に届かない存在になってしまいそうで…
ただ恐ろしい…

「どうしてだか…わからない…」
口を手の甲で抑え…嗚咽をこらえるが
涙を止めることができずにぽろぽろこぼれてきて
彼の胸を濡らしてしまっている




「ノリコは…ずっと闇の中にいたんだな…」

黙ってノリコの話を聞いていたイザークが、天井を見上げた
ノリコの痩せた身体を見た時よりもずっと苦いものが心にこみ上げてくる


一度闇に身を沈めてしまったら
たとえそこから抜け出せたとしても…
無意識に…再びそこへ戻ってしまう原因を探し出して…

囚われてしまう…

そのような不安ならおれは嫌という程味わってきた…
だが、ノリコは闇とは無縁な存在だったのに…


おまえには、そんな思いをさせたくなかった…
と口の中でつぶやくイザークの横顔が辛そうで
ノリコは思わず…ごめんなさい…と謝ってしまう

その細い身体を小さく丸めて自分の胸にすがりついているノリコを
イザークは切なげに見つめた

おしゃれなどしても…しなくても…
体型がどうであろうと…
ノリコはノリコでしかないと言うのに…

だが…今のノリコにそんなことを言っても
気休めにしか聞こえないだろう…



「ノリコ…」
「うん…?」

名前を呼ばれて顔を上げたノリコにイザークは優しく微笑み返した

「腹が減ったな…」





「女連れで部屋に入って行きました」

彼のマンションの前に車を停めて張り込んでいた刑事が上司に報告している

「 …写真は撮っただろうな…」
「それが…」

姿を現したのを確認してから建物に入るまで
なぜか女の姿は、こちらから見えないよう常にイザークの身体で隠されていた

「くっ…」
悔しそうな上司の舌打ちが携帯から聞こえてくる

「女が帰る時、つけて行って身元を確認しろ」
今度は絶対見失うなよ…と厭味っぽく念を押すのを忘れずに指示が出された

「あ…それから…」
「なんだ…?」
「先ほど彼の部屋にピザの出前が届けられました…」




「もっと食え…」
イザークは小さく切ったピザを一切れノリコの顔の前に突きつけた

「む…無理、もう一杯食べたもの…」

けれどもイザークに目で促され
しかたなく口を開けると、それが押し込まれた
もぐもぐと口を動かして一生懸命食べているノリコの姿に
イザークは可笑しそうに顔をほころばせる

「…む…んぁ…」
それに気づいたノリコが少し怒った顔でイザークになにか言おうとしたが
言葉にならない

「いいから…黙って食え」


ベッドの上に寄り添うように座って、ピザの箱を膝の上に広げて食べていた
こんなお行儀の悪いことをしたのは初めてで…
それがノリコの心を不思議と浮き立たせている

さっき落ち込んでいたのが嘘みたい…

はっ…と気づいてノリコはイザークを見た

「…?」
どうした…というようにイザークは首を傾げる


彼はさっき何も言ってくれなかった…


『消えてしまわないでくれ…おれの前から…』
『消えないよぉ…やだなぁ…』


たとえ本心から出た言葉にもかかわらず
それが時として残酷に人を裏切ることを今のあたしは知っている
イザークは…そんなことはとっくにわかっていたのだろう



「イザーク…あたしを太らせようとしている…」
またうるっときそうになるのを慌てて避けようとして
ノリコは責めるようにイザークに言う

「やっぱり…いやなんだね…」
こんな身体…と、言ってしまって
ちょっと厭味っぽかったかな…と後悔した

「ここは…相変わらずだが…」
イザークは気にもとめずに…トマトソースで汚れた指を
身体に巻き付けているシーツの隙間からノリコの胸に触れさせた

「やだっ…汚い!」

ノリコがあげた抗議の声にイザークは片眉をあげると
その口元に悪戯な笑みを浮かべた

「悪かったな…」


「あ…あの…イザーク?」
嫌な予感がして…ノリコはそっと身を離そうとしたが、すでに遅く…

「きゃっっ…」

荒々しくシーツをはぎ取ると
イザークは自分が汚した個所を舌でなめてきれいにしはじめた

「…イザーク…っ…」

そのまま唇を浮き出た鎖骨に這わせキスを繰り返し
その手が彼女の痩せた身体を優しく撫でまわし始める


ピザの箱が音を立てて床へすべり落ちていった…


イザークの愛撫に再び翻弄されて
ぐったりと身体を預けてきたノリコをそっと横たえる

重ねられた彼の身体の温もりを感じながら
その想いが…優しさが胸にしっかりと染み入っていくのがわかった





ふぅっとノリコはそっと息を吐きながらコートのボタンを留めた


彼と一緒に過ごしためくるめく時間を思い出して…
ノリコは熱く火照る頬を手のひらで包んだ




あの後…イザークが面白がってあっちこっちをべたべたと触ったので…
髪までべとべと汚れて…

向こうの世界で彼は、ときどきふざけることはあっても
こんな子供じみた真似をしたことはなかったのに…
彼は変わったのかしら…
それともあたしを慰めるため、わざとしているの…


「っもう…イザーク」
半身を起こしたノリコがイザークを恨めしそうに見た

「シャワー…借りるね…」
シーツを身体に巻き付けて足を床につけるが
力が入らなくてふらっとしたところを、後ろからすっと抱き上げられた

「言っただろ…」
耳元で囁かれて…ほんの少し前まで…
彼から散々翻弄されていた身体がびくんと反応する

「これから…一緒に風呂に入れと…」

「…」




汚れた身体と髪はイザークがきれいに洗ってくれた…


「後悔したんだ…」

イザークは浴槽の中で
その膝の上にノリコをのせると背後から抱きしめた

「…何を…?」

お風呂場の人工的な照明に照らされながら
全身を余すところなくイザークに見られてしまったノリコは
羞恥に身体を朱に染めあげている


恥ずかしいと、赤くなるのは顔だけではないらしい…

初めての夜を思い出して、イザークは表情を綻ばせるが…
そのまま言葉を繋いだ

「おまえを…元の世界へ戻せると言ったことを…」

どれだけ不本意であっても…おれの口から出てしまった言葉…
それに力が宿り言霊となって…
おれたちの間を引き裂いたのではないかと…


ううん…とノリコは首を横に振った

「イザークがそう言わなくてもあたしは ここに戻されたと思うよ…」

それが定められた運命だったのだと、ノリコは言った

「…でも、イザークはきてくれた…」
運命に逆らっても…あたしに会いに…

「おまえの声がおれを呼び寄せたんだ」
「そうかな…」

ノリコは嬉しそうに微笑んで、イザークの胸にもたれかかる
背中に直に伝わる彼の筋肉質のしまった感触が心地よくてうっとりと目を閉じた

「強く願えば…運命は変えられるんだね…」
あの時と同じように…

「…だから…もう、あたし恐くない…」

心配しないで…と言うノリコをイザークは両腕でしっかりと抱きしめた



「今ね…やっとこの世界に戻ってきて…初めて…
 頑張りたい…って思うことができたの…」

「…」

「何を…どうしたいのか…まだよくわからない…
 イザークは笑うかもしれないけど…」

おしゃれしたり…ちゃんと食べることとか…
それもそうなんだ…


やっと以前の自分を取り戻せたような気がした

「今、できることを探して…頑張るよ…あたし…」

「ああ…」
イザークはノリコの首に顔を埋めると囁いた

「ノリコは…ノリコのままで…頑張ればいい」


無理するな…と言ってくれているんだ
彼の気持ちは嬉しかった

嬉しかったけれど…


イザークの息が首筋にかかり…身体の芯がまた熱く疼いてくる

再び弄ぶかのように身体を撫で始めたイザークの悪戯な指を
ノリコは必死の思いで身体からはがした

「…もう…だめ!」

その手を自分の手の甲にのせて、もう一方の手でばちんと叩いた

「…」





「テ…テロリスト…!?」

エレベーターで下に降りるかと思えば
上のボタンを押したイザークにノリコがその理由を尋ねると
警察が見張っているから…とイザークは言った

「でも…今朝警察へは行ったんでしょ?」

屋上に向かいながら、イザークは今朝の一部始終を説明したのだった


「心配しなくていい…今ここを見張っているのは警察だけだ
 だが…ノリコの身元が知られるのはなるべく避けたい…」

「そ…そういう問題じゃなくて…テロリストだよ…イザーク」
「…?」
「だ…大丈夫なの?」
「…元凶と戦うよりはずっとましだと思うが…」

そうかなぁ…と考え込むノリコをイザークがいきなり肩に担いだ

「…!」

屋上から屋上へと数回跳んで移動したイザークは
最後は道路へと一気に飛び降りた

ダンっと地面に着地した後、ノリコを下ろす

「立てるか…?」
「…っもう…いっきなりなんだから…」

今度は目眩を起こしてふらつくノリコの身体を支えると
先の角に待たしてあったタクシーに乗り込んだ



ノリコを送った後、同じ場所でタクシーを降りたイザークは
今度は徒歩で自宅へと向かった




「彼が戻ってきました…」

部下が恐る恐る上司に報告した…

「なんだと…どういうことだ?」
「ですから…どこからか自宅に帰ってきた…ということです」

馬鹿モーンという怒声が聞こえて思わず携帯を耳から離す…

「出て行ったのを見逃したのか…」
「はぁ…でも、出入り口は全て監視下に…」
「もういい…!明日はきちんと追跡するんだぞ」

双方ともにそれは不可能なことだと
確信とすら言ってもいいほどの予感がしていたのだが…









 

 おまけ ある支社長の嘆き




はぁー…っと何度ため息をついたことだろう


結構長く努めていた企業にリストラされたが
運良く、中堅の警備会社のマネージメント部門に就職できたのが
もう5・6年前のことか…
そこで地味に働いていたおれに
降って湧いたような話しが舞い込んだ


外資系の警備会社の支社長…

このおれがヘッドハンティングだと…


警備関係に詳しいのと
学生時代に数年留学していて英語が堪能なのがポイントだったようだ


業務内容は
支社の立ち上げと、警備員のマネージメント

給料は今の会社より、まあ…少しましかな…という程度だが
この業界のものなら誰もが知っている
超一流の会社だ…
その日本支社長…という身分におれは惹かれたんだな

本社からの指示通りに都内のビルの一室を借りて
支社とやらをオープンした
別に仕事を取れやら、有能な警備員を探せなどという…
そんな指示はなく…

ただ…本社から派遣される男の世話をしろと…
奴の居場所を把握しておけと…

それがおれに与えられた仕事だった


取り敢えず、マンションに部屋を借りて
必要最低限の家具を用意した…


やって来た奴とは…その部屋で一瞬だけ挨拶をして別れた…

ひどく無愛想で…
「おれにかかわるな」というオーラを放っている…
そして…めちゃくちゃいい男だった

こいつが警護を職とする奴だとは信じられなかった
おれのイメージするその手の職種の人間は
角刈り…長髪なんて仕事の邪魔だろう
レスラーみたいながっちり体型…
こんな細っこかったら取っ組み合いになったら勝てるわけがない
野卑とまでは言わないが…間違っても上品な雰囲気などと無縁な輩

全然違うじゃないか…
からかわれているのか…おれは?


奴の居場所を把握するのがおれの仕事だったが…
そんなことは土台無理だということに気づくまであまり時間はかからなかった
まさにミッションイン ポッシブルだ

最初の日に連絡用に携帯を渡したが
奴にとって携帯とは
自分が連絡を取りたい時だけ電源を入れるものらしい…

おれにあいつのストーカーをしろとでも…


初めての仕事の連絡がニューヨークの本社から届いた時は
しばらく呆れて立ち尽くしてしまったものだ

ヨーロッパだと…

わざわざ日本に支社を作って
奴を寄越してきた意味がまるでないじゃないか

しかも送られてきたはヨーロッパへの航空チケットのみ

仕事内容・スケジュールなどは、向こうで奴のパートナーとやらが知らせると…

なんだ…この疎外感は…


しかも彼がつかまらなかった

留守電にメッセージを残しても、メールを幾通送っても…
まったく何の音沙汰もなかった
明日が出発という日になっても彼は連絡を寄越してこなくて…
おれはもうクビを覚悟したんだ

やつのマンションの部屋に合鍵を使って入った

机の上に、パスポートやら経歴を書いた書類が置きっ放しだった
随分不用心だな…と思ったんだが
経歴を読んで、思わずひゅっと口笛を吹いてしまった

ホントなのか…
フィクションみたいだな

航空チケットと、「乞、連絡」と大きく書いたメモを残してその場を去った

その夜遅く…やっと連絡があって
仕事には行く…と、短く言った後…

「鍵は返してほしい…」


おれが留守の間に部屋に入ったのが気に入らなかったらしい
好きでやってるんじゃない…
少しヤケになって奴の郵便箱に鍵を放り込んだ


10日間の仕事だと聞いた
10日間は 奴がどこにいるのか心配する必要はなく…
落ち着いて、立ち上げた支社の雑務に集中できると…思っていたのに…


7日目…
まずニューヨークの本社から、戻ってきた奴の身柄を確保しろと連絡が入った

奴の身柄…?帰るのはまだ4日先ではないのか…

今更空港に駆けつけてもすれ違いになってしまう
どうしたものかと考えながら
支社という名の小さな事務所で待機していた

そうしているうちに電話がガンガンかかってきた

警視庁特殊部隊責任者…
千葉県警空港警察署…
国土交通省の役人…
そして公安までが…
奴の行方を探していた


奴の携帯は相変わらずつながらない…

おれがほとんど恐慌状態…パニックを起こしていたところに
奴の友人という人物が突然事務所に現れた

へらへらと笑いながら、明日は現れるから心配しなくても大丈夫だと
おれの肩をポンと叩いた

「それより…どこかいいホテル紹介してよ…」

ホテルと言ってもピンからキリまである
取り敢えず奴のことで悩むのはやめて
どこが…と、考えている時に国土交通省のお偉いさんが直々にやって来た

「役所から近いので直接きたのですが…彼の居所はわかりましたか」

その問いは、おれを再び現実の奈落へと落としていった

「彼なら…明日には出頭しますよ」
相変わらず捉えどころのない笑顔で奴の友人が答える

そのふたりは、なんだかすっかり意気投合して…
奴の話で面白そうに盛り上がったと思ったら

「うちの役所御用達のホテルを紹介しましょう…」
などと肩を叩き合い、夕飯も一緒になどと言いながら出ていった

また、ひどい疎外感に襲われた


もう…どうしていいかわからない…

頭を抱えていたら携帯の鳴る音が聞こえた

そこに表示された送信者名を見た途端…
驚き…安堵…怒り…感謝…苛立ち…
そんな混ぜこぜの感情が一気に押し寄せて…


「…イザーク…おまえか…?」
「ああ…おれだ…」

「イザぁーーークっっーーー!」
おれは思わず大声で叫んでしまった


「大声を出さなくても聞こえる…」

奴の妙に落ち着いた声が気に触った…
いったい誰の所為で…おれがこんな目に会っているのか…

「警察があんたを捜しているんだぞ…」
「警察へは明日出頭すると…ベートに伝えておいたはずだが…」
「あんたの友人の言うことを…どこまで信用しろというんだ」
「言っとくが…あいつはおれの友人ではないぞ…」

そこかい…
思わず突っ込みそうになるのを抑えて…

「とにかく…すぐにここへ来い」
「いや…今は無理だ…」
「何言ってるんだ…あんたは…警察と言っても…特殊部隊から空港警察…
 ああ公安と国土交通省の奴までがあんたに会いたがっている…」
「は…?おれが一体何をしたというのか…」

暢気なものだが…
こいつは自分がなにをしでかしたのかわかってないのか…

「機長を脅かして行き先を指示したそうじゃないか…」

「脅かしてなどいない…頼んだだけだ…」

こいつが誰かに頼みごとをする姿が想像できない…

「これは上司命令だ…今すぐここに来い」
「…断る」

即答で断られて…おれはぷちんときれた

「何勝手なことばかり言ってるんだ
 あんたの所為でどれだけ迷惑をかけられたことか…
 いい加減におれの言うことを聞いたらどうだ」
「うるさいぞ…」
「ここは法治国家だ…警察の要請に従うのが一般市民の義務だぞ
 それを無視するというのなら…あんたは立派な犯罪者だ…」
「うるさい…」
「上司に向かってよくそんな事が言えるな…いいか…もう一度言う
 今何をしているのか知らないがそんなものはほっといて…すぐにここへ来い…
 でないと本社に言ってクビにしてや…」
「おれの邪魔をするな…!」

淡々と話していた奴だったが
最後にいきなり叫ぶと…ぷつんと通話が切れた
もちろん…その後何度かけても通じない…

おれは本社に提出する辞表の文章を、まじに考え出した…


翌朝…警察の建物の前で待っていると、奴の友人…じゃないか
まぁどうでもいいが…そいつもやって来て
相変わらずニコニコ笑いながら面白そうに言った
「彼…来るかな…」

昨日おまえが、奴は今日来ると太鼓判を押したんじゃないか…
思わず突っ込みそうになった時、目の前でタクシーが止まって奴が降りてきた

おれにこっちへ来いと目で合図するので行ってみると

「払っとけ…」

タクシー代を払わされているうちに、奴の姿が建物に消えた

「…」


ものすごい脱力感に見舞われているおれの肩を
やつの友人と称しているベートという男がぽんと叩いた

それがこいつの癖らしい…

「楽しむことですよ…それが一番です」

何を…楽しめと言うのか…
このおちゃらけた楽観主義者が…
そんなこと出来るわけがない…と思ったのだが…


一時間もしないうちに奴が建物から出てきた

「携帯が壊れた…新しいのを用意しろ」
それだけ言うと、さっさと去って行く

追いかける気ももうなくて…奴の後ろ姿を見送っていると
その辺に何気に立っていた男達が一斉に奴のあと追いはじめた

「あれは…」
「どうやら…監視がついたようですね」

ベートが目の上に手をかざしながら面白そうに言った
本当に…こいつは何でも楽しめるのかと感心する

だが…数分もしないうちに公安から携帯にかかってきて

「君…彼はどこに行ったか知っているか」
「いや…でも奴の居所なら…あなたたちが追跡しているのでしょう?」
「見失ったんだ!」

ぷつんと切れた携帯を見ながら
いつの間にかくっくっく…という笑いがこみ上げてきた

肩を震わして笑っているおれにベートが、そうそう…と頷きながら

「お昼…どこか美味しいお店紹介してよ…」
と人懐っこく頼んできた


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